【5】猫の通夜
床板を剥がした居間には、黒々とした穴が開いていた。
政は一瞬たりとも休まず、はがした板を元に戻した。
手早く板に釘を打ち付ける音が、カンカンと残響を伴って辺りに響く。
いくら近隣に民家が少ないとはいえ、音は近所迷惑になりかねないだろう、と彼は焦り、何度か釘を曲げて、それでも打ち終わった床に畳を敷き終わった時には、辺りは真っ暗になっていた。
心ここにあらずで作った、あり合わせの物を使ったにしてもあまりに簡素な食事を、ちゃぶ台だけの居間で鳥がついばむぐらいの量しか口にできず、ふたりとも箸を置いた。
たった一日の出来事が、とても重くふたりの間に横たわっていたからだ。
初めての大きな言い争いをした。
大切にしていたものを喪った。
加奈江は何度も涙を流し、政もいつも以上に口が重かった。
腹に収められなかった分は冷蔵庫にしまって、涙混じりのため息ばかりつく加奈江に、政は言った。
「今日はアズキの通夜をしよう」と。
こくりと、加奈江は首を縦に振った。
故人を偲ぶように、机の上に水が入ったコップと、煮干しが入ったお皿を並べて、ふたりは手を合わす。
「アズキ、煮干しが本当に好きだったわね」
タンスの前には、加奈江と政が持って来た山ほどの煮干しが放置されている。
「コリコリ、おいしそうに食ってた」
けど、もう、老描はいない。
「辛いな」
ポツリと政は言った。
「もう――動物を飼うのは止めよう。アズキを最初で最後にしよう」
加奈江は首を縦に振った。
一年足らずの短い期間だったけれど、ふたりの一番甘やかな時を共に暮らしてきた仲間だった。
もう、結婚して間もなかった頃のように、ふたりは無邪気にじゃれ合うことはできないだろう。
「たくさん思い出を作ってきたわ」
「初めて家に来た日を覚えてるか?」
「私が政のお嫁さんになれた日だった」
「俺、加奈江を、怖がらせて怒らせた」
「だって、あなた、無茶ばかりするんだもの」
「でも、カナと夫婦になれて、うれしかった」
「うん、私も」
ふたりがどんなに愛を交わし合ったか、アズキだけが見ていた。
政は小さく吹き出す。
「あいつ、よくカナの布団の中へ入り込んで、間に入って邪魔したよな」
「そんなこともあったかしら」
「あった。無言で、俺に手を出すなと言ってるようだった」
「いやだ」
加奈江も小さく笑った。
「あいつ、カナのこと好きだったんだろうな、だから俺を近づけたくなくて必死だったんだ」
ぼさぼさと、毛先が割れた猫の毛並みを思い出す。
もう――あの手触りが戻ってくることはない。
加奈江はくすんと鼻を鳴らしながら言う。
「そうそう、あの子。大きなゴキブリを持ってきたこともあったわね」
「ああ。あれは参ったな」
「政が虫が苦手だなんて、初めて知った」
「だめなんだよ、子供の頃から、昆虫は抵抗ないんだけど、あれだけは……何というか、こう……黒くて、カサッとして平べったいだろう、あの手触りが、もう……本当にダメだ」
「何で知ってるの?」
「うんと小さかった時だ、書道を始めて日が浅くて。でも毎日練習が楽しくて、食事も寝るのも忘れて書いて親にいつも叱られてた。あの日もいつものように練習しようと墨をすろうとしたら……墨じゃなかったんだ」
「まさか」
「そう、そのまさか。大きなゴキブリを思いっきりつかんじまって。あの感触は……もう二度と味わいたくない」
「高いところとゴキブリと。あと他に何が苦手なのかしら。地震、雷、火事、親父が恐いものの相場だけど」
「俺は――カナだな」
「えっ」
加奈江は反射的に顔を上げた。
向かい側に座る政は、大きく頷いていた。
「私?」
「うん、そう」
「どうして」
「怒らせると恐い。どうしたらいいかわからなくなる」
「えーっ、だって……」
「俺が唯一、意のままにできない、屈服させられない人がいるとしたら、間違いなくお前。カナだけが、俺を喜ばせ、焦らせ、絶望させられる」
「政――」
「嫉妬で自滅するなんて……その通りだから、ぐさりときた」
「ごめんなさい。言い過ぎたわ。もっと、こう……他に言い方が……」
「ないよ」
あっさり、政は返す。
「俺に対して、言葉が的確で、鋭くて、届く言い方ができるのは加奈江だけ。お前に潰されるのなら、本望だと思えるくらいだ。俺が乗り越えなきゃいけない壁は、まさにそれなんだ」
たん、と煙草のフィルターをちゃぶ台の上で叩いて、指で挟んで。でも口にはせず、政は続ける。
「お前、覚えてないか」
「何を?」
政はある人の名前を出した。
加奈江は咄嗟に「知らない」と答えた。
「本当に?」
政に問われ、加奈江は出された名前を心の中で何度も反芻する。
出た結論は。
「本当に。わからないわ。誰なの?」
え? と困惑の色を浮かべ、政は口を手で覆い、思案顔をした。
「そう……なのか?」
「ええ。だってあなたも知ってるでしょ、私がどれだけ人の名前を覚えるのが苦手か」
「ああー。そうだったなあ……」
肩を落として、政はひとりごちた。
「俺、何を気に病んでいたんだろう」
「ね、誰なの」
「カナと一緒に、卒論指導を受けた奴だよ」
「女なの? 男なの?」
「そこから始まるのか」
「だって、本当にわからないんだもん」
「あの年の武先生の指導は、女子はカナだけだったじゃないか」
「それもそうね」
