「俺――ほとんど意地になってお前との結婚を急いだ。他の学生に取られたくなかったから。それだけの思いだけで。でも、カナの望みや夢を聞いてなかったことに気づかされて不安になった。もし、お前のなりたい未来像があったのだとしたら、今からでも遅くない、俺にできることはあるかと問いたかった。……でも、なかなか言い出せなくて」
「私の夢は変わらないの。あなたの役に立ちたい。それだけ」
政は小さく笑う。
「前にも一度、同じことを言ったな」
「ええ、あれは、高校の……そう、部活の部長を決める時のことね、らっきょう部長とあなたと三人で話して」
加奈江はあっと口を手で覆い、政は吹き出す。
「おいおい、先輩にはちゃんと名前があるんだぞ、なんだよ、『らっきょう部長』って」
「そんなこと言ってない」
「言った。しっかり聞いたぞ。頼むよ、今も時々仕事で会うんだ。思い出し笑いしたらどうしてくれる」
「ごめんなさい」
「でも」
「でも?」
「似てる、な」
「もう、あなただってそう思ってたんでしょ」
「まあ、その何だ。当然、俺に任されると思ってたし、そのつもりだったのに」
「私が割って入ったの」
「実務的なことは俺には向かない、って」
「ええ、そう。だから私が適役だ、って」
「まさか女の子に部長職は不向きと言われると思ってなかった」
「……気を悪くした?」
「うん、少し。でも、感動もした。人の役に立ちたい、そう言ってくれる人が本当にいるんだ、って。家族でもないのに。俺のために、って。それが……カナだった。うれしかったよ」
「政……」
「役に立ってるよ。家のこともだけど、俺の根幹を成すものの中心にいるのは今はカナだ。お前がいるから、いろんなことにも取り組める。カナに依存するだけではいけないのは良くわかってる。だから、今、苦しいんだと思う。昨日、カナに嫉妬してるんだろう、と言われて図星だったから言い返せなかった。」
政は煙草に火をつけ、一度吸ったが、煙を吐くのと同時に灰皿に突っ込んで消した。
「子供の頃はよかった、俺はまだまだ未熟だったから教えを乞うだけだった。今は違う。まがいなりにも人に教える立場で、導かなければならないのに……。上手くなっていく生徒を、褒める時に『悔しい』という思いを消すことができない。かける言葉に嘘が混じる。自分の醜さが、苦しい。嘘と真実が見えなくなって……。そんな中、いくら書いたって、楽しいはずがないよな。
『お前は、自分が書いたものを見てどう思う』と先生に聞かれた。即答できなかった。以前はそんなことなかったんだ。先生は、『だろうな』と言った。『お前の書くものはつまらない』と。反論できなかった。
結婚したから、伸びなくなったと言われたくなくてムキになった。でも――ダメなんだ、何が枷になっているのか、わからない。そんな時、大学近くで奴に出くわした――」
カン、とライターをちゃぶ台の上に置いて、政は大きく息を吐く。
「お前のカミさんは優秀で、女子の主席だったから、本来良いところに就職でもできたんだろうにな、と、若干、やっかみも混じった口調の後に、武先生と親父の話をされて。お前も知ってるだろうけど、そんな女性を嫁にできて果報者だな、今からでも遅くないから働きに出して、食わせてもらったらどうだ、と」
「勝手に、言いたいこと言ってくれるわね、その人も」
ぽつりと、加奈江は言う。
「そんな、私がいないところで私の話をされて。気味が悪い。あなたもあなただわ、私が言ったわけでもないことの方を信じちゃうのだもの」
「ごめん」
「私も……あなたに伝えてないことがあるの……」
床の上に座っていた足を、組み直す。痺れているわけでもないのに、改まるように正座して。
「武先生とお義父様の話――。本当のことなの。お二人、確かにそう仰ってた。武先生の審査と卒論指導が重なって、お義父様から万年筆を頂いた日よ、室内に人はいなかったし、三人きりだと思ってたけど……。学校の教室で、人払いしたわけでもなかったから、他に聞いている人がいても不思議はなかったものね……。廊下で立ち聞きもできただろうし」
政は、続きを促すように彼女を見つめる。
「私が聞いた印象はまるで違うわ。武先生は、高等教育を授けられた者は世に還元する責任があるのではないか、今まで人として生きていく未来への展望を持って学んでこなかったのか、と諭されたのだと思ってる。お義父様も同意すると仰ったの。その時にお義父様に聞いたわ、男の人は働きに出る女性を喜ばない人が大半だと思ってた、と。そしたら――あなたがそれを望んでいるのか、と問われて、初めて気づいたの。
私、子供の頃の夢が叶って……好きな人のお嫁さんになれて浮かれてて、それでいいんだと思っていたけど、その後のことは何も考えてなかった。自分の人生への望みを、しっかり持ってなかった。あなたとも何も話し合ってこなかったと。
ねえ、政。私、どうすればいい? あなたは私にどうしてほしい?」
「加奈江」
政は崩していた足を組み直し、正座して彼女に向き合う。
「……何?」
「書道――本当に辞めてしまうのか」
「ええ、だって、お稽古事はいつか終わらせなきゃ」
「俺、お前は辞めてはいけない人だと思っている」
「まだ言ってるの? それは、あなたが……」
「お前を好きだから視界が曇っていると言いたいんだろうけど、そこまで俺、判官贔屓は強くないよ。カナには、書を続けてほしい」
