#8 暗い夜更けに三度目のちゅ〜
◇◆敦彦◆◇
僕の部屋の対面に妹の部屋がある。
豪勢な歓迎会を終えて部屋に戻る途中、ふと立ち止まって間宵の部屋にかかったプレートを僕は何気なく見つめていた。
ピンクの紐で束ねられたそのプレートには、『まよい』と可愛らしくも拙い字が書いてある。小学校のころ、“自分の部屋”をもらった喜びのあまり、書いたものだ。
『こっちからここまでわたしの部屋だかんね〜。お兄ちゃん入ってきちゃ駄目だかんね〜』と――。あの時の間宵の嬉しそうな顔を僕はありありと思いだせる。また、そのプレートを裏返せば、『就寝中』となる。中学に上がった時に書き足したらしい。
ちなみに、僕の部屋にも同じくプレートがかけられており、間宵の文字で『あっちゃん』と書いてあるが、裏面はなにも書いてない。ルームシェアしているわけではないのだから、わざわざ『就寝中』などと明記しなくてもいい気がしたからだ。
間宵はすでに部屋の中にいるらしく、そこからうっすら漏れているクラシック音楽が耳に聞こえてきた。
モーツァルトの『フィガロの結婚』という曲だ。序曲が特徴的なので素人の僕にでもすぐにわかった。門前の小僧習わぬ経を読むというように、昔はこうしてクラシック音楽の知識をつけたものだ。
だから音楽が聞こえてきた時は、込み上げてくる懐かしさに思いがけず頬が綻んでしまった。そのまま物思いにふけってしまい、数秒立ちつくしていた。
その光景を沙夜に目撃されてしまう。
「ふふふ〜。ご主人様」
彼女はにやにやした顔をして両手を後ろ手に束ねながら、こちらに歩み寄ってきた。
「なんだよ」
「なんだかんだいっておきながら、妹君が帰ってきたことが嬉しくて仕方ないんじゃないですか?」
「う、うるさいな! 別に嬉しくなんか……」
「ふふ、素直じゃないですね〜。相変わらず」
それがあまりにも図星だったものでむかむかした。相変わらず、といったところも皮肉めいていて口惜しい気分を催した。
そうだ。普通に嬉しい。
なんせ妹は海外へ留学中の間、京子さんや武史さん、斉藤家の方々とはこまめに連絡を取っていたらしいが、僕に対してはほとんど音信不通だった。少しばかり連絡はあったのだが、それは冬を迎えてからそれもぴったり途絶えた。だから久しぶりの再会を果たして、僕は嬉しく思っている。
なぜ音信不通になったのか、よくよく思い起こせば、見当がつく事象がいくつかある。
妹が留学すると聞いた時、僕は強く反対したのだ。
アメリカなんて危険な所にいかせてたまるかと――。
当時まだ中学生だった僕にとって、アメリカという異境の土地は未知の異空間だ。知らない場所ほど怖いことはない。
それとも、あの時反発したのは単に嫉妬心ゆえだったのかもしれない。僕よりも先に海外へ行くという活発な妹に抱いてしまった羨望から生まれた嫉妬――。
なんにせよ、僕は猛烈に反対した。罵声を浴びせたりもした。しかし妹は、反対をものともせずに出国した。
あれはもう一年ほど前のことだ。だから、出来事を思い出すことは難儀なことである。ひょっとすればあの日の険悪さが尾を引いて、今の僕らの殺伐とした関係が形成されてしまったのかもしれない。だから、連絡が途絶えたのではないか?
