その5 新天地
【1】あたらしい家族
都内でも屈指の高級住宅街。その一角に尾上の本家はある。贅沢な区画と贅沢な平屋造りの一戸建ての家屋は、元々商家だったという先代の羽振りの良さが伺える。
実家へ戻ってすぐ、政はあらゆる活動に手を染めた。
まず、練習と仕事の拠点を自宅に置いた。
部屋数の多さと広さは教室を開くにうってつけだった。かねて準備してきた書道教室の開業が現実味を帯びる。
元々教えに通っていた教室での指導は従来通り続けた。都心に拠点を移したことで、今まで間遠くなっていた付き合いへ駆り出されることも増え、そこから新しい縁やチャンスが廻ってきた。
彼の仕事を考えると何も悪いことはなく、むしろ良いことづくめだった。
若者は新しい流れを当然のように受け止め、スランプすら飲み込んでいく。
政は飛躍的に伸びた。
加奈江の生活も一変した。
以前のように一日の大半を内職をして過ごすようなことはできなくなり、自然と仕事は減らさざるを得なかった。
自宅で教室を営むとなると、彼女の出番も増えることになる。
政が手伝ってほしいと言った、彼の期待に応えるために、忙しい合間を縫って書道教室へ通った。ほったらかしになっていた技量を見直すために。
同時に自営業の何たるかを一から学びなおした。
大学での学習は理論が先走っていたので、自分の身に引き寄せた学びが必要だった。
どちらかというと実務的なことは苦手な政と、実務家向きの加奈江。書類ひとつであれこれ迷ってしまう政を適切に補佐できる立場にいる加奈江は、良い具合で噛み合っていた。
広い家でぽつねんと彼の帰りを待つ生活を想像していた加奈江も、こうも変わるものかしらと思った。
実家では彼の母、房江と顔を付き合わすことが当たり前に多かった。
父の慎は自宅にいたりいなかったり。
それでも、若夫婦が引っ越しした当初は努めて家に帰るようにしていたようだったけれど、一日おきが二日おきになり、週の大半は開けるようになっていった。
いつもなのか、これが普通なのか、加奈江にはわからない。でも、彼の父が家に寄りつかず、拠点は別にあることを裏付けることになっていた。
そして、同時に離婚話が絵空事ではなく現実味を帯びていることも。
政が言うには、父親はある頃を境にして自宅とよそを半々で過ごすのが当たり前になっていた、と。
もちろん仕事で家を留守にすることもあっただろうが、外泊をする理由は別にある。
政が小学生だった時、彼には弟ができた。
母親は別の人で、いわゆる異母兄弟という間柄だ。
義両親は変わらず婚姻関係を続けていたから、弟は不義の子、母親の立場は愛人。
その人と本妻との間を行き来する生活を十年以上も続けていることになる。
はっきり義両親の口から聞いたわけではないけれど、義両親は特段隠すこともなく、加奈江の前で振る舞っていたので、彼女も知らない振りはせず、受け止めることにした。
尾上家の『いきさつ』は、青山の家へ居を移す時に水流添の実家に伝えた。大っぴらに言うことでもないかわり、一度はきちんと伝えなくてはと思ったからだし、予断を持ってもらいたくなかった。
薄々、妙なものを感じていたらしい親や姉は、改めて伝えられると、一様に驚き、絶句した。
しかも、『愛人』はご近所さんなのだ。
「道理で……。政さんのお父様、どこかでお見かけしたことがある気がしたのよ……」と言ったきり、母は黙った。
もし――政と近くに住む佳人とゆかりがあると知っていたら、両親は結婚を快諾してくれただろうか。
何も言わない両親には聞けず、姉にも聞くタイミングが持てず。
でも、政への接し方は今までと変わりがないし、佳人のことを、多分、いろいろ知っているだろうに耳打ちすらしない家族に感謝した。水流添家は予断を持って人と接するのを良しとしない家風だったから。
そして姉の道代は元々物怖じするタイプではない。
引っ越しの手伝いで青山の本家に来て以来、なんだかんだと理由をつけて妹の婚家への訪問を繰り返した。
「お家が近くなったから、嬉しくて」
とか何とか言って笑う道代を、姑はどう思っていたかはわからないが、そこはふたりとも大人、いや、タヌキとキツネの何とやらか。相手を牽制しつつ、尻尾はつかませませんよ、といった風情で世間話をしていた。
道代は人と交わり、自分のペースに持っていける名人だった。
そこに秋良が加わると、ダシが増える。
実家よりはるかに広い青山の家がお気に入りになった彼女は、どたどたと無遠慮に走り回った。
「これ、秋良、静かになさい!」
さすがに道代も焦るが、姉の子供だ、秋良も自分のペースで大人を操る術を知っている。
「女の子はどんどんしないの」
姑も、時々、静かにお小言を言い、その時ばかりは姪も姉も恐縮していたが、姑が嫌がっているかというとまったくそんな感じは受けなかった。
「小さい子供は、女の子は、いいわね」
ぽつりと言う言葉に、抑揚はないけれど、どこか心にかかるものを加奈江は感じた。
姉親子の来訪は思わぬ副産物を生んだ。
家にいることが稀な義父が、あらかじめ来訪を告げておくと在宅することが増えたからだ。
祖父や父とは違うタイプの男性である慎に、秋良は懐き、背高のっぽのおじちゃまと慕った。
慎が、これまた意外なことに秋良を可愛がった。
「小さい子はいいね」
慎は言った。
房江も、慎も、子供好きとは。加奈江は面食らった。
「無限の力を感じて、こちらも元気になるよ」
心底そう思っているのがわかる秋良への接し方は、とても可愛がられて育ったのだと言った政の言葉を裏付けるもので、彼の両親が彼を大層愛したこと、特に父親の側の様子が伝わってきた。
親になるから人は子を慈しむのか。
子供が産まれると人は変わるのか。
わからない。
姉の道代は、特に出産前も後も変わりがないように見えた。元々、包み込むように人を愛する質で、表だらけの夫の影響もあって、ことさら分け隔てなく人と接しているところはある。ただ、相手次第でわざと意地悪をすることもあるようだけれど、これは愛情の困った裏返しだった。
私は――どうなるんだろう。
政は?
