◇ ◇ ◇
翌朝、気持ちは朝一番の電車で、と言いたかったけれど、「晩を食べたら朝だって」
と言う姉に逆らうことはできない。
もぐもぐと箸を動かしながら、政が道代を敬遠する理由が少しわかった気がした。
「いってらっしゃーい!」
と陽気に手を振る姪に送り出され、加奈江は、ずっしりと重い荷物を抱えてほぼ一日ぶりに我が家に戻った。
車を玄関先の駐車スペースに止め、サイドブレーキを入れて降りた車から玄関先へ向かってまず目に入ったのは物干し竿の向こうに立つ、落ち葉箒より少し丈が高い物体だった。
――あれは、何?
気を取られつつ、がらがらと玄関の引き戸を開けた向こうには、煙草をくゆらせながら書道の機関誌をめくっている政がいた。
こほんと小さく咳をして「ただいま」と声を掛けると、「おかえり」と帰ってくる。
そして、紫煙を棚引かせてる煙草を大急ぎでもみ消した。
政は同じ年頃の男性の例に漏れず、大学へ進学した頃から喫煙を始めた。
最初の頃は慣れない煙にむせていたけれど、彼は同年代の男性よりは年長者と会う機会が多かった。書の先生の鞄持ちをすることもあって、集まりや何だかんだで喫煙者が多い中、「おひとつどうぞ」と勧められることもある。そうなると断り切れず、気がついたらしっかりと習慣になっていたという。
加奈江の実家では誰も煙草をたしなむ人がおらず、煙に慣れていないし苦手なので、堪えていても咳が出る。政は、喫煙の習慣ができはじめた頃から彼女の前では極力吸わないようにしていた。
「ごめんなさい、留守にして。煙草も……ごめんなさい」
「お前が謝るようなことじゃないって。自宅ぐらいでは止めた方がいいんだけどな、煙草は……」
そう言いながら政は灰皿を片付けに裏庭へ行った。
「火の元、気をつけてね」
と声を掛ける。少し離れたところから「ああ」と返る彼の声。
加奈江には気配りを欠かさない政。何の気なしに出る行動に、彼の彼女へ寄せる思いやりが出る。
「皆さんお変わりなかったか?」
戻りながら言って。自分が口にした言葉に
「2週間で変わるわけないか」
と自分で答えを出した。
些細なやりとりに、つい、加奈江は吹き出していた。
これが犬も食わない夫婦の何とやらなのかしら、と。
「庭の、見たか?」
「え、うん。何か立っていたけど、そのこと?」
「そう。昨晩作ったんだ」
電話に出るのに遅くなった理由の、あれは、まさか。
かかしだったの? と口にしそうになって止めた。
少なくとも政はご満悦だったから。
「あれなら、小鳥よけにはなるだろう」
……どうだろう、効果の程はかなりあやしそうだ。
政は絵は上手いけれど、造形はそうでもないらしい。
それより、一晩中かけてかかしを作っていたというの?
大切な書の練習はしたのかしら。
あれこれ聞いてみたかった、でも、何より加奈江が口から出任せに言ったことを優先してくれた彼の気持ちがうれしかった。
「あのね」
昨晩はすんなり出た「声が聞きたい」に次ぐ「会いたい」「さびしかった」の一言が、彼を前にすると出てこない。
電話だから、面と向かって言うわけではないから言えたことだったの……?
もじもじする彼女に、彼は言う。
「帰って来て早々悪いけど……俺、もう出るから、車、出してくれるかな」
「えっ?」
上げた顔に、政は顎をしゃくってカレンダーを見るように促す。
月間カレンダーに記されたマークは政が教室へ行く日がチェックされている。今日は都内の複数の教室を回る日だ。
車の運転はしないように言っている手前、出かける政を駅まで見送り、出迎えるのは加奈江の役目だ。
「ごめんなさい、忘れてた」
「俺もどうしようかと思った。バスを使ってもいいんだけど、カナと入れ違いになりそうだから待ってたんだ。今なら充分間に合うし。鍵だけくれれば自分で運転するけど……」
「それはダメ」
「やっぱり?」
「そう。ダメ」
加奈江は一度しまった車の鍵をもう一度出し、政は戸締まりを確認して、ふたりは出かけた。
車中では他愛ないこと以外はろくに話もできなかった。
「今日も先週と同じで遅くなるだろうから、迎えはいいよ」
「わかったわ」
「じゃ。行ってくる」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
ぽんぽんと加奈江の頭を二度、撫でるように叩いて、政は駅の入り口へ飲み込まれて行った。
その背を名残惜しげに見送った彼女は、再び自宅へ戻る。
彼は、心配いらないと言うだけのことはやってくれていた。きちんと整頓され、折り畳まれている洗濯物。台所もきれいなものだった。
そして……ふたりの下着は……そこにはない。
「うそっ」
加奈江は大急ぎでタンスを引き出すと、それらは定位置にきちんとしまわれていた。
それ以上いじられた形跡がなかったので、ほっとする。
奥の方には、隠すようにしまっていた包装紙の包みがある。
良かった、気づかれてない。
加奈江は包みをかさかさと開けた。
そこには、値札を切っただけの真新しい象牙色の下着がひとそろえ。
これは初めて彼と夜を共にする時に身につけたいと買ったものだった。
あまりあからさまじゃないように、大胆でもなく、野暮ったくもなく、子供っぽくもなく……と、あれこれ店頭で見つけて棚やワゴンに戻すのを繰り返して。途中で気後れしてしまい、無難に象牙色の、レースで縁取られた、普段使いもできそうなものにした。
もちろん、普段つけているものと比べたら、色気があるどころではない。ずいぶんと冒険した気がした。ここまで大胆なカットの下着は過去にも着たことがない。
ワゴンセールで買った安い下着ばかりの私が、すごく勇気を出して、バカみたい、と思って。
でも。
夫となる人に初めて身を預けるのだから、少しぐらい夢見てもいいじゃない。
そう自分に言い聞かせてレジに並んだ。
店員さんと視線を交わさないように目を伏せて会計をすませた。
結局出番はなかったそれは、新品のまま奥にしまわれ、普段使ってるおばさん下着はしっかりと彼に知られてしまった……。
恥じらっても、もう遅い。
とん、とタンスを閉じて、頭を振って。
気持ちを切り替えて。私。
どんなに遅くなってもかならず帰ってくる政の為に、今日も彼が好きなおかずを作ろう。何がいいかしら。
「その前にお掃除しなくちゃね」
ひとりごとを言いながら、加奈江はよっこいしょと腰を上げた。