◇ ◇ ◇
翌日、加奈江は姉にたたき起こされた。
それこそ始発電車に間に合う時間に。
「朝ごはんぐらい食べさせて」
「昨日の夜、あんなに食べておいて! まだ足りないの?」
たっぷり大人四人前以上を平らげたのだから、姉の言うことは正しい。
ぐずぐずと渋って床から出てこない妹へ、姉は告げた。
「いいトシした大人なんだから、飛び出す以外の方法でケンカは収めなさい! 今回は見逃すけど次はないから。今度は旦那の実家へ泣きつきなさい。あなたはもう尾上家の嫁なんですから。どうしてもというなら迎え入れないでもないわ」
「どういうこと」
「きちんと、全てを精算してきたら。その時は住まわせてあげるから。出戻りとしてね」
「そこまで言うの?」
「あなたこそ、結婚は何だと思ってるの。考えが甘いのよ。所帯持つには早すぎたのね。まだ子供だと言われたくないなら、きちんと相手と話をつけてらっしゃい! こんなこともあるんだから、相手の家族との同居も考えた方がいいわよ。家族が増えるとつまんないケンカすらできないんだから!」
姉が言うことは、悔しいけれど当たっている気がして、余計にシャクになる。
結婚するには早すぎたんだろうか、私たち。
恋愛と好きと結婚は違うの?
同じものだと思ってた。
私――
自分が悪いとは思ってないけど、彼が一方的に理不尽なこと言うから悪いと、まだ思ってるけど。
いっしょに暮らすと、いろいろな悪いことが積み上がっていくのかしら――
「またきてねー」
もう私は、秋良に「いってらっしゃい」とは言ってもらえない。
高輪の家は、もう私が帰る家ではなくなってしまった。
寝ぼけ声で送り出す姪の声を背に受け、まだ明け切らない朝の香気の中、昨日以上に重い足取りで彼女は家路についた。
右手に浴衣の反物。
左手にカバンと、中身がいっぱい詰まって、カバンがボールみたいにふくらんだ大量の煮干しを持って。
◇ ◇ ◇
「カナちゃん」
後ろから声をかけられて、振り返ったところには、義兄の悟がいた。
ひょろりと手足が長く、背も高く、そして細身。レンズが大きめの眼鏡をかけていつもにこにこしているし、とてもひょうきんで明るい人ではあるのだが、どちらかというと外観は酷薄そうな印象の方が強く、彼をひとことで言い表すと昆虫のオオカマキリという言葉がぴたりと合う。
「相変わらず、歩くの早いね。息切れちゃったよ」
少しオーバーに、ふうふう言いながら来る義兄は、ただのポーズで言っている。
荷物を両手に抱えて、加奈江はぺこりとお辞儀をした。
「どれ、持とう」
「いえ、大丈夫です」
「いいからいいから」
細身のどこにそんな力があるのだろう、といった風で、悟はふたつの荷物を軽々と持ち上げた。
「駅まで一緒に行こう」
ね、と微笑まれると拒めない魅力のある人だ。
ええ、と加奈江はうなずき、ふたりは歩き出した。
「道代さんにずいぶんと言われ放題だったらしいね」
「ええ、まあ……」
「あの人は悪気も何もなくて本音を本能のままに言ってしまうところがあるから、傷付くこともあるだろうけど……」
「平気です。もう……慣れてますし。姉は表裏がありませんから」
うんうん、と悟はうなづく。
「義兄さん」
「ん?」
「ひとつ、聞いてみたいことがあったんです」
「何?」
「義兄さんは――姉との結婚を後悔してませんか」
「ううーん、何で?」
全く気合いの入らない、のほほんとした口調が返ってくる。
「カナちゃんは、後悔してるの」
「いえ。……ごめんなさい、変なこと聞いて」
「ううん、変じゃないけど。あ、そうか、僕の方が変なのか」
あははと悟は笑う。
「そうだよねえ、一般的にムコ養子は肩身狭いだろうとか言うもんねえ」
「そ、そういう意味で聞いたのでは……」
「でも、ちょっとはあったでしょ」
「……ごめんなさい」
「カナちゃんは謝ってばかりだねえ」
あははと軽く言う悟の言葉は、ずきりと加奈江の胸に刺さった。
ホントだ。私、謝ってばかりいる。みんなにも、政にも。
政も――いつも「ごめん」ばかり言ってる。
遠慮……し過ぎている?
「僕もね、そんなにバカじゃないつもりだし、みなさんが何を言いたいのか、わからないほど鈍くないつもり。ま、僕は大家族の中のきょうだいの下の方だからさ、家は出なきゃいけない身でしょ。分家として家庭を構えるにしても守るにしても、そこまで格式のある方ではないし、何というか…ちょっと面倒? だからねえ、あまり気にせず気軽にムコに入っちゃったの。家族もうるさく言う人いなかったしね。水流添の人たちはみんな心易い人ばかりで、いっしょにいても疲れなかったし。道代さんが嫁さんで良かったと思っているよ。ホント、僕は運が良かった」
「でも、姉さん、きつくないですか」
「そうかなあ、かわいいよ」
あははと笑う悟は屈託がない。
こちらが気が抜けるほどに。
「お見合いの話が来た時はびっくりしたけどね、まあ、かなり年下ということもあったけど――顔合わせをした時の表情の硬さは見ていてかわいそうになるくらいだった。お人形さんみたいにきれいなのに、きっと笑ったら、もっと可愛いだろうに。そして、まだ若いのにすごく家のことを考えていた――。自分の義務に忠実に、守ることがあの人の生きる中心、核だった。だって、まだ十代のお嬢さんだよ、恋や憧れや夢を持って、女の子らしくわがまま言っても許されるのに――。そんなことちっとも考えてない。いじらしくなるくらいだった。もし、僕が、道代さんの抱える荷物を少しでも軽くできるのなら、負担を分け合えるのなら、と思ったんだ。
だからね、すぐお見合いの話を受けることにしたの。だけどね、ホントはねえ、ひとめぼれしちゃったの。歌謡曲じゃないけどさ、愛しちゃったのよ、だったのね。断られたら……大失恋となってたんだろうなあ」
悟はしみじみと言う。
「一番最初の印象ってなかなか抜けないでしょ、僕は彼女を助けたいと思った。もう、それだけ」
「私は――」
加奈江は言った。
「彼の役に立ちたいと思ったんです」
「ほうー。それはいつ頃から?」
「高校の時。あまり、何も考えないで……。とっさに言葉が出てきて。でも、一番の本音だった」
「そっか、じゃ、それは本物だ」
うんうんと悟はうなずく。
「待っている人がいるんだし、すぐ帰ってあげた方がいいね」
「――待っててくれるでしょうか」
「くれてるでしょうー。政君の生活の中心はカナちゃんで占めているもの。君がいないと彼は何もできないんじゃないかなあー。あまり、いじめないであげなさいよ」
ぱちぱちと、切符を切る鋏の音が聞こえるところまできたのに、気がつかないくらい加奈江は義兄の言葉を聞き入っていた。
「義兄さん。……ありがとうございます」
いやいや、と首を振る義兄の背に、彼女は深々と礼をして。
それぞれに行き先に向かって歩き出した。