小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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ちなみに、診療関係の苦労話はまだまだある。
診療を担当するようになると当然、血液検査やレントゲン検査、点滴や注射などの検査や治療を行う機会も増えるが、消耗品を使う時は要注意だ。
こう書けば勘の良い人はもう何となく気付くだろうが、我が病院では消耗品を使って失敗したら給料から天引きされるシステムとなっている。
失敗分はオーナーに請求するわけにいかず、そのまま病院の損害に繋がるからだそうだ。
血液検査用チップ、ウイルス判定キット、レントゲンのフィルム、注射器、注射針…。
安い物はやり直しの回数が少なければ免除されるが、原価で100円を超える物はしっかりカウントして自己申告する。
自己申告なので院長が見ていない時はある程度誤魔化せそうだが、見ている前で失敗した時はどうしようもないし、見ていない時でも他の従業員が告げ口する危険がある。
告発すれば院長の印象が良くなり、その従業員は怒鳴られ難くなるからだ。
我が病院内は気を抜いた奴から喰われていく弱肉強食の世界なのだ。
そして、検査や治療の回数も多いため、1か月間全く失敗しないという事は無い。
したがって、毎月の給料がどんどん減っていくに連れ、やる気もぐんぐん無くなっていくのだ。
ちなみに、何故こんなせこいシステムになっているかというと、院長曰く「お金がかかると慎重に、失敗しないように注意してやる癖がつき、技術の向上にもつながるから。」らしい。
素直に「お前らのミスによる損害をオレが受け持つなんて真っ平御免だからだよ。」と言えばまだ可愛げがあるのに、それらしい理由をわざわざ考えて従業員から搾取するなんて本当に小物ですなぁ。

さらに、診療をやり始めると他にもやらなくてはならない仕事が増える。
従業員の休診日出勤については前に述べた通りだが、獣医師にはそれプラス急患の診療当番も回ってくるのだ。
夜間や休日の急患の扱いについては各病院で対応が異なってくるが、我が病院では、休診日は対応するが夜間は対応しない事になっている。
その理由は院長曰く「休診日はホントの急患が多いが、夜間は緊急の状態じゃない患畜や無理難題をふっかけてくる飼い主、後で金を払うと言ってそのまま逃げる飼い主が多いため。」との事。
それもあるかもしれないが一番の理由は恐らく、「夜中に自宅下で他人にゴソゴソ動いてほしくない。(我が病院は院長の自宅が2階に併設されているため)」というものだろう。
まぁ、理由などはどうでも良いが、夜間の診療もしない奴が「病気は平日休日関係なくやってくるから。」とか語るとは笑わせてくれる。
それはともかく、そういうわけで休診日には急患が来た時のために、院長以外の獣医師が対応できる体制を取っておかなくてはならないのだ。
看護師が休診日当番で僕が急患当番の場合は、自宅待機という半拘束状態だが、どうせ疲れて家で寝ているのでさして問題ではない。
もし急患が来ても、看護師に補助してもらえるので何とかなる。
問題は僕が休診日当番の場合だ。
獣医師の休診日当番は、自動的に急患当番も兼任することになっているのだ。
急患の診察や治療は独りでやらなくてはいけないし、院内の整理整頓や掃除、その他の雑用も急患が来たからといってノルマが軽減されることは無い。
また、こっそり看護師を呼んで補助を頼もうものなら、「何勝手に従業員呼んでんだ!?院長気取りか!!」と怒鳴られるらしいので、応援も頼めない。
そんな時間的制約の中で診療をすれば、どうしても普段より粗がある診療となって翌日には必ず怒鳴られるため、精神的にかなり追い詰められる“休日”となる。
「院長はどうした?」と思われる方が居られるかもしれないが、そろそろお気付きだろう。
わざわざ休みの日に働いたり手助けしてくれるような院長ではない。
当然のように外出しているか、在宅中でも絶対に下りてこない。
さらに、診療の相談をするだけでも「オレは今日、休みなんだぞ!!」と怒鳴られ、無視される。
僕も本来は休みのはずなのに、何故神経をすり減らしてまで無償労働しなくてはならないのか?
ちなみに、休診日に診療する場合は、オーナーから診療費とは別に休日料金も徴収するが、僕には一切入ってこないし、病院からの休日診療手当てみたいなものも無い。
その理由は「休日の診察は、自分で開業した直後の独りで何でもやらなければいけない状態の練習になる。タダで病院の機材を使わせて練習させてやるんだから、むしろ授業料を払ってほしいくらい。」との事だ。
ふーん、あっそ。
言いたいことは山程あるけど面倒くさいのでやめとこう。

ともかく、そんな八方塞がりの状態なので、休診日当番の時の診療後にはやっぱり事件が起こる。
ある休診日に、かなり具合が悪い患畜が急患でやってきたので診察し、検査し、点滴をする。
本当は預かって様子を見たいところだが、院長に確認もせずに入院させると怒鳴られるし、入院させて良いかを聞いても怒鳴られる。
しかも返事は貰えないので、相談しても怒鳴られ損だ。
悩んだ結果、点滴もしたし、すぐに急変するような状態ではなさそうだったので、翌朝にまた来てもらうように言ってその日は帰ってもらう。
そして翌日。
朝っぱらから院長登場。
もちろん、キレている。

院長「おい、カルテ見たぞ。この症状、オレなら○○の病気を疑ってその検査もやるけど、それをやってないって事はその病気の心配はまったく無いんだな?」
『あ…、えっと…、……あります。』
院長「じゃあ何でいきなり点滴なんかやってんだ!!ボケ!!検査結果の数値が狂うだろが!!しかも点滴してすぐに帰しやがって!!これで死んだらお前が責任取ってくれるんだろうなぁ!?あぁ!?」
(そこまで言うなら自分が診ろよ…。だいたい、「休みだから相談も禁止」ってどうしようもねえじゃねえか!!)

休みの日に出勤させられ、手当ても振替休日も無く、孤独に病院の雑用や掃除、急患対応をし、翌日出勤したら朝っぱらから感謝の言葉も労いの言葉も無くただ怒鳴られる。
このストレスを想像してもらえるだろうか?
世間一般の感覚に置き換えれば、休みの日に公園に遊びに行ったら強制的に清掃のボランティアを独りでさせられる中、近くで突然お年寄りが倒れたので応急手当を行って救急車まで見送り、その後も頑張って日が暮れるまで掃除して疲れきった体で「さあ帰るか。」と思ったところに先ほどのお年寄りの家族が現れ、「何故病院まで付き添っていって面倒を見てくれなかったのか!?この人でなし!!」と文句を言われるといったところか。
というか、世間では似た様な状況にはならないと思われるので、置き換えに無理が生じているのは百も承知だ。
それ程にありえない状況が現実に起こっていて、激しいストレスがかかってくるというのを分かってもらえれば十分。
理解してくれる人がどこかにいるはずと思えば少しは心の傷も癒える…。

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