加奈江は思わず自分の下腹をさする。そこには子供がいる兆しはまだない。
秋良がいるだけで家の中の空気が変わるのだ。
ここに赤ん坊がいたら、どうなるのだろう。
硬くて、時折寒くなるこの家にあかりが灯るようになるのかしら。
結婚してから自分は変わった、と加奈江は思う。
だって、ちっとも満足というものをしないのだもの、と自分に言い訳をした。
次、また次と欲深くなっていく。
加奈江は、今、一番欲しいものを政には伝えていない。
まだ、言えない気がしている。
でも。
私、子供が欲しいの。
彼は時が来たらと言っていた。
その言葉を裏付けるように幾度も重ねられた夜の時、昂ぶった最中であってもきちんと律儀に『男の義務』を守っている。
加奈江のことを思ってのこととは、彼女にも良くわかってる。
でも、でも。
人間にも、末を拡げる本能があるのだとしたら、今の私は子を産んで育てたいと願っているのだ。
彼女の、彼の望みが叶えられるのはいつなのだろう。
秋良が遠くで笑う声がする。
その声を、政も聞いているはず。
あなた、どう思ってる――?
加奈江はお茶うけを運ぶ廊下の真ん中で、庭の上に拡がる空をぼんやり見上げていた。
ひこうき雲がまっすぐに白い線を引いていた。
◇ ◇ ◇
政は、父へは一定の信頼を置いていたけれど、母へはまったく逆の線を引いていた。
加奈江へ向けるやさしさの一片でも向けてくれればいいのにと思うくらいに、ふたりの間は暗かった。
台所は女の領域だから、後から入った加奈江は房江の後ろで控える身だ。時折、あれこれ言われはしたけれど、彼女とふたりで片付ける台所仕事は気まずさはなく、嫌でもなかった。
房江が作る料理も、政が学生時代に「食べていない」という理由が、もしかしたら味に問題があって……の雑念を払うもので、普通に美味しかった。
味付けは家毎に違うもの。料理好きの加奈江は房江から尾上家の味の教えを乞うた。
「私はどうにも漬け物だけは苦手で」
房江がぽつりと言ったことがあった。
「夫のお義母様が特にぬか漬けがお上手だったそうだけど、結婚した時はもう亡くなられていたから、教わる機会もなかったわ。ああ、でも、今はお漬け物は外でも買えるし、若いお嬢さんが毎日ぬか床をかき回すのもイヤでしょう」
「実家にあります。私も時々、手入れしてました」
「そう」
「作っても、いいですか?」
口にして、あ、よかったのかしら、と加奈江は口を覆った。
人の領域で、その人が苦手だというものを作ると言ってしまった。
許されるのだろうか。
口をつぐむ加奈江に房江は言う。
「やってみなさいな」
「お義母様」
「ここは、いずれあなたに明け渡す所になのだから、若いけれど、早すぎることもないでしょう」
私、この人を嫌いになれない。
加奈江は思う。
義父が何故外に女の人を囲い、そちらを重く大切にするのか。
人の感情がなせることだから良いも悪いも言えるわけがない。
夫が義母を遠ざけるのもよくわからない。
男の人は――本当にわからない。
加奈江が寄せる政への愛情は、薄まるわけでもないけれど、全部を飲み込むように受け入れ、認める時間は過ぎたのか、と彼女は思う。
溝ができたからではない、遠慮なく、何でも言い合いぶつかり合う関係のとば口に私たちは立った。
でも、きっと。
私は政に全てを受け止められて、許されて甘えてしまうのだろうな。
彼は私を愛してくれる。
私の弱点も憎しみも全て。
「愛している」とはっきりと口にしてくれたことは一度もないけれど。
やさしい感情で包み込まれる安心感があるから、私は彼から離れられない。
このやさしさを――
お義母様にも向けてほしいの。
少しでも。
だって。
あなたのお母さんでしょう?
コンロにかけた両手鍋から湯気が立つ。
今日は姑が夕ご飯を作る日。彼女が作る総菜は、政が好きなものだった。