小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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(子供の頃から夢見ていた「動物のお医者さん」。特に頭が良いわけでもなかった僕にとってはひたすら勉強…ということもなかったが、これまでの人生で多くの時間を勉強に費やしてきた。そして獣医師免許を取り、ついに今日から社会人!!動物を救う仕事ができるんだ!!)

初めて仕事に向かう前の僕は興奮を抑えられなかった。
オーナーとのコミュニケーションは上手く取れるだろうか?
治療は上手にできるだろうか?
良い獣医師になれるだろうか?
これから歩む世界への期待と不安で胸がいっぱいだった。
年甲斐もなく無邪気にはしゃいでいた。
自分の未来は希望に満ち溢れていると思っていた。
でも、それは思いも寄らない過酷な運命の第一歩だった…。

昔から疑問に思っていたことがある。
『人間はそんなに尊いのか?』
僕は別に動物愛護者でも自然崇拝者でもない。
当然、怪しい宗教にも入っていない。
しかし、人間と動物の扱いの違いには昔から違和感を抱いていた。
法律ではペットや家畜は“物”扱い。
動物を殺しても大した罪にはならず、人間の趣味のために不必要に狩られたりもする。
数が多ければ生態系への影響から間引きされるし、人間に危害を加えた動物は人間側に100%の過失があっても処分されたりする。
人間に比べて動物たちの命は軽すぎる。

小学生の頃、よく餌をやっていた近所の野良猫が目の前で車にはねられた。
はねた車はスピードも落とさず、何事もなかったかのように走り去っていった。
周囲の人たちも気にも留めずに通り過ぎていった。
はねられた猫はしばらく苦しそうにもがいた後、動かなくなった。
僕は何もできなくて、しばらく立ちすくんでいた。
その猫の命はあまりにもあっけなく終わった…。

人間と同じ扱いをしろとまでは言わないが、これはあまりにもひどい扱いではないか?
人間のために働く人はたくさん居るが、動物ために働く人は少ないのではないか?
短絡的思考の少年がそんなことを考え始めたらどういう結論に達するかは容易に想像がつく。
『獣医になって苦しんでいる動物を助けたい!!』
将来なりたい職業が獣医師以外になくなった瞬間だった。

我ながら呆れるばかりの単細胞っぷりだ。
実は、獣医師はどちらかといえば動物を殺す方が得意だ。
獣医師の多くは動物臨床医、公務員、会社員のどれかになって働くが、いずれにしても仕事の基本は動物を経済的に生かすこと。
逆にいえば、利用価値の無い動物を処分する役が回ってくることが多い。
獣医師になったが故に、多くの動物を手にかけねばならなくなるとは何と皮肉なことか。
動物の命を救いたければ、獣医師になるよりもむしろ飼育関係の職に就いたり、動物愛護団体にでも入る方が手っ取り早いし、より多くの動物を救える気がするが、決意したのは小学生の時。
深く考えなかったのも仕方ない。
そして、この選択が別の意味でも大きな過ちだったことに気付くのは十数年後になるが、ともかく僕は頭が悪くては獣医になれないと思い、勉強にそれなりに精を出すようになった。

高校の三年間、進路相談の紙にはずっと獣医学科を書き続けた。
獣医学科のある大学は、私立も含めて日本全国で十数校と数が少なく、レベルが一番低い大学でも全国偏差値が60近くないと入れない。
現役時代は調子が良くても偏差値55しかなかった僕は模試の結果も当然全てE判定。
合格率20%以下で一縷の望みすらない状態だ。
担任の先生にも「志望校を変えたほうが良い。」と散々言われたが、『昔からの夢だから他の職業は考えられない。』と言って聞く耳を持たなかった。
親にも反対されたが親心を上手く刺激して説得し、卒業後も一年の猶予を貰えることになった。
今から思えば、この人たちがもう少し頑張って説得してくれていれば、僕の人生はもっとマシだったに違いない!!
……冗談です。 悪いのは自分です…。 分かってます…。
ともかくそんなわけで、一浪して偏差値を何とか60まで上げ、レベルの一番低い大学を受験。
そして見事に合格することができた。
受験生の成績を見る限り、僕より成績の悪い合格者はほとんど居なかった。
落ちればよかった危ない橋をギリギリで渡りきってしまったのである。
この時点で僕の人生は半分終わったも同然。
もはや後戻りができない状態になってしまった。

大学時代も半年毎に試験があり、その多くは追試になったがいつもギリギリで合格し、ストレートで進級できた。
何で追試が多かったのかというと(ギリギリでいつも生きていたいから!!)(…嘘です。勉強してなかっただけです。)
そして病院勤務が始まった時、(リアルを手に入れた)…。
夢は叶った瞬間に現実となるが、実現した夢なんて思っていたような輝きも無ければ素敵なものでもなく、ただただ悪い面ばかりが見えてきてしまう。
夢は夢のまま、手が届きそうで届かないのが一番良い距離感なのだと思い知るのもまた先の話。
ともかく、ストレートに進級しても獣医学科は6年制なので、一浪している僕が卒業するのは早くても25歳の時。
高校や大学時代の友達がどんどん就職・結婚していき、話題についていけなくなり、ジワジワと湧いてくる焦燥感と戦いつつ、在学中は将来のためにとバイトやサークルの時間を削って大学付属の動物病院で診療の見学や手伝いをした。
多くのものを犠牲にして臨床街道まっしぐらである。
そして6回生の時、ついに動物病院への就職を決めてしまった。
臨床系研究室の先輩や友人が早くから現実に気づいて公務員や企業に方向転換する中で、自分には臨床しかないと思っていたバカ1号は最後のターニングポイントも華麗にスルーしたのである!!

前フリが長くなったが、こうして卒業し、国家試験にも受かり、数々のターニングポイントで常に最悪の選択をし続けた男の地獄の病院勤務編がいよいよ始まるのである。
第一部・完。

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