少し考えて、同級生の顔を思い浮かべてみた。
難しい顔をして、うーんと考えてもやっぱりわからない。
加奈江は天井を見ながら言う。
「その、私がわからない人? その人がどうしたの」
嫁の問いに答えようとして、口を開きかけた夫は頭を振り、「いや……いい」と言う。
「いい、って……」
「うん……今のは聞かなかったことにしてくれ」
「それはもうムリ。言いかけて黙られるの、やっぱり好きになれない」
一旦食い下がると加奈江は意地でも自分の意志を通そうとする。
「あなたが、ここしばらくイライラしていたのは結局そこに行きつくんでしょう。黙らないで。きちんと聞かせて」
うーんと顔をしかめたものの、相手が引き下がる気がまるでないのを見て取り、政はぽつぽつと語り出した。
「万博から帰ってきてすぐの頃かな、学校近くで……そいつと偶然出くわして……茶、したんだ」
「仲良しさんだったの?」
「いや、そんなことはない」
「じゃ、あいさつしてさよならしてればよかったのに」
「ああ、そうすればよかったとすぐに思った。コーヒーが運ばれてくるまでの間、何やってるんだろうな、と。立ち話で充分だったろうに――。でも、奴、カナのことを聞いてきたから」
「私?」
「そう」
「好きだった、って言ってた」
また政の悪いくせが出たわ、と思った。彼はとかく彼女が他の男と話すだけで機嫌が悪くなるという、そっち方面でも嫉妬深さを出す。結婚前は特にうるさく、そのころの名残で、今でも髪の毛はいつもひとつにしばるか、まとめ髪にして垂らさないようにしている。男性の常で、長い髪が好きなくせに他人には見せたがらないのだ。
「私、何もないわよ、だって……」
「わかってる、相手もそう言ってた。気のある素振りをいくら見せても、端にも棒にも引っかからなかったって」
「はあ?」
加奈江は一度目を瞬かせた。
「そんなこと……あったかしら……」
「これだ」
政は大きくため息をつく。
「カナは意識していてもいなくても、相手の気持ちに気づかなさすぎ。そいつだけじゃない、多分、同じゼミの学生でお前に気がある奴は何人もいたはずだ」
「それは、ごめんなさいと言うところ? でも、私、あなたと付き合ってたのに」
「そんなの――相手がいようといなかろうと関係ないのが恋だろう」
ちり、と胸の鈴が鳴る。
政が言うと、二重三重の意味を持つ恋ということば。
彼の父は、正妻と愛人、ふたりの女性の間にそれぞれ一子をもうけている。
だから、政はとても異性には臆病だった。今も、人も自分も信用できないのかもしれない。
信じて、という以上、私も彼を信じさせないといけないのね。
「私、気をつけるわ……。でも、今以上のことはできないけれど。私、あなた以外の男の人とは話するの苦手だから」
「え、そうなのか」
「そうよ。だから、大学の頃は特に、男子学生が近くに来たらいつも逃げていたんだけど」
「……あいつもそれらしいこと、言ってたな……」
「でしょう。だから……」
「わかった、信じるよ。カナのことは今もこれからも信じてる」
ぱちん、と政はライターの蓋を開ける。じりじりと、親指の腹で回転ドラムを鳴らした。
「奴、まだ学生してた」
「そう……なの?」
「卒論、落ちたそうだ。他にも落としてる単位があって、もう一年、四年生をやってるんだと。で、カナは何してるんだと聞くから、主婦してると言ったら、それはおかしい、武先生と親父が、稀に見る逸材だと褒めていた女性を家庭に押し込めておくのか、器の小さいダンナだな、お前は、と……」
「ちょっと待って」
加奈江には、政が言う相手の像がおぼろ気ながら浮かんできた。
今、政が語った、武先生と義父から言われた話は三人しか知らないはず。たしか卒論の指導後に話したことで、人がいなくなった教室にいた人数は三人きりだと思っていたけれど、他に聞いている人がいたのだとしたら、同じ日に指導を受けた学生――。
もしかしたら、私の前に卒論指導を受けていた人ではないだろうか。
「誰か、わかったわ」
「何?」
「あなたが言ってた人」
あ、と政は少し脱力した。
「……カナが、少し以上、男に対してはズレがあるのはよくわかったよ」
しゅぼっとライターから火が上がり、オイルの薫りが漂った。
「俺がカナを専業主婦に留めているんだ、と言うから気になった。もし、お前は今でも他になりたい職業とか仕事があって、俺がその夢を破ったんだとしたらどうすればいいんだろうと……」
「ないわ」
加奈江はぽんと答える。
「私――大学へ入った時から、ううん、子供の頃から何かやりたい仕事があったわけじゃないの。お嫁さん願望もないし、公務員になりたかったわけでもなかったし――。でも、同期の女子学生は、学校の先生になりたい、上級公務員になりたいとか、世の中を変えたい、女性の地位向上を目指したいと言ってる人もいた。具体的な将来像を持っていたのね。大学に行くからには、という気概があった。なのに、私、何も持ってなくて。ひとりだけ、彼女たちから浮いていたの。身の置き所がなくて、辛くなかったといえばウソになる。私の夢は……誰にも話したことがなかったけど……あなたと一緒に歩いていくことだったから」
ふたりは沈黙した。
かちり、とライターの蓋を鳴らしたのは政。そして言った。
「……ありがとう」
「うん」