小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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手術に関しても、今まで先輩がやっていた難易度が中くらいの手術を執刀する機会が増えた。
普通なら技術が向上して願ったり叶ったりなのだが、新しい手術の度に術式確認の段階から酷い目に遭わされるのであまり乗り気はしない。
戸惑いながら返事をしていたら突然、院長の顔が歪んでいく。
もちろん、キレている。

院長「おい、おっさん!!何だ、そのやる気の無い返事は!!お前にやらせると時間はかかるし、失敗のリスクも負わなきゃならんし、オレに得な事は一つもねえんだぞ!?それでもお前を育てるためにわざわざ技術向上の機会を与えてやってんのに、喜んでやってみようと思わんのか!?このボンクラが!!」

働き始めた頃の気力があれば「はい、ありがとうございます。」とか「はい、頑張ります。」とか元気よく言っていたと思うが、この時点ではそんな気力はもう無くなっている。
その気力を奪ったのは他でもない院長だ。
「お前を育てるため」とか恩着せがましいことを言っているが、早く単独で任せられる手術を増やして自分が休める時間も増やしたいだけだろう。
ギブ&テイクが成り立つ関係なのに、なぜ一方的に怒鳴られて恩まで押し売りされなければならないのか?
しかも、この後の術式確認でまた怒鳴られ、絵を貶され、一通りのストレス解消をされてからようやく手術が始まるのだ。
手術中も、麻酔管理と術式の監督のために院長が側に立って見ているので、緊張して細かいミスを多発するのだが、そこでも当然怒鳴られる。
ここまでされたら、技術を身に付ける以上に、嫌な記憶しか残らない。
院長が「育ててやっている」のは、手術に対するトラウマの方だろうか?

また、手術は昼か夜の診察をしていない時間帯に行うため、院長は自分が手術で執刀する時以外には暇を持て余していることが多い。
さらに、簡単な手術ならもう安心して任せられると判断されているようで、手術中は2階の自宅で休んでいるか、手術室で高みの見物をしているかのどちらかで、いずれにしても手が空いていて上機嫌なので怒鳴ることは滅多に無い。
しかし、怒鳴らない代わりにたっぷりバカにされることになる。

院長「おいおい、君ぃ〜、そんな手つきで大丈夫か〜?お爺さんが手術やってんのかと思ったよ。僕ならもうちょっと上手く手術できるんだけどなぁ。僕の病院の看板背負ってんだから綺麗に手術してよ?そんな手つきじゃベッドで彼女を喜ばせられないでしょ?あっ、彼女居ないからそんな心配無いか!!アハハハハ!!」

さらっと下ネタが入っているのは上機嫌な証拠だが、それにしても下品な野郎だ。
何でこんな卑小な存在が散々儲けて悠々自適に暮らせているのか?
この世には神など居ない事を確信する。
ちなみに、助手に入っているベテラン看護師(女)も話を合わせてわざわざ下品な下ネタで僕を小バカにしていたが、元々下ネタ好きなのか、調子を合わせないと院長が不機嫌になるので仕方なく言ったのかは分からない。
いずれにしろ、標的は院内ランク最下位の僕なので2人とも言いたい放題なわけだが、怒鳴られるよりはマシなので手術に夢中になっているフリをしてシカトする。
この病院に入って以来、忍耐力だけは異常に鍛えられたが、これは喜ぶべきことだろうか?
さらに、手術終盤では言う事が無くなってきたのか、自慢めいた事を言い始める。

院長「それにしても君は執刀が遅いね。僕ならこの程度の手術は10分で終わらせますよ。センスの違いなのかなぁ?まあ、次回は僕の腕を見せてあげますよ。ハハハ。」

ぶっちゃけ、センス云々よりも十年以上の経験の差だとは思うが、自分の執刀センスに自信があるわけでもないので気にしない事にする。
むしろ、十年以上続けている手術が新人より上手いのは言うまでもない事で、それを自慢げに口にする時点で己の器の小ささを認めているも同然という事実にこの小物は何故気付かないのだろうか?
頭はいいかもしれないけど、コイツ本当にバカです。
それにしても、メスやハサミなどの鋭利な刃物が手元にあるときに人をイラつかせるような事を言うのはやめてほしいものだ。
うっかり手元を狂わせてしまいそうになる…。
ともかく、手術する度に怒鳴られ、貶され、バカにされ…、毎回繰り返されるこのストレスに耐えてまで技術の向上を図ろうとするぐらいの根性がないと獣医師ではないというのなら、やっぱり僕は獣医師失格だ。

さらに後日、予告通り、院長が同じような手術を執刀するのを見学した。
センスが良いらしいのでお手並み拝見だ。
日頃慣れている手術だし、万に一つも失敗するような事はあるまいが、「なるべく失敗して恥をかけばいいのに。」と不謹慎な事態を祈りつつ見ていると、さすがは院長、大口を叩いただけあって、手つきが丁寧で軽やかだ。
センスが良いかどうかはともかく、長年の執刀経験は伊達ではないようだ。
今は軽快に喋りつつ上機嫌で執刀しているものの、いつ機嫌が悪くなってもおかしくないので、助手のベテラン看護師はベタ褒めを続け、僕も苦手ながらに感嘆の言葉を発するなどをして機嫌を取る。
そんな中、気分を良くして油断したせいか、院長が少し手間取る場面があった。
突然無口になった院長の顔がみるみる紅潮していく。
もちろん、キレている。

院長「おい!!引っ張り過ぎだ!!このボケ!!そんなに引っ張ったら術者のオレが手術しにくいだろが!!何年助手をやってんだ!?バカが!!」

見ていた感じではベテラン看護師は普通にしていたし、後から聞いてもいつも通りやっていただけでそんなに引っ張ってはいなかったそうだ。
手術を急ぐあまり、院長の思い通りスムーズにいかなかっただけの可能性が高いが、不調なのは全て他人のせいにしないと気が済まないらしい。
しかも、ミスしたわけでもなく、ただ手術の流れが少し滞っただけなのにいきなり自分のせいにされて怒鳴られるなんて、頑張って機嫌を取っていたベテラン看護師も浮かばれまい。
そもそも、新人獣医師と院長とでは、経験年数や執刀回数が比べものにならないほど違うので、手術時間や技術に開きがあって当然なのは自明の理だ。
勝ったところで誇れる事でもない。
なのにわざわざ勝負を挑んできた挙句、上手くいかなかったのを他人のせいにして当り散らすとは、この小物はいったい何がしたかったのだろうか?
「まぁ、この件は僕が怒鳴られたわけでもないし、別にいいや。」と思った時点で自分の心が腐り始めていることに気付く。
仲間意識も思いやりの欠片も無い言葉だ。
ほんの3か月前までは他者を犠牲にして自分が助かるような人間にはなりたくないと思っていたのに、早くもその「はじめの1歩」を踏み出していたのだ。
しかし、そうでなくてはこの病院で生きていけない。
他人を庇って怒鳴られたり、怒鳴られた者の苦しみを共感したりしていると、あっという間に精神に異常をきたしてしまうのだ。
「よく考えたら、人生なんