【3】蚊帳をまくって
先週とほぼ変わらない時間に政は戻ってきた。丸い月が空にかかる夜だった。
「おかえりなさい」と加奈江が出迎えるのと同時に「美味そうな匂いだな」と鼻をひくつかせている。
「今日はろくに昼をとれなかったから、腹ぺこなんだよ」と上がり框に足をかけながら言った。
「まあ」
毎週、この曜日は帰りが遅くなる上に食事は不規則になる。気をつけることはたくさんあるわ。
「お弁当、作る?」
「いいな、カナの弁当は久し振りだよ。でも、手間だろう?」
「平気。高校の頃もできたことだもの」
助かる、と言いながらぱくぱくと食卓に乗るものは片っ端から平らげていく政を見ながら彼女は思う。
夕食後、のんびり食後のお茶をしながら(これは水流添家の習慣を持ち込んだ)ひとしきり昨日のことや今日起きたことを話す。
まるで何年もそうして過ごしてきたように他愛ないことを滔々と話した。
「そうそう、義兄からアルバムを預かってきたの」
よっこいしょと風呂敷包みを解くと、政もぎょっとしたようだった。
「こんなにあるのか」
ぱらぱらと台紙をめくって、政は感嘆する。
「そうなの」
「きちんとお礼をしないといけないな。今、いるかな」
「どうかしら、平日は帰りが遅いから」
「なら週末に電話するよ」
「その方がいいと思う」
昨日一通り見ているアルバム挟んでふたりで見た。
自然、寄り添う形に、そしてお互いの距離は近づいていく。
とん、と肩が触れた時、ふたりはどちらともなく見つめ合った。
どきん、と加奈江の心臓は大きく強く脈打つ。
頬が一瞬で火照った。
キス、したい。
そう思ったのに。
加奈江は咄嗟に口にしていた、「お風呂、沸いてますから、お先にどうぞ」と。
「え、ふ、風呂?」と政は反射的に言い、次にぽかんとして応えた。
「帰りが遅くなる時は先に入っていていいって言っただろう」
「だめよ、男の人より先に女はお風呂に入れません」
「それは、カナの家ではそうなんだろうけど」
「うーん、気持ちが落ち着かないの。やっぱり先に入って欲しい」
「そうか? 気にすることないんだけどな」と頭をかきつつ立ち上がって、
「じゃ、お言葉に甘えて」と政は奥へ消えた。
風呂から上がると彼はさっさと寝てしまう。
早く布団を敷かなくちゃ。
ぱたぱたと手で頬をあおいで火照りを鎮め、ぱたぱたとちゃぶ台を畳んで壁に立てかけて、押し入れから二組の布団を出して並べて敷いた。
新しい布団は嫁入り道具としてもってきたもの。母が仕立てを教えてくれ、加奈江が表地を選んで、側で見てもらいながら作った。
女のたしなみとして、母からはたくさんのことを教わった。炊事も針仕事も。
「何でも作れるんだな」と目を丸くした政は、布団の上にごろりと横になり、「安眠できそうだ」とできばえを褒めてくれた。
彼は人を褒める。決してけなさない。わかっているけれど、素晴らしいと言われてうれしくないはずがない。
昨晩、「いっしょに寝よう」と言って人の布団の中に入って来て、先に大の字になって寝てしまい、寝床の大半を占拠した、寝相が見事な姪をあやしながら、彼の温もりが恋しいと思っていた。
夜は素直な自分を連れてくる。
蚊帳を張る手を止め、リー、リー、と気の早い秋の虫の声を聞きながら、加奈江はおとがいに手を当てて窓の外を見ていた。
「上がったから。次どうぞ」
声を掛けられて、加奈江は文字通り飛び上がった。
「な、何」
声を掛けた方も驚いて飛び退く。
「考え事でもしてたのか」
「ううん、何も考えてなかった――」
「は?」と首を傾げ、「早く入った方がいいぞ、湯が冷める」
と言って、彼は蚊帳を彼女から引き継いで梁にひっかけて張っていく。
そして中に入って自分が寝る布団の上にあぐらをかいた。
そうね、と返事して身支度をしたいのに。加奈江は縫い止められたように動かない。
「カナ?」
「うん、早く入った方がいいのよね、わかってる、わかってるんだけど、私」
「……うん?」
「昨日、電話した時……」
「うん」
「実家で、姪と寝てた時もね、私、どこか宙ぶらりんで心許ないなと思ったの」
「うん」
「……無理してでも帰れば良かったって」
「それはダメだ」
「どうして」
「市街地と違って、ここは道が曲がりくねってるし、街路灯だってない。カナの運転が上手いのはわかってるけど、俺は心配だから、きのうは高輪にいてくれてよかったんだよ」
「でも」
加奈江は言い募る。
「私、さびしかったんだもの。半日側にいないだけでさびしいと思ってしまったんだもの」
髪の滴をタオルで受けて、政は彼女の言葉を受け止める。
「俺だって――さびしかったさ」
髪を拭いたタオルを脇に片付けて言う。
「隣にお前がいないと、この家はとても広くて寒々しくなる、と」
