これでふたりきり。
私たちの生活が始まる。
でもさびしい思いは消えない。
隣に立つ政をいつものように見上げる顔は余程心細そうだったのか。
政は大きく「うん」と言ってうなずいた。
加奈江は思い出す。
何か事があって問うように彼を見ると、いつも政は力強く頷いた。
そして、加奈江の手を強く握った。自分がいるから大丈夫だと言うように。
内心の動きはわからないけれど、とても安心できた。
大丈夫なのだと思えた。
今度も。
これからも。
加奈江は政に応えるように頷き返す。
この人といっしょなら。
わたしたちふたり、きっとさびしくない。
「じゃ、行こうか」
『夫』に促されて『妻』である加奈江はふたりに用意された一室へ向かう。
今日は挙式を挙げた神社近くのホテルに部屋を借りていた。加奈江が筆耕のアルバイトをしている縁で、会食も何もかも割安になったというおまけもついていた。それまでかかっていた費用を考えると焼け石に水レベル。でも、要は気持ちの問題だ。
くねくねと、やたらと長いホテルの廊下にやたらと広いロビーを抜けながら、加奈江は忘れかけていたものを思い出した。
身体も、忘れるなと言わんばかりにあちこちが症状を訴える。
――やだ、薬が切れてきたんだ。
加奈江は生理痛特有の頭痛と腹痛に顔をしかめ、客室のドアの前に着いた頃には振り返った政がぎょっとするくらいに青ざめていた。
「カナ、お前、すごい顔してるぞ」
「え? う、うそ」
笑ってごまかそうにも、不調は不調だ。それに、これは毎月必ず訪れ、ずっと続くこと。一緒に暮らすのだから政にも伝えないわけにはいかない。
女性には毎月来るものがあるのだと。
けれど……。
ああ、お腹が痛くてたまらない!
横になって休みたい!
うつむいていると、政はポツリと言う。
「――そんなに、不安?」
「不安、って?」
「いや、その」
「私、心配事は何もないわ。あなたを信じてるから」
「あ、そうか……」
政はポケットを探り、長い指を何度ももたつかせてドアの鍵を開けた。
入ってドアが閉じるのとほぼ同時に、加奈江はへたへたと床にうずくまった。
慌てたのは政だ。
「大丈夫か、おい!」
「あんまり、大丈夫じゃない」
夫は妻を抱き上げ、大急ぎでベッドへ運んだ。
どこかおかしい、と不調にうめきながら加奈江は思った。
本来なら、今日は『新婚初夜』というやつだ。
お互いに肌を重ねることもなく今まで過ごしてきたのだから、おそらく、寝台を共にするまで、それなりの駆け引きやら赤面するようなもじもじが、普段のふたりなら繰り広げられていたはずなのに、すぱっと中間をすっ飛ばしてベッドへ直行してしまった。
軽々と抱き上げられて、彼の腕の強さや逞しさをうれしく思うゆとりは、今の加奈江にはありはしない。
くつは脱がせたけれど、後はどうしたものやらとわたついて焦っている政に、申し訳ないやら情けないやら。
加奈江はさっきの姪にならうようにベソをかいた。
「どうした、しんどいのか」
気づかう彼の声もうれしく、申し訳なく。加奈江は言う。
「ごめんなさい」
「謝る事なんてない、具合が悪いの、我慢してたんだろう?」
彼女の額に手を当てて、熱っぽいみたいだなと言う彼を見て、さらに泣けてきた。
「あのね、私ね」
「うん?」
「生理来ちゃったの」
そのまんまじゃない!
もっと上手い言い方ないの、私!
自分に情けなくなって、加奈江は顔を真っ赤にしてわんわん泣いた。
「あ、ああ、そう……」
政は肩から少し力を抜き、ほっとしたように息を継ぐ。
「俺、てっきり病気か何かだと思ってたから。俺は男だから、女の……その、生理? よくわからないけど、いろいろと大変なんだろう? 無理するな」
「ごめんなさい」
「何故謝るんだよ」
額に当てられた手はゆっくりと頭を撫でる。
「だって」
今宵はふたりにとって大切な一夜となるはずだった。
なのに……。
「今日は疲れただろうから、ゆっくりおやすみ。俺はてっきり」
と言って、口をつぐみ、ポケットから出したハンカチを手渡す彼へ、加奈江は小首を傾げて続きを問う。
「……いや、何でもない、何でもないよ」
ごにょごにょと言う彼は、口に出した言葉を打ち消すように、はははと笑った。
初めてひとつの部屋で過ごした夜、ふたりはひとつのベッドで手を握り合って眠った。
相手を気づかうように、けど、触れ合いを求めるように。