翌日からは、新居での生活が始まった。
妻が作る朝食。
妻が作る昼食。
妻が作る夕食。
ちょこなんと並ぶふたりの茶碗やお椀にお箸に、いちいち大げさに反応し、舌鼓を打つ政はどれもこれもきれいさっぱり平らげた。
料理は一番の得意の加奈江だが、実家にいた頃は両親に姉の家族と自分の6人前を作っていたので、量の加減がわからなくてつい作りすぎてしまっていたのに。
学生の頃は蚊が鳴くようなほどしか食べてなかった彼が。
駅前の肉屋で売られているコロッケ以外にも好きなものはあるの? と思えるくらいだったのに。
学生の頃にお弁当箱を空っぽにしたように皿の上はきれいさっぱりなくなった。
けれど、「美味い」と言われて、美味しそうに食べる姿を見ていると自分もうれしくなる。
いっしょに食卓を囲みたい、この人をひとりにはしたくないと願ったことが叶ったと思った。
加奈江の身体の具合が落ち着いたら、今度は政が高熱を出して文字通り卒倒した。
床についた政が切れ切れに言うには。
数年に1回程、何も手が着かなくなるくらい具合が悪くなることがあると。
きっかり三日間続くと。
寝ていれば治ると。
だから、心配しなくていいんだよ、と。
うんうん唸り、心配しないのが無理な様子で寝込む彼を看病し、額に乗せた冷たいタオルを替え、汗みずくの身体からパジャマを着替えさせ、身体を拭きながら、何かおかしい、と加奈江は思った。
『夫』たる人の、そもそも男性の裸を間近で見て触れるのはこれが初めてだ。
政もそこは気づいていて、
「いい、やらなくていい」
と一応言うものの、
「そのままじゃ気持ち悪いでしょ」
と加奈江に押し切られるとまな板の上の鯉になるしかなく。
「情けないな」
と呻きながら布団の人になっていた。
どこか妙だ、私たち。
身体を拭かれて楽になったのか、寝息を立て出した政の、汗で濡れた額をタオルで拭いながら、加奈江は思った。
掛け金がずれているのか、もしくは合いまくりなのか。
普通なら流れるように事が進み、男と女の深い仲になっていくのだろうに、石にけっつまづくように障害が入ったりするのだから。
いつもそうなのだもの。
けど。
焦ることないわよね。私たちは私たちらしくあればいい。
規則正しくなった寝息に安心して、加奈江は寝室の襖をそっと閉めて、居間で書きかけの論文の下書きを始めた。
政が言った通り、彼はきっかり三日間寝込んだ。
寝込んでしまったので教室を休むお詫びを、彼のかわりに書道の師匠に電話で連絡をしたら、
「ああ、いつものやつだね。お大事に」
で済んだ。
彼を良く知る人にはおなじみのことらしい。
学校へ通っていた頃、政は病欠したかしら、と加奈江は思う。彼女が知る限りでは、ない。
これから、いろいろと知っていけばいいのよね。
だって、私の生理だって男の彼には初めて気づくことだったのだもの。
予定ではすっぱり復調するはずの四日目。
布団の上で仰向けになり、だるそうに腕を上げる政は本調子ではなさそうだった。
何か別の病気でなければいいけれど。
加奈江は少し心配になった。
「着替える?」と言って洗面器に身体を拭くお湯を張り、手にタオルとパジャマと下着を持って加奈江は声を掛けた。
妻の手にしっかりとおさまる男性用下着に、政は首を振り、
「お前にこんなことさせちまって」
と、熱からではない赤みを頬に上らせる。
「何を今さら」
パンツ見られたぐらいで何言ってるの、とは口にせず。
「さ、早く脱いで下さいな」
と、彼が止めるのも聞かず、布団をはがしてパジャマのボタンに手を掛けた。
……えっ?
加奈江は一瞬躊躇した。
これじゃ無抵抗の彼を身ぐるみ剥いで襲っているみたいじゃない。
昨日までみたいに、彼が起きるまで待っていれば良かった?
彼女の戸惑いは彼にも伝わる。
布団に横たわる政と、彼に覆い被さるような形で側にいる加奈江は見つめ合った。
お互い、まだ異性を知らず、そして何をしでかそうと何ら憚ることのないふたり。
私たち……書類上は夫婦なんだけど、まだ本当の夫婦になってない。
胸板に当てていた手の平を、やけどしたように引っ込めた加奈江の手は、政の手で引き戻される。
え? と思った時には、彼女は彼に抱き留められ、腕の中にいた。
「ダメ、政君、あなた具合が良くないって」
「このまま寝てる方がもっと具合悪くなる」
「え?」
どぎまぎして問い返す先にいる政の顔は、熱で上気していたけれど真摯で。初めて見る顔をしていた。
加奈江はぱたりと動けなくなる。
「カナ」
と言ってされる口付けは、今までになく深くて長かった。
初めて唇を割って入ってきた舌の感触にぞくりとする。
熱い、何もかもが熱い。
のしかかる彼の背に、加奈江の手がおずおずと回したら、政の腕に力がこもり、もっと強く固く抱きしめられていた。
彼の身体が、絡み合う手と足が、彼女を欲しがっているのがわかって、ああ、どうしよう、と加奈江は慌てる。
待って、ちょっと待って!!
だって心の準備が出来てない。
初めての時はどうしようとかいろいろ用意もしていたのに。
今の彼女はまったくの普段着で、下着だって姉がよくからかう『色気のかけらもない』ものだ。
それにお風呂。
昨晩入ったきりなのに。
せめて身体を洗ってから触れられたいのに。
ああ、お風呂!
加奈江にとって、新床の恥じらいは、頭いっぱいに占める「風呂!」の一文字に埋め尽くされ、その上、膝を割って初めて入ってきた彼は、とにもかくにも痛かった。
「痛い、痛い」
と言って加奈江は叫び、
「痛い、痛い」
と政も叫んだ。
「カナ、頼む、加減してくれ!」
「だって!」
「爪、食い込んでる、つめ!」
言われて、涙の向こうから見た政の額は、彼女の手がしっかりと、くっきりと、がっちりと掴み、五本の指が食い込みまくっていた――
政の額には爪痕が残り、しばらくは消えず、あらぬ誤解を受ける元なのでしばし絆創膏でかくされた。けれど、隠してもわかる人にはわかるもので、視線を逸らされる度、政は憮然とした。
そして、事が終わった直後、怪我をさせた詫びを言うより前に、豊かではない胸を今更のように手で隠して、加奈江は「もうイヤ」とベソをかいた。
「こんなこと、もうしたくない。私、イヤだから、絶対!」
「えええーっ」
ごめん、カナが可愛くて、世話してくれたのがうれしくて、我慢できなくて、と言葉を尽くして平身低頭謝る夫に、謝意だけ受け取り、妻は「セックスしません」宣言をつきつけた。
今のところ、妻の言い分は100%尊重されている。
ひとつの部屋で寝るけれど、おやすみのキスは額の上だけ。
枕を並べてはいるけれど、布団は別々。
お互い眠くなるまで暗闇の中で語り合い、初めて迎えた夜のように手を握り合って眠るけれどそれだけ。
若夫婦はいつにもまして門限を守る中高生並み、いやそれ以上に清く正しい交際を続けていた。
そして、新婚二週間目に。
妻は行きがかり上仕方がないとはいえ、実家へ帰ってしまっていた――
もくもくと夕食を取っている時にも、何か据わりが悪い。
不思議。
ここは私が育った家で、毎日囲んだ食卓で、いつも食べていた人たちといるだけなのに。
居心地が悪い。
政とはまだ2週間足らずの日々を過ごしたにすぎない。
けれど、私の居場所はここではないと思えてならなかった。
彼、ちゃんと食事はとったかしら。
いつも彼は出されたものを平らげてしまうから、作り置きの総菜もない。
こんなことなら、ちゃんと仕度してから出かければよかった。
初めての一件から、とても気を使って加奈江に接しているのがわかるだけに箸を運びながらどこかにひっかかりを感じて仕方がなかった。
私は家族と。彼はひとりでとる夕食。
ひとり?
心が痛んだ。
まだ学生だった頃、いつもひとりで食事してると彼から聞かされた時、思わなかったか、私ならあなたをひとりにしない、と。
しちゃったじゃないの、たった2週間で。
ひとりぼっちにさせてしまった――
じりじりしながら食後のお茶と写真鑑賞をすませ、大急ぎで後片付けをして、加奈江は電話機へ走った。
慣れない新居への電話番号のダイヤルを回す。
4回、5回と発信音が続き、たっぷり10回数えた頃に相手は出た。
「もしもし」
帰って来る声は少し不機嫌だった。
いけない、書道の練習中だったのかもしれない。
加奈江はおずおずと声をかけた。
「……政君?」
「加奈江か?」
電話の向こうの声は一気に弾んだ。
明らかに喜色を含んでいたので、加奈江もほっとしてついたため息に嬉しさを滲ませる。
「どうした」
「ごめんなさい、今、忙しかった?」
「いや、ちょっと外に出ていたから。取るのが遅くなってごめん」
「外?」
「今……いや、いい、明日になったらわかるから。今、高輪の家なんだろう」
「うん。ごはんは? 食べた?」
「ああ、心配いらないよ。それより、そこからだと電話代かかるから、もう切るぞ」
「うん……政君?」
「何」
「何でもない。声が聞きたかっただけ」
一拍間が空いた後、政は言った。
「俺もだよ。じゃ。おやすみ」
「おやすみなさい」
ぷつりと電話は切れた。
「あー、お熱いこと」
加奈江は背後にいつの間にか立っていた姉にびっくりして振り返った。
「電話でデート? そんなことなら、今日、無理してでも帰ればよかったのに。お写真、まだ見終わってないでしょ」
早くいらっしゃい、と言って妹を招いた。
やだ、そんなんじゃないのに。
受話器を戻した時、指に当たる感触に、加奈江ははっとなった。
左の薬指に光る、真新しい指輪。
彼と自分をつなぐ大切な絆。
あなたに会いたい。たった半日の不在がさびしくてたまらない程に。
居間に戻る寸前に、加奈江は指輪に唇を寄せた。
また姉に見られたら何を言われるかわからないから、誰にも見られないように、そっと。