小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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「俺、お前に話してなかったことがある。――両親のことだ。今、離婚の話が出ている」

目を見張る彼女に、政は同じ目線の強さで見つめ返した。

時折訪ねる政の実家で若夫婦を待つ義両親は、いつもそろってふたりを迎えた。政の家庭の難しさを知らなければ、長年連れ添った夫婦そのものだった。高校の時に見かけた佳人や母が違う弟の存在など嘘なのでは、と思えるくらいに。

義理の母は、最初はとっつきにくかったけれど、話してみると至極普通の女性としか思えない。

政が事あるごとに言う、冷たい家庭の程度が想像できないくらいに。

なぜ、という問いと、ああ、やっぱり、という納得する思いが複雑に絡み合う。

二の句が継げない加奈江の手を、政はわかっていると言うようにさらに力を込めて手を握り、語り出した。

彼の結婚がきっかけとなって、それぞれの人生を歩もうと彼の父が話を持ちかけ、彼の母は拒絶したのだと。

とても簡潔に短く、今日のご飯はなんだい、と問うような気軽さで言いはしたけれど、話の内容は重いものだ。

それぞれの両親から個別に話を聞かされた彼は、今更何を! と鼻白んだと言った。

「あなたは……どうするの?」加奈江はきいた。

「どう、とは」

「別れてほしいの? ほしくないの? 仲良くしてもらいたいとか、思わないの?」

「そんなこと」

政は吐き捨てるように言う。

「人の結婚を肴に妙な理由付けをして、今までのツケを払おうとしないでくれ、と言ったさ。どちらにも荷担しない、勝手にしてくれ、と」

ああ、やっぱり、人は収まるところへ収まるようにできている、と加奈江は思う。

表はどうとりつくろっても、長い間に築かれた溝は簡単に収まるわけでもない。

ふたりとも悪い人ではないのに、一度心が隔たると、人は離れて行く方向へ進むのを止められないのか。

夫婦なんて。とてもあやふやで不確かなものだ。

私たちがそうならない保障なんて、どこにもない。

だって、大きなケンカをしたばかりなのだ。

正面からぶつかり合った時、私はどうしたの? 逃げることしかできなかったわ。

「私たちも、いつかはそうなってしまうのかな」

ぽつりと、加奈江は言う。

政ははっとなって俯いた顔を上げた。

「私、あなたと憎み合うなんて。絶対イヤ」

「あたりまえだ!」

悲鳴を上げるように政は叫び、加奈江は驚く。

「俺は、親父たちみたいにはならない。なりたくないから、絶対!」

「うん」

うなずく加奈江の目に、アズキを喪って流れたものとは違う涙が浮かぶ。

「何でカナが泣くんだよ」

「わからないの、でも……ごめんなさい」

政は両手を広げて招く、「おいで」と。

「人はいつか変わっていくと……あなた、言ったわ」

彼の首にしがみついて、加奈江は言う。

「ああ、言った。でも、こうも言ったよな。変わらずに共に歩いて行きたいと思った時に一緒になろうと」

「うん」

「あの時――俺も子供だったからわからなかった、お前に求婚した時も。親父たちの話を聞いて心底思った。結婚はゴールじゃないんだ。俺たちふたりの生活は始まったばかり。けど」

「けど?」

「俺たちがお互いを手放さなければ、続いていくんだ、ずっと。俺は――カナが必要だ、カナが好きだ。お前と暮らす生活が一番大切だ。だから、離したくない」

うん、とうなずいて、頬を彼の肩に預けて、彼の存在を五感で感じる。

「私――いつもごめんばかり言ってる」

いろいろなことがありすぎた二日間。今、混乱している自分。

私はとても弱くなった。

些細なことで心が揺れ、どうしたらよいか迷うほどに。

言ってることだって変だ。でも止められない。

「いいんだ」

「ごめんなさい、私、もっと賢くてしっかりしなくちゃって思ってるのに、できなくて、あなたに迷惑ばかりかけている。甘えてる」

「俺こそ、ごめん」

「政……」

「カナが必要だって言ってるのに、安心させてやれないから。不安にさせるからお前に言わせてしまうんだ。ごめん。でもな、俺思うんだ。たくさん謝って、たくさんいろんなことを知って、解り合うことだけは止めたくない」