いや、と思考を中断した。
考えるのはやめにしよう。僕は僕で明日から学校が始まり忙しくなるのだから、そちらのことを優先して考えるべきだ。妹との関係などいつだってどうにでもなる。
「そんなことよりも明日からまた学校だ。お前もついてくるんだよな」
「当たり前です。ご主人様ひとりにしておくと、なにをしでかすか知れたものではありませんから、はい」
「それはこっちのセリフだよ」
そういいながら、自室に入る。僕ら二人はベッドの上に並んで腰を掛けた。
「あ、そういえば、妹君も今年から高校生でしたよね。妹君はご主人様と同じ学校に通うことになるのでしょうか?」
「いや、間宵は二駅となりの高校に明後日から新入生として入ることになっている」
確か、幼馴染みである小早川奈緒と同じ女子校に通うこととなっていたはずだ。名門である私立の高校に合格したのだというのだから、近いからというだけの理由で今の学校を志願した兄との“でき”の違いは明瞭としている。
「あれですか? きこくしじょってやつですか?」
「うーん、どうやら帰国子女扱いはしてもらえないらしい。編入ではなく入学なんだ。しっかり受験もしているしな」
そう考えると、面倒だらけだな、と思えてくる。
「なんだか面倒くさいですね」
沙夜も同じ感想を抱いていたらしく、億劫そうにあくびをした。
「面倒なんだよ、人間は――。特に外国の介入があると、ますます面倒ごとが増す。ほら、アネモネだって普通だったら不法入国者になるんだぞ。人間だとな無断で他国に入っただけで犯罪なんだ」
それにしても――。アネモネは何者なのだろうか。大体、使役しているって、どうして二人一緒に帰ってきたんだ? アネモネの都合はなかったのか? それは、彼氏だからか。
きっと彼女らの間にも、僕と沙夜のように複雑な結びつきがあるのだろう。
「便利でいいな、憑きものは」
「ふっふん。そりゃ、まぁ、尊厳ある生き物ですから〜♪」
「そりゃ頼もしい」
それだけいって、薄い毛布にくるまった。ここは僕の部屋であるのにもかかわらず、ベッドではなくカーペットの上で横になっている。その理由は単純明快、沙夜がベッドを使うからだ。
ちなみに、最近は沙夜が身を隠すことをしなくなったので使わなくなった手段だが、憑きものは憑きもの筋である人間の影の中に姿をひそめることができる。それを半分だけ憑依しているという意味から半憑依状態と呼ぶ。
ならば、僕がベッドを使い、沙夜は僕の影の中に入って眠れば効率がいいように思えるかもしれないが、彼女は影の中では寝付けないという問題を抱えている。前の主の元にいた時、優雅に豪華なベッドで眠るという暮らしを“強いられていた”ため、定着してしまったのだ。なので同情してしまい、僕は床で眠ることとなる。
間宵とアネモネは僕らが眠っている間どうしているのだろうか――。不安ばかりではなく、様々な不純な想像が膨らんでしまい、頭をもたげさせてくる。そんなことを押しとどめながら、リモコンで消灯し目を瞑った。
「おやすみなさい」
「おやすみ、沙夜」
明日からはどんな日々が待っているのだろう。考えるだけで胸が高揚するような、はたまた、不安で胸が押しつぶされるような、複雑な気分にさせられた。頭の中がごちゃごちゃだ。
しかし、過度の緊張感と窮屈感によりよっぽど疲れていたようで、毛布に潜った瞬間、睡眠の世界へと僕の精神は没入していくこととなる。
そこで僕は思い至らされた。今日、ずっと緊張していたのは、間宵と久しぶりに対面するから、という理由だけではなく、妹が無事に帰ってくるかどうか不安になり、気が気でなかったからなのだろうということを――。つまり兄として妹のことを心配していたのだ。
結果として何事もなく帰ってきたので、幸福とよく似た安堵感が胸にこみ上げ、とても安らいでいる。なんだかんだいいながらも――結局は妹が大切なのだ。
アネモネという不安要素がなければ、万々歳だったというところだろうか――。
などと考え浮かべたところで意識が遠ざかり、精神的な静寂が降りおちた。
それと同時に沙夜がベットから降りおちてきた。
「いたーッ!」
僕の腹部に芸術的なエルボーが直撃する。
「ごっほ、ごっほ! お、おい? なんだ、なにが起こったんだ?」
わけがわからないまま視線を上げれば目前に沙夜の顔があった。彼女はぼうっとした虚ろな目で僕を見据えている。
「……なんだよ?」
「ふぁ〜、ごしゅじんしゃま〜、そういえば、まだおやすみなさいのちゅ〜してもらってませんよ〜」
「は? ちょちょ……」
抱きついてきたかと思えば、すぐさま僕の両手両足を押さえつけ、身体をよじらせてくる。即座にがんじがらめにあった。蛇に捕らえる時の小動物が味わうようなもの凄まじい恐怖が襲う。
「ひっ!」
口を「3」にして唇を突き出してくる沙夜を前にして、僕はか細い悲鳴を上げていた。
また半面で、憑きもののくせに温もりあふれる彼女の体温と、人間らしい滑らかな素肌が僕の身体と密着し、理性が吹き飛びそうになる。脆弱な理性の糸をどうにか繋ぎ合わせて、沙夜の身体を引っぺがそうと試みるが、彼女の力が思ったより強く微動だにしなかった。
「ね、寝ぼけてんのか、この痴女憑きめッ! おやすみのちゅーってなんだ! 日本にそんな習慣はない!」
そうだ。
この憑きものは“キス魔”だった。
二か月の間、なにごともなかったので、すっかり安心しきっていた。
この時になって、思考のすみに押し殺していた彼女の本能が覚醒したのだ。
「離れろ、離れ……おい、おいッ! ちょっと待て待て待て待て、お、おいおい……。ひっ!!」
――沙夜の唇はやはりやわらかかった。
そうして、僕らは暗闇の中、三度目の口づけを交わしてしまったのである。
「たく、最近は大人しいなと感心していた矢先にこれかよ……」
ちなみに、このことを沙夜に問い詰めたところ、あろうことか彼女は、『覚えていません。ご主人様の妄想ですよ』と心外そうに白を切ったりするのだが、それはまた、翌朝の話だ。