小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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【2】家をつくる



引っ越しをして、新しい家にも慣れた頃だった。

家を空けることが多い慎が帰ってきた。

足音が、それまで聞いたことがないくらい荒く、ちょっとびっくりした加奈江は出迎えのタイミングを逸した。

房江と二言三言話していたようだが、足音は、奥、義父母の私室へ下がって行く。

どうしよう。

まごついている後ろの部屋は政の仕事部屋で、在宅していた彼は書の練習をしている。

いつもなら、些細な物音にも敏感に反応し、手を止めてしまう政が集中していた。

いつものことなのか、気にならないのか。舅を出迎えなかったことへの気兼ねはあったけれど、自分たちの部屋から動かない方がいいのかしら……

でも。

水流添家では誰も感情のままに荒く廊下を歩くような人はいなかった。そもそもそんなに広い家ではなかったから、遠ざかる足音まで聞こえてくる家の音は心がざわめく。

――今まで、義父は遠慮していたのだろうか。

知的で紳士的な義父の雰囲気との落差に、加奈江は戸惑った。

そして。

政とよく似た声が届く。

その声は、怒気を孕んでいた。それに義母が応えている。


え。


冷たい感情のやりとりに、ぴくりとも動けず、加奈江は立ち尽くす。

この家に自分たち以外の家人がいるのも構わず、義両親の会話は続いた。

「正義は、私にあるわ!」

やけに、義母の声が大きく、耳に届いた。

何、何なの?

無意識の内に組み合わせた手の平はじっとりと冷たい汗で濡れていた。

それに返す義父の言葉は、聞きたくなくて耳をふさいだ。

けれど、切れ切れに届く声音はとても冷たい。

言葉はもっと冷酷だった。


――私の妻は茉莉花だけだ


はっきりそう聞こえた。

言われた本人でなくても心が冷える。

言った側も、血を流している気がした。

何て冷たくて悲しいやりとりだろう。

「――カナ」

後ろにいつの間にか政が立っていたのにも気づかず、唖然としていたのがわかって、加奈江は頭を廻らせた。

うん、というように政はうなずき、肩をすくめて声がする方を見やる。

慣れた仕草で、またか、と言うように。

「こちらへ」

彼に促されて、彼女は彼の仕事部屋へ通された。

ぴたりと襖を閉じると不思議とまわりの音が聞こえてこない。

加奈江は肩から力を抜き、ほう、と大きくため息をついた。

「大丈夫か?」

「うん」

「驚いただろう」

「……うん、少し……」

「無理しなくていい」

政は彼女の手を取り、包むように撫でる。

「こんなに冷たくなって……恐かっただろう、かわいそうに」

ほう、と息を吹きかける。温めるように。

でも、彼女も気づいていた。

政の手も冷えて指先がかじかんでいたのを。

ふたりはお互いの手を、吐息で、頬で、温め合う。

「――だから戻りたくなかった、カナに聞かせたくなかったんだ」

「政――」

「心が、冷えるだろう」

「ええ……」

「諍いをする人の声は心をわしづかみにする。俺は――手がかじかんで動かなくなるんだ」

「だから、家にいたくなかったのね」

「うん。字が……書けないというのもあるんだけど……。この家は寒い。どうしても心が安らがない。今はカナがいるからいい。お前は温かいから、まだ過ごせる」

「本当に?」

「ああ。でも、お前にもこの寒さを知らせたくなかったよ」

「あなたも、温かいわ」

加奈江は手の内側に唇を寄せて、政の胸元に身を寄せた。

「カナがいると変わると思ってたのに……ごめん」

抱き留める腕が慕わしくて、もっととねだるように彼女は胸に頬をすり寄せる。

「大丈夫。――政がいるなら、きっと変えられる。私なら平気」

「カナ」

政は抱く腕に力を込めた。

この部屋は政がとても大切にしている、聖域のような所だ。

心を落ち着け、制作に入り、悩み、苦しみつつただひとつの作品を求める場。

加奈江もみだりに入り込んだり、掃除以外で用がない限りは物にも触れない。

とても清らかなこの場で。

私たちふたりは抱き合っている。

「政……」

「うん?」

「抱いて。私を――思いっきり抱いて」

「カナ」

言ってしまった言葉は戻らない、軽蔑されてもいい。

「あなたの子供が欲しい――」

最後の言葉は、彼の唇に覆われ、飲み込まれる。

いつになく、激しく、噛みつくような口付けに応えて、加奈江自ら舌を絡める。

もどかしく服を剥ぎ取り、身体をまさぐり、熱く吐息を乗せて、煽るように素肌を求めた。

何をやってるの、私たち。

外はまだ陽が高く、義両親は諍いを起こし、冷たい感情がぶつかり合っている。

けれど、それが何だというんだろう。

私たちは熱い肌が欲しい、繋がりたい、一時も離れず、求め合いたい。

ただ結合するだけなら動物の交尾と同じだ。けれど、彼が入り、受け入れる瞬間、身体が燃え盛り、全てが政に向かう。

あなただけなの、私を熱くさせるのは。

だから、私の中に放って。私が未来も何もかも育めるのはあなたとだけだから。

この日、彼女は初めて男の精を身体の最奥で受け止めた。

ふたりが初めて結ばれた日以来だった。あの時は無我夢中でわけがわからなかったし、幾度も肌を重ねていたのに、それまでとは比べものにならない。

気怠さを伴う、とろりとした感触が内側を充たしていく。

やっと女になった気がして、彼女は、「うれしい」と何度も口に上らせた。

「あなたは、どちらが欲しい? 男の子? 女の子?」

まだ弾む息の中、加奈江は聞く。

「俺はどちらでもいい」

仰向けになって、心底だるそうに、でも彼女の肩を抱き、髪を撫でるのだけは忘れず、政は言う。

「カナとの子供なら。きっといい子だ。お前は?」

「わたしも、どちらでもいい。男の子も、女の子も、たくさんの子供でこの家を満たしたい」

「……いいな。うん、きっと明るくなるに違いない。ああ、でも」

「なあに?」

「女の子は……ちょっとイヤだなあ」

「どうして」

「だって……嫁に出すんだろう? 何かそれは……イヤだ」

クスクスと加奈江は笑った。

「まだできても産まれてもいないのに、お嫁に出すことを考えてしまうの?」

「変か?」

「うん、すごく」

「だってなあ、カナと結婚式を挙げた時、お前の親父さんが寂しそうにしていたからなあ……。俺もいつかは、と思うとやりきれなくて」

見ていないようで政はまわりときちんと見ている。

――寂しがりやなのは彼のほう。

心からの笑みを乗せて加奈江は言う。

「こんなこと言ってるわよ、あなたのお父さんはせっかちね」

「誰に言ってるんだ?」

「いつか産まれてくる、政の子供に」

「うん?」

「いやだ、学校で習わなかった? 女はね、次の子孫の卵子を全て抱えて産まれてくるの。ここに」
と、自分の腹に彼の手を誘う。

「あなたの男の子も女の子もみんないるわ」

「そう――なのか」

この時、見せた政の顔を、加奈江は生涯忘れないと思った。

男が親になるのは難しいと言う。けれど、彼の顔からは慈愛の色と愛を与える者を感じた。

彼は、愛を受け、愛に飢えている人だから、自分が愛する者を受け止め、惜しみなく与える術を知っている。

早く、彼を父親にしたいと思った。

そして、義両親の諍いを実際に耳にして、夫婦の不仲と不実が現実のもので、離婚話も故ないことなのだと思った。

一度縁あって子まで成したふたり、どこから歯車が狂ってしまうんだろう。

私と政にもありえる? との思いが浮かばないと言ったら嘘になった。

でも加奈江は信じている、自分を信じるように、政を信じると。

何の裏付けもないあやふやな愛と信頼。

でも、それだけのために、私は彼と生きる道を決めたのだから。

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