涙の素は、いつになったら枯れるのだろうと思えるくらい、加奈江の目からは涙がひかない。

思うようにならない思いを持て余して泣き、アズキを亡くして泣き、今は甘えて泣いている。

けれど、熱い涙を受け止めてくれる人が側にいる私は幸せだ。

触れ合って温もりを感じられる存在、人肌の温かさを欲しがる政と私。似たもの同士だ。

彼だから、私は全てを受け入れたいと願った。たくさん甘えて、甘やかしたいと。

「政」

「ん?」

「私ね。あなたの奥さんになれて本当に良かった。ありがとう、選んでくれて」

夫と呼べる人に身を預け、受け止められる温かさは、恋人だった頃とは違う。

「私が感じてる幸せを、安らぎを、あなたと分かち合いたい」

加奈江は言う。

「私、あなたが帰る場所になり続けたい。安らいで落ち着けるお家に」

「なってるよ」

政も応えて囁いた。

「お前だけが、俺を受け入れてくれる、俺だけの家なんだ。だから、住む場所が変わっても――大丈夫だ」

二人はしばらくお互いの呼吸と、柱時計の音だけを聞いていた。

少し前まで、側にいた小さな生き物の息吹きを探すように。

でも、それはついに訪れることなく、二人の上には夜の静寂だけが降っておりた。


◇ ◇ ◇


政は一旦決めたことをぐずぐずと先延ばしする質ではない。

「両親には俺から言っておく」

アズキを葬った翌朝、仕事へ出かける政を送る車中での会話で彼は言った。

何事も矢面になって自分ひとりで片付け、いつも終息してから結果だけを言う質の政のこと、事前に伝えるだけでも進歩したわけだが、加奈江は首を横に振った。

「私も一緒に連れて行って。だってふたりの問題だから」

政は何事か言おうとしたが、うん、とうなずく。

普段なら彼を駅で降ろして加奈江は自宅に戻る。

けれど、この日、彼女も彼について行った。その足で尾上の本家にいる義母と、大学にいる義父の元を訪れ、「同居させて下さい」と頼んだ。

ふたりの希望です、と。

そこから先はとんとん拍子に話が進み、日を空かずに転居が決まった。

住み始めた家に新しい家具の配置がやっと板についた、残暑が残る頃。ふたりは奥多摩の家を後にした。

まだ暮らし始めて一年にも満たない。

この家にはいろいろな『初めて』が詰まっている。

初めてふたりで迎えた朝。

食べた食事。

新居で食卓を用意した時に並んだ茶碗とお椀とお箸に照れ笑いをした。

動物を飼った。

小さな畑でやっとできた野菜の収穫。とても美味しかった。

大きな台風が来て雨戸に釘を打ち付けた。思わぬ水濡れに困った。紙と作品を守って、ふたりで右往左往した。

風雨が強くて停電になり、ふたりで膝つき合わすところへ割り込んできた、老描アズキ。

都心より寒い冬に備えて綿入り半纏を仕立てたら、子供のように喜んで毎日着てくれた政。

年越しそば。おせち作り。深夜の初詣。

雑煮に入れる餅は丸いか四角いかで少し言い合いをした。

飽かず話し、笑い、抱き合い、肌を求めた。

暮らして日が浅い頃は、何もかもが新鮮で、積み上がっていく日々が愛しかった。

いよいよ発つという時、政は裏山で取れた熊笹で大きな笹舟を作った。水を張った洗面器に浮かべ、ゆらゆら揺れる船をふたりで眺めた。

そう、私たちはふたりが乗る船を作り、お互いが船頭になって舵を取り合い、滔々と流れる川に身を預けたばかり。

小さな幸せの積み重ねと記憶は、きっと私たちを支えてくれる。

――そうよね? 政。

加奈江は隣の夫を見上げた。

何度見ても見飽きることのない、精悍な彼の横顔。

何年後も、十年後も、その先も。

あなたが側にいて欲しいと願う。

車に乗り込む時、ふたりはどちらともなく手をつないで、我が家を振り返った。

畝だけが残る畑に、日に焼けたかかしが立つ。

その足元には、丸い、漬け物石より大きな、老描の墓標がある。

これを限りに来なくなるわけじゃない。でも、アズキを喪ったように、私たちもかけがえのない日々に別れを告げる。

今日、蜜月は終わった。

これからが本当の、ふたりで生きていく日々が始まる。

小さな笹舟を小川に放つように、私はついて行く、政を信じて。

彼を信じようと誓った自分も信じて。

「バイバイ、アズキ」

つぶやいた加奈江は、幼い、夢見る乙女心とも決別した。

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