「でも、決めたことだもの」
「そう決めつけることはないだろう、今からでも遅くはない」
「あのね、政」
加奈江も彼に対峙するように正面に座り直した。
「私、あなたのように強い思いを持ち続けられないの。少なくとも今は無理。そしてね、政。何があっても辞めないあなたと私の違いはね、あなたがそれがないと生きていけないと思うほどの心の強さが私にはない、ってことなの。あなたと同じ世界を――見たいと思わなかったと言えば嘘になる」
「俺は、カナと見たいと今も願ってる」
加奈江は首を横に振った。
「今の私ではあなたの期待に応えられない」
「カナなら、そう言うと思ってた」
残念そうに、政はため息をついた。
「でも……カナにしかできないことがある」
「……何?」
「俺を、手伝ってくれ」
「私が政を? できること、あるのかしら」
「ある。俺より――多分、カナの方が適役なんだ、……俺、本当に人に教えるのは苦手なんだ。助けてほしい」
「政が言うなら喜んで。でも、苦手なことから逃げてはダメ。表向きはあなたがやるの。私はあくまでも裏方止まり。それでよければ」
「わかってる」
政は正座した膝の上に置いた手の平をぎゅっと握る。
「俺は、書道を極めたい」
「知ってる。出会った頃からずっと言い続けてきたあなたの夢だから」
「うん」
「けど、もう夢ではなく現実になってる。あなたは強い」
「強くない。俺は――きっと弱虫だ。もし、強いと言ってくれるのなら、それはカナがいるからだ。さっきも言った、俺を絶望させられるのはカナだけ。だから、お前の存在をいつも感じていたい。支えてくれ、とは言わない、でも、振り返った時、そこにいてほしい」
「いるわ」
加奈江は応える。
「私を必要としてくれる限り」
「……うん」
「私、あなたの手に引かれてここまできたの」
そろりと、伸ばす先にある彼の指に触れる。
政は彼女の手を握った。
手の甲に頬を寄せる。かき傷だらけの指。このあたたかさは、初めて触れた時と全く変わらない。
「もう――この手がないと生きていけないの。だから、私を求めて。引っぱって。……側にいさせて」
「うん」
今、武がここにいたら、はっきり言える。
私は彼の役に立ちたい、彼を支え、手助けしたい。精一杯やりたい。
愛する人ひとり守れなくて、他の人に貢献などできるはずないじゃないの。
「昨日は……ごめんなさい」
「俺こそ、ひとりで怒って、お前に嫌な思いをさせた」
「私は、あなたをひとりぼっちにさせたわ」
「そして、自分のことばかりで、アズキのことまで気が回らなかった」
「アズキ……」
言って。今日何度目になるだろう、加奈江の目の前に熱い涙がせり上がってくる。
その涙を、政の指が拭った。
「私、約束する。どんなに言い合ってもケンカしても、絶対あなたの側から離れない。むっつりしてもいいから――。一晩、必ず一緒の部屋で、あなたの隣で眠る。怒ってる時こそ距離を取ってはいけないんだわ」
「うん、カナの言う通りだ」
いつしか、彼の手は彼女の頬を撫でていた。
「政」
「うん」
「青山へ行きましょう、私たち」
頬を撫でる政の手が止まる。
「何故」
「前々から気にして、親から姉からも言われていて。今回のことがあったからというのもあるのだけど、ああ、でも、全部、口実で言い訳。私も今まであなたに言うきっかけが掴めなくて……。でも、今日がその時なんだわ。あなたの実家に帰りましょう」
加奈江は彼の手に自分の指を添えた。
強ばって、当惑しているようだった。
でも……聞いてくれる。彼なら、きっと。
「私、あなたと一緒になりたくて結婚したの。でも、同時に、尾上家に嫁いだの。あなたは長男で家を守らなければならない立場だわ」
「加奈江が気にすることじゃない」
「ううん、ちがう。ふたりの問題なの。今はいいけど、ずっとって訳にはいかないわ。長子の義務は果たさなきゃならない。あなたのお家のしきたりや守りごとや、受け継いでいくこと、たくさんあるでしょう? 政がひとりで背負うことなんてない、私がいるから。いっしょに背負わせて」
「けど、うちは……」
ぐっと指先に力が入る彼の手を、彼女は握った。
「きっと、カナが嫌な思いをする」
「そんなの、始めてみないとわからない」
「でも」
「ホントはね、私、ここで、政の帰りだけを待って穏やかに暮らしたい。政とふたりきりで」
「俺も、カナが待つ家に帰ることだけを考えて暮らしたかった」
「あなたが好きなごはんを作って、いずれ産まれる子供たちと、私たちだけで……。でも、それだけじゃだめ、自分たちだけで閉じた世界で生きてはいけないんだわ」
政は彼女を抱き寄せる。
「俺は、お前を誰の目にもさらすことのない、ふたりだけで暮らせるところでずっと留めておきたかった、閉じ込めて、俺だけ見てほしかったんだ。ここだとそれが叶ったから。でも――」
「どこへ行っても私はあなたしか見えない。この思いはきっと変わらないわ。信じて。私たち、振り出しに戻りましょう」
「――うん、わかった」
政は暗い声で言った。
「加奈江……」
「はい」
政はとても言いにくそうに何度も言い淀む。
何があったんだろう。書道のスランプ以外にも何か気にかかることがあったのか。
加奈江は待つ。
どれほどの時が流れたか、やっと決意したように政は口を開いた。