【3】歯車は軋む
義両親は、冷たい会話を交わした後も、特に何も変化のない日々を過ごしていた。
義父が間遠いのは今に始まったことではなく、義母が平然としているのもいつも通り。
でも、何かが違う。
加奈江には、複数の糸が複雑に絡んで張りめぐらされている中を、たった一本の糸が切れただけで全てが崩れてしまいそうな緊張感を孕んでいるような気がしてならない。
そんな中、慎が帰ってきた。
義母が家を空けている時だった。加奈江は今度はきちんと舅を迎えられた。
「ただいま」
と、今朝この家から出たように言う義父の顔色は、夕方の暗がりを差し引いてもおそろしく悪く見えた。
「お帰りなさい」と言い、とっさに付け加えた。「お加減でも悪いんですか」と。
慎は表情に感情を一切乗せず、乾いた笑みを浮かべる。
「君にはいつも具合が悪いと言われているね」
「わ、私は……見たままを申し上げているだけです」
視線を落とす慎のまぶたには色濃い疲労の色が浮かんでいる。
「そうだね、残念ながら万全とは言えない」
「何か、召し上がりますか。消化が良いものを作ってきます」
慎は止めようとしたが、見ないフリ、聞こえないフリをして加奈江は台所へ走る。
今朝炊いたご飯、残しててよかった、簡単な雑炊ならすぐできる。
小さな土鍋の中から湯気を立てる雑炊を携える息子の嫁に、気圧されるように居間へ座る義父へ向かって、「さあ、食べて下さい」と加奈江は差し出した。
苦笑しながられんげを口に運ぶ慎は、おや、と言うように顔色を変える。
「この味付けは……」
「はい、料理は実家の母から手ほどきを受けてますが、でも、お義母様にも教わってますから、今はそちらの味付けにしています」
「そうか。――いや、懐かしい味だよ」
それは――義母の味付けだから?
ふたりは机を挟んでしばし黙る。
「ありがとう、もういい」
と言って慎は茶碗を下ろす。雪平鍋には、半分以上雑炊が残っていた。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、おいしかったよ。すまない、今日はすぐ出るつもりだったからゆっくり味わうひまがない」
「ごめんなさい、ご都合も聞かずに。私、押しつけてしまったんですね」
「そういうことを言うものじゃない、次は必ず全部食べる。だから、今日はこれで許してくれ」
「はい……」
穏やかに語る義父は、やはり政の声に似ている。語り口もそっくりで彼と話しているようだ。
「お時間がない、ということは、もう出かけられるんですか」
「ああ、今日は着替えを取りに来た。確かカバンがあるはずだが」
居間の片隅には、中身の詰まったボストンバッグが置かれている。仕度したのは義母だ。
加奈江は使い慣れて味わいが出ているバッグを差し出す。
「こちらですか」
「ああ、そう。ありがとう」
「もう、出られるんですか」
「人を――待たせている」
加奈江は知らず眉をハの字にした。
「君が思い描く人ではないよ」
「わ、私は別に」
瞳を和らげて慎は言い、加奈江は言いつくろった。
「いいんだ。――君も知っているだろうし、見苦しいところを聞かせてしまった。充分恥さらしなことをしているのは私だからね」
「お義父様……」
「あれにも、政にも――申し訳なく思うが……。責任を持つ人が他にもいるのだよ」
「そうですか」
「誰、とは聞かないんだね」
「聞いても、いいんですか」
慎は、目尻を下げて微笑んだ。
「君と話していると不思議と建設的なことを語っている気になるね」
「そ、そうでしょうか」
「余計な詮索をしないところが良い」
「人は――」
加奈江は一息継ぐ。
「語りたい時に語る生き物だと思っているからです。話さないのは、話してくれないからじゃなくて、時が満ちてないから。なら、待てばいいと……」
「ほう」
「政さんが、私に教えてくれたことです」
「政が?」
「あの人は、せっかちなようですけど、とても慎重で待てる人です。おかげで気が長くなりました。ちょっとだけ」
「……そうか……」
慎は視線を落としたまま、何か考えているようだった。
「息子が、待っている」
「息子さん」
「政の――腹違いの弟だ。彼はまだ未成年で幼い」
「まるでひとりぼっちのようなことをおっしゃいます」
慎はぎゅっと目をつぶった。
「――そうなる。息子は……ひとりになってしまうだろう」
