その4 アズキ退場
【1】異変
加奈江は、アズキを抱き上げてくんくんと、背中に鼻を押しつけてにおいを嗅ぐのが好きだった。
「カナ、それ、変」と政はよく言ったが、止められなかった。
「だって好きなんだもん」
「何が」
「アズキのにおいが」
「どこがいいんだ?」
「だってね」
頬ずりをして、加奈江は言った。
「アズキってね、おひさまのにおいがするのよ。乾いた干し草のような、とってもいいにおい。幸せな気分になれるの」
ねえ、アズキ、と言われた当の猫は、歓迎してないけれどあきらめきった顔をしてされるがままになっていた。
「そうかなあ」と言いながら政も加奈江にならってにおいを嗅いでみたが、彼女が言うお日様のにおいを感じ取れず、首をひたすら傾げていた。
「感性が鈍い」と妻にぴしっと言われた彼は、「何だよ、それ」とむくれた。
◇ ◇ ◇
夏も近づくと陽が長くなり、植物たちも一気に成長する。
すると、虫も寄ってくる。
加奈江お手製の家庭菜園は絶滅の危機を迎えていた。
幼虫の食欲は旺盛で、成虫の繁殖能力は凄まじく、あっという間に食べ尽くされ、卵を産み付けられた。
スズメやタヌキ以外の敵の出現には加奈江も参った。
かかしもアズキも全く効果がない。
羽を持ったスズメたちより小さい虫たちだ。
農薬をまく?
いえいえ、そこまではしたくない。
成長が早くて、あっという間に収穫できる作物はないかしら。
筆耕や運針の手を止めて彼女は考える。
「あなたは何を植えたらいいと思う?」
園芸店で種を探しながら、買い物に付き合わされた夫は質問を投げられた。
おすすめ品種を見ながら、政はうーんと唸り、何でもいいんだけどな、と前置きをしてから、
「オクラなんてどうだ? キュウリもトマトも、ナスもいいな」
と、苗売り場に目を配った。
かくして。
小さな菜園にはオクラとキュウリとトマトとナスが並び、早く育てと、加奈江のプレッシャーを受けまくって水を浴びていた。
その様子を、くわえ煙草でノートに記しているらしい夫を、ちらりと横目で見た。
もう、また何を描かれているのやら。
見たいような、見たくないような。
内心は複雑な思いだ。
そして、夫の隣で寝そべる老描、アズキを見やる。
ふたりの新婚生活に割り込む形で入って来た猫は、暮らし始めた頃は元気に動いていたし、先日、新婚旅行から帰ってきた翌日、ふたりの枕元に黒々として大きな害虫の亡骸をぽっつんと置いて不在の抗議をした。
まるでカブトムシと見まごうばかりの大きな虫に、加奈江は金切り声を上げ、政は部屋の端まで飛び退いていた。
「いやーっ! 政、何とかして、私、苦手なの、大キライなの!」
「俺も、苦手なんだ―っ!!」
「だって、あなた男でしょっ」
「男だろうが何だろうが、ダメなものはダメっ!」
夫の思わぬ急所をまたひとつ握って喜びたいところだけれど、加奈江の方もそれ以上に苦手なのだ。
「アズキっ! 何とかしてっ!」
「ネコに頼むなよ」
「じゃ、あなたがやって! 片付けて!」
「えっ! 俺??」
すでに事切れている虫相手に、夫婦は麗しい譲り合いをし、その様子を、カーテンの影から眺めるアズキの顔は、あきらかに笑っていた――
ふたりにはそう見えた。
その出来事から、まださほど日が経っていないのに、アズキはとても具合が悪そうだった。
いきなり様子がおかしくなったので、ふたりは獣医の元を訪ねた。
「見るからに年寄りだからねえ……」
医師は言う。
「検査をしないと何ともいえないけれど、内臓に相当ガタが来ているようだね。急に弱ったと言ったね」
「はい」
「おしっこの回数はどう? 血尿とかは出てないですか」
「それが……外で済ませているので、よくわからなくて」
「じゃあ、確たることはわからないわけだ……」
医師はポリポリと頭をかいた。
「多分、腎臓の機能が衰えていて、出るものが出にくくなっているんでしょう、腎臓病か腎不全かもしれないね」
えっ、とふたりは声を揃えて言う。
「それって……」
「人間だと透析が必要な病気だね。毒素が溜まると、ネコぐらいの大きさの動物だと身体が小さいからあっという間に悪くなって死んでしまうよ」
「そんな」
と言ったきり、加奈江は診察台に乗せられて、怯えて目を丸くして警戒しているけれど、覇気を感じられない猫を見た。
「そうと決まったわけじゃないけれど、膀胱にもおしっこが溜まって出にくいみたいだから、処置しておきましょうかね」
「何するんですか」
「尿道にカテーテルを刺して、おしっこを垂れ流すんだよ」
政は、知らず身震いする。
「それって……痛いんじゃないんですか」
「痛がるね、尿道に管を刺すんだから」
何度も聞きたくないと、彼の顔は強張っていた。
「人間も細いけど、猫は更に細いからね―、大丈夫、麻酔かけますので」
けど、年寄りだから……心配だなあ、とこぼしながら医師は仕度をした。
「心配とは?」
「体力がなかったり、年寄りだったりすると、麻酔かけたまま目が覚めないこともあるから、恐いんだよねえ」
カチャカチャと煮沸消毒されて湯気を立てた注射器に針を刺し、空気を抜くように医師は注射針から薬液を絞り出した。
医師の脅し通りにはならず、処置が済んだアズキは無事目覚め、復調はしたけれど、以前のような、それこそスズメを払ったり、タヌキに威嚇をしたり、虫を捕ってきてふたりを困らせるようなこともなく、よたよたと歩いて縁側で伸びるようになった。
もし、腎臓病や腎不全だったら……。どうすればいいんだろう。
人間のような透析はペットはしない。
それに、口には出さなかったけれど、動物病院で支払った額には言葉が出なかった。
あまりに高すぎたからだ。
たまたま給料日後で財布の中身はいつもより多かったけれど、今月は野菜天ぷら月間となることはほぼ決まりだ。
人間のように健康保険がきかないから、全て実費だから仕方ないとはいえ……。
もし、また具合が悪くなったら、気易く病院へ連れて行けるだろうか。
ふたりは気が重かった。
さらに気が重いこともあった。
最近、政の書道家としての成績が、ふるわなかった。
彼はいつもと同じように書いているつもりなのに、どうにも上手く仕上がらない、と言った。
師匠も、自分で考えろというばかりだと。
俗に言うスランプに入っていた。
彼は負の感情を表には出さないように努めていたけれど、加奈江には隠しきれず、時々、八つ当たりをしないためにむっつりと黙り込む彼を、どうすれば浮上させられるのかわからず、加奈江も弱っていた。
結婚前もスランプは何度かあったけれど、「がんばって」と励ました後に帰る家は別だった。
今はひとつ屋根の下、ふたりで暮らしている。
楽しみは二倍、辛さは二乗でのしかかってくる。
ふたりにとって、初めてに近い試練の渦中にあって、アズキの病気が判明した。
お互いのことばかり気にかけて、小さい生き物がこんなに弱っているのに気づかなかったなんて。
加奈江はアズキの規則正しく動く腹を撫でて、途方にくれていた。