小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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8月。
先輩が居なくなってからは、まさに生き地獄。
今まで先輩がやっていた仕事がほとんど回ってくる。
診察、治療、手術が増えるのはもちろん、薬剤、医療器具の注文や出入り業者の対応に加え、院長の車の洗車などの雑用まで全部やらなければならなくなる。
今までは精神的にいっぱいいっぱいだっただけだが、今度からは時間的にも肉体的にも(いっぱいおっぱいチェリーパイ)
もう休み時間は休めない。
だがしかし、「毎日12時間以上連続勤務」とか、「昼食の時間は5分しかない」とか、「時々めまいがするようになる」とか、「そんな状況でもやっぱり院長は手伝わない」とかそんな些細な事は問題ではないのだ。
一番の問題はご承知のとおり、院長に今まで以上に怒鳴られ続けるストレスフルな生活が始まったことである…。

医療機器の注文の時、時間節約のためにできるだけ少ない手間で仕事をこなそうと思い、よく使う注射針と注射器を多めに注文した。
先輩は何故かいつもチマチマ注文していたので、このまとめ注文で効率アップ!!…と思いきや、先輩がそれをしなかった理由はちゃんとあった。
品物が届いたところで院長登場。
もちろん、キレている。

院長「おい、おっさん!!何でこんなにたくさん注文してんだ!?置く場所がねえだろうが!!このバカ!!ちゃんと先を考えて注文しろよ!!」

置き方を少し工夫すれば、置く場所はいくらでもある。
しかも、いつも1週間くらいで無くなるので2週間分注文しただけだ。
多過ぎるとは思えない。
そもそも、注意されていたわけでも指示されていたわけでもないのに、いきなり怒鳴るような事だろうか?
しかし、院長には院長の美学があるらしく、2週間分の注文は美学に反するらしいのだ。
結局、半分は返品することになり、1週間後にまた持ってきてもらった。
業者からは「もう少しまとめて注文してもらえるとありがたいんですけど…。」と言われるが、院長曰く、「こっちは客で金を払ってるんだから、そんな業者の都合など知らん。」とのこと。
さすがは院長、「金が全て」的な考えと立場の弱い者には容赦しない態度を隠そうともしないところが逆に清清しい。

診療もカルテの確認無しで、独りで任される事が多くなる。
不要な検査はせず、最低限の検査と薬でまずは様子を見るという患畜にもオーナーの財布にも優しい方針でやっていると、院長登場。
もちろん、キレている。

院長「お前、何やってんだよ!!もっと色々と検査しないと儲からんだろ!!その使えん脳みそ、何とかしてくれよ!!オーナーもいろんな検査結果を見れば安心できるし、検査すればするほど丁寧な診察だって思うんだよ!!薬ももっと適当なサプリメントとか混ぜて出せよ!!金かける事が愛情だと思ってる飼い主も居るんだ!!バカが!!お前に診察を任せると売り上げが落ちるから、オレがいつまで経っても安心して休めんだろが!!」

そう、動物病院もビジネスなので儲けを出さなくてはいけない。
院長の言う事も一理あるのだが、こんな拝金主義の院長がオーナーの間では丁寧で優しい診療をしてくれる先生として通っているのが気に食わない。
怒鳴っている内容も、結局は自分が休んでいても十分な利益を出せる獣医師を育てようとしているだけで、決してオーナーや患畜や僕のためを想っての事ではないのだ。
さらに後日、言われた通りに検査を少し増やしていたら院長登場。
もちろん、キレている。

院長「お前…、言われた事をそのままやるだけか!?そんなんロボットでもできるわ!!脳みそ腐ってんじゃねえのか!?あの飼い主、若い夫婦だろ!?金持ってなさそうってのは一目瞭然だろうが!!そういう奴は検査少なめにしてやんないと支払いが滞るだろ!!バカが!!お前、代わりに払ってくれるんか!?もっと考えて診察しろよ!!ドアホ!!」

言われてみればそうかもしれないとは思うが、診療を始めて数か月の人間にその判断を求めるのは少々酷ではないだろうか?
言われた通りにしてないと誰かさんに怒鳴られるのでそうしているだけだったのだが、それでもやっぱり怒鳴られるあたり、やるせなくて精神がじわじわと蝕まれていくのを感じる。
というか、診療ができるロボットがいるなら是非見てみたいものだ。
もはや綺麗事を言わなくなっているのは内部の人間として認められた証だろうか?
はっきり言って全然嬉しくない。

また、診療が増えると当然、自分が担当していた患畜の死にもよく出会うようになる。
オーナーのペットに対する扱いはピンからキリまであり、ほとんど世話をしないで餌をやるだけという人から、まるで自分の子供のように可愛がっている人までいる。
そのため、同じ病気や症状でもオーナーによって検査や治療法を変えねばならないし、中には治療が長引くと面倒くさいしお金もかかるので安楽死を望むというオーナーもいる。
安楽死に対しては各獣医師ごとに自分の意見があるだろうが、僕の考えとしては、オーナーに嫌々飼われて愛情を注いでもらえない生活を送るくらいなら早く楽にしてやった方が動物のためだと思うし、オーナーが望むならその決定に従うのが獣医師としての務めだと思う。
自分の手で殺すと後味が悪いとか、尊い命を奪うことは誰にも許されないなどの自身の理由から安楽死はしないという獣医師は職務放棄も甚だしいと思う。
こんなドライな考えのため、僕は患畜を安楽殺する事には何の躊躇いも無いのだ。
だが、治療して治そうとしていた患畜の死は別だ。
治療をしていた患畜が死んでしまうと、僕も当然ショックを受ける。
たとえその病気が末期ガンとか重度の内臓疾患とかで手の施しようが無い状態だったとしても、治療する以上は少しでも長く生きてほしいと思うし、死なせてしまった後のオーナーの悲しむ姿を見ると役に立てなくて申し訳なく思えてくる。
しかし、僕は感情表現が薄いため、気分が落ち込んでいても上手く泣いたりあからさまに悲しそうな顔をしたりはできず、その後の作業を淡々と続けたりしてしまう。
その様子が気に入らなかったのか、機嫌が悪かっただけなのか、院長が問いかけてくる。

院長「君さぁ…、どうしてそんなに普通でいられるの?君じゃなくて僕とかもっと偉い先生が診てたら治せてたかもしれないんだよ?君にもっと技術と知識があれば治せたかもしれないんだよ?何で悲しんでないのかなぁ…。何で飼い主さんに申し訳ないと思わないのかなぁ…。何でもっと向上心を持たないのかなぁ…。分かってる?○○ちゃんは君が殺したんだよ。」

分かってる。
悲しんでる。
もっと知識や技術が欲しいと思ってる。
院長にはショックを受けてないように見えたため、命の大切さを自覚させようと厳しい言葉を使ったのかもしれないが、この言葉でますます気分が沈んでいく。
僕はそんな非情な人間に見えているのかと思うと激しい自己嫌悪に陥る。
かといって、オーバーリアクションで悲しんで見せるのも得意ではないのでどうしようもない。
院長の言う通り、本当は悲しんでないんじゃないか?
患畜の死を軽く受け止めているんじゃないだろうか?
患畜の死の悲しみを上手く表現できない僕は臨床に向いていないんじゃないだろうか?
そんな事を思わせる院長の言葉だった。

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