え。
加奈江は背中にすっと冷たいものが流れるのを感じた。
息子と言うことは……。佳人の顔が脳裏に浮かぶ。
すらりと背の高い、芍薬の花のような華やかな人が。
「何があったんです」
先日の義両親の言い合いが思い起こされた。
指先まで冷えてしまいそうな冷たい応酬。加奈江は夫とふたりで寄り添い、お互いを温め合っていた。
舅は何故、妻は茉莉花だけだと宣言したのだろう。
「弟の母――君の目からは私の愛人となるが――」
自分が吐いた言葉にやりきれなさそうに目を伏せ、慎は続ける。
「今、入院している」
「お加減、悪いんですね」
「――二度と、家へ帰ることはないだろう」
「まさか、そうと決まったわけでは」
「決まっているのだよ。――癌なんだ」
みぞおちに思いくさびが打ち込まれるようだ。加奈江は目眩に似た感覚に襲われる。
様々な病名の中でも、癌という名はそれほどまでにおそろしい破壊力を持つ。
先が――もうないと宣言されているようなものではないか。
「私に、できることはないですか」
彼女は口にしていた。
「人手は足りてますか、女の人でないと……できないことってあると思うんです、手伝わせて下さい」
一気にまくし立てる。
「――成る程、こういうことか」
顔を上げた慎はつぶやく。
「政の気持ちが良くわかる」
「は?」
「君は、政の妻だ」
「関係ないです、人が困っている時に助け合えないような教えを、私は両親から受けてません」
「政や房江にはどう説明するつもりだね。内緒にはできないだろう」
「そうですけれど……お義母様には……お伝えできないです。でも、政さんにウソはつけない。大丈夫、彼ならわかってくれます」
「本当は」
慎はため息をついた。
「ありがたいと言いたい。男所帯だし、あれには親族がいない。息子はまだ高校生だ。話し相手になってくれると彼女も気が紛れるだろう。だが――難しいことになるよ、いいのかな」
「はい?」
「彼女は――自分の病名を知らない」
「わかりました、私、表情が表に出にくい、わかりにくいと言われますから、適役ですね」
「君という人は……」
慎の目に少し、光るものが浮かんだのは気のせいではあるまい。
気付かないふりをして、加奈江は出かけるという義父を玄関先まで送り出した。
手には病院と病室、当人の名前が書かれたメモを持って。
「――行くのか」
背後から声をかけられて、彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。
政だ。
「あ、あなた」
「行くんだろ」
「こ、これは、その……」
「ばかだなあ」
政は大きく息を吐いた。
「俺は自営業なんだから家にいる時間が長いし、今日は部屋に籠もってたし。それに居間で話してることは筒抜けだ」
「――ごめんなさい」
「おふくろがいなくてよかったな」
「……はい」
「ばかだなあ」
政はぽんぽんと加奈江の頭を二度軽く叩く。
「カナの性格だと放っておけるわけないだろう、気の済むように、出来ることをしてやってくれ。――相当悪いのか」
「ええ……。聞こえなかった?」
「ずっと聞き耳立ててたわけじゃないから、全部はさすがに」
「ええ……」
「早く治るといいな」
顔をゆがめて加奈江は言う。
「そうよね、治ると……いいわね」
癌は――治るのだろうか。
彼女の声の変化から、政は、あっさりと、感情を込めずつぶやいた。
「あの人――死んじまうのか」
ちり、と加奈江の胸の奥が痛む。
何故かしら、と思った。
けれど、すぐに思い当たった。
彼は佳人の家へ、迷わず辿り着けた。
何度も通っていたと言っていた。
佳人と彼の弟を遠くから眺めていたと。
それだけ?
ああ、今頃気づくなんて。私も鈍すぎる。
思春期の少年が、父の愛人の家へ、憎しの感情だけでそう通えるものではない。
憎んでいた。けれど――憧れ、慕ってもいたのだ。
政は意識していないかもしれない、けれど、彼のほのかな恋心、初恋の相手は、弟の母だったのだ。
加奈江は、少し、嫉妬した。でも、少し、ほっとしてもいた。
彼に人を愛する心があって、よかった。
そのきっかけを作ったのが佳人なら――
できるだけのことはしよう、私。
「あまり、無理はするなよ、お袋の手前もあるし」
「大丈夫、任せて」
加奈江は気遣わしげに見る夫の手を取り、頬を寄せて微笑みを返した。