伏せた瞳を上げると、蚊帳越しにまっすぐにこちらを見つめる目があった。
彫りが深く、眉は少し太く、目は二重で好奇心にいつも輝き、睫毛が少し長い。通った鼻梁は少し高くて整っている。引き締まった口元はとても知的だ。
いつも見守ってくれる温かい眼差しに、胸が騒ぐ。
「ごめん」
政は言う。
「何を……」
「初めての時」
加奈江はぱっと頬を赤らめ、政は彼女を見つめる目を伏せる。
「待って下さいと言われたら待つと、約束していたのに。俺の方から破った。カナが嫌がるのも当然だ、待ってくれと何度も言ってたのに、怖がっていたのに……待てなかった」
政は深く、頭を垂れた。
「政君……」
「ほんと、ごめん」
加奈江は、結婚式の写真に写る、彼女を追うように見つめる彼の姿を思い出して胸がきゅっと痛くなる。
彼に抱きしめられるのが好き、キスも好き。
温もりの先にある、男女の営みをまったく知らなかった加奈江にとって、彼との初体験は確かにショックが強かった。
いきなり男女の身体の違いを知らされた。
女は男を受け入れる性なのだと、思い知らされた先にあった困惑は、処女の想像をはるかに超えていた。
ドキドキや面映ゆさよりは、生々しい痛みを運んで来た。
もっと嬉しくて、安らげるかと思ったのに……違っていた。
夢や思い込みが強くて、つい、勢いで言ってしまったのだ、もうイヤだと。
でも、今は、彼の重みを、肌の熱さを求める自分がいる。
あの腕に抱かれたい、もっと強く抱きしめてほしいと……。
何故、あんなことを言ってしまったのだろう、この人を、勢いもあったけれど何故拒もうとしたのだろう。
望んで、望まれて嫁いだのに。
加奈江は両の腕を伸ばす、彼へ。
政も伸ばした、蚊帳をまくって、彼女を受け止めるために。
壊れものに触れるように、背中を、肩を抱かれて、彼女は深く息を継ぐ。
温かい。
何故か目尻に涙が浮かぶ。
ああ、彼だ、私が知ってる、私が好きな……。
私が欲しかったのはこの温かさだ。
胸に顔を埋めて加奈江はしがみついた。
「カナ」と耳元で彼の声がする。
前にも似たようなことがあった。
あれは初めて彼と抱き合った高校生の時。
ふたりとも初めてだったからどうしたらいいかわからなくて。
固まっていたっけ。
そして頬を寄せ合って、初めてのキスをした。
「前にも同じようなことがあったな」
「うん。私もそう思ってた」
あの時と同じように、唇を触れ合うだけのキスをして、政は言った。
「あの時――女の子はとても可愛いと思った」
再度、軽く交わす、キス。
「大切にしたかった。その気持ちは今も変わってないよ」
そう言って、彼は身を離した。
「早く風呂、入っておいで」
「どうして……。また手を離してしまうの。あの時みたいに」
「カナ」
「私、すごい勢いで逃げられたから、嫌われたと思った」
「そんなわけない」
「でも、今も同じことをしてる」
「それは、カナが……」
「私、あなたにひどいことを言った、私の方から言いだしたことなの、それはわかってる、けど」
目を伏せて加奈江は小声で言った。
「あなたと寝ない、って言ったのは私だけど……今度も私から言わないといけない? 私を――」
抱いて下さいと。
口にしかけた言葉は、言い出されないままで終わった、政が加奈江の思いを受け止めるように強く抱き寄せたから。
背に回す手が腰ごと捉えて、背を、肩を、愛しげに撫で回す。
加奈江も彼にしがみつく。
「お前が怖がるなら、いくらでも待とうと思ったんだ、だけど……いいのか?」
囁かれる声が、甘く彼女の心に響く。
「はい」のひとことが言えなくて、何度もうなずいた。
彼の唇が重ねられた。
三度目のキス。
けれど、今度は触れ合うだけではなかった。ためらうように唇を開いて吸われる。
加奈江も応える、彼にならって、彼と同じように受けれて――
名残惜しげに唇を離して、頬ずりする彼へ、蚊が鳴くような声で加奈江は言う。
「お風呂――入りたいの、ちょっと待ってて」
「駄目、待てない」
政は言い、すぐに小さく吹き出して肩から力を抜いた。
「でも、……この前みたいにカナを泣かせたくないから。行っておいで。この前も、ずーっと風呂、風呂、ばっかり言ってたし」
「え? うそ」
かあっと頬をりんごみたいに赤くして加奈江は彼に問う。
「ほんとに?」
「カナは、気になることがあると、念仏唱えるみたいにぶつぶつ言う癖があるけど。気づいてたか?」
「やだ、もう」
加奈江は恥じらいではない、羞恥に耳まで真っ赤にした。
初めての時に、何やってるの、私ったら。
「さあ、行っておいで」
固く抱いた身体を、ふわりと緩んだ彼の腕が解放する、その力を惜しむように、蚊帳の外へ出かけた加奈江は引き返して政に口づけた。