小説『ケーキの苺はいつ食べる?』
作者:雪篠(A BLANK SPACE)

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 その日、店にユニが来なかった。彼女が無断欠勤することは滅多になかったけれど、最近は流石に大分体調も良くなさそうだったから、その所為かと勝手に納得した。職場からの電話に出ないのも寝ているのだろうくらいに思っていた。
 だから別段それは必然ではなくて、ただ偶々今日は早上がりで、咲子さんとの待ち合わせが控えていて、それまで時間がある。それだけの理由で、少し様子を見に行ってみようかという気になった。

 一度だけ行ったことのあるユニのアパートは、店からそう遠くないところにあった。かつては白かったと思われるくすんだ壁が、夕暮れにぼんやりと浮かんでいる。
 大通を挟んで向かい側まで来た時に、ちょうどアパートの狭い階段を降りてくるユニが見えた。
 声を掛ける前に、ユニが一人ではないのに気付いた。どうみてもあまり雰囲気のよくない男達と一緒で、いや連れられてという表現の方が相応しいんだろう、アパートの前ちょっと離れた所に止めてある車に乗せられるのだろうと思った。
 バレたんだ、何の根拠もなく直感的にそう思って、今度は寄り道なくいっぺんに最悪のケースまで思考は辿り着いた。
「こっちだ、ユニ」
 先に車に乗り込んだ男達には気付かれないようにと小さく叫んだ瞬間は、俺の頭には何もなくて、咲子さんのことも、それに付随する後ろめたさもなくなっていた。
「ユ――」
 もう一度ユニの名前を呼ぼうとした俺を、通りの向こうでユニは素早く指の動きで制した。シッ、と一瞬だけやって、首を横へ振る。なおも口を開こうとする俺の顔をじっと見て、ユニは「ダイジョウブだから」と声を出さずに口の形で伝えて、俺を追い払うように手を動かした。
 大丈夫な筈がなかった。なかったが、今俺が飛び出していってできることも、確かになかった。ユニを連れて逃げて、それでどうすることができる訳でもなかった。
 どうすることもできないのに立ち去ることもできないでいる俺を見て、ユニは安心させるように笑ってみせた。それから今度は、バイバイという風に小さく手を振った。
 ――俺は結局ユニを置いて、その場を離れた。



 初めて待ち合わせに遅刻した俺を、咲子さんは少し心配そうな顔で待っていた。ケータイを見ると着歴とメールが何件かあった。
「ごめん」
 俺が謝ると咲子さんは、仕事でしょ? そんなに気にしないで、と笑った。
 その笑顔に俺は、今更襲ってきた咲子さんへの後ろめたさと、最後に笑ってみせたユニへの罪悪感とで吐きそうになる。項垂れて、ごめん、と何度も繰り返す。謝る度に、自分は何に謝っているのかと、後ろめたさと罪悪感は増した。
「やだ、智くん、どうしたの? ねえ」
 咲子さんが慌てていた。俺はきっとひどい顔をしていたし、壊れたみたいに何度も謝られても咲子さんは困るだけだろう。
「ごめん、何でもな……」
 安心させようと言いかけて持ち上げた頭を、不意にぐっと引き寄せられた。柔らかで温かな咲子さんの胸に触れる。

「危ないよ、咲子さん」
 俺と咲子さんの身長差はヒールを履いたって覆りはしない。俺の頭の高さがここにくるのは不自然だった。斜めに見下ろした咲子さんの足下はマンションのスロープに不安定に乗っかっていた。俺を自分の方へ引き寄せながら、咲子さん自身は俺の方へ乗り出していたから、俺は咲子さんが真っ直ぐ立てるよう、そっと半歩前へ出る。
 ビスケットのような甘い香りがした。香水と混じった咲子さんの香り。
 女の人の身体がこんなにも人を落ち着かせられるのだと思った。そして、落ち着いた頭でもう一度、本当ならこの温もりの中で安らかに眠れる筈だった命のことを思った。
 その夜、最低な俺は、他の女のことを思いながら咲子さんの胸の中で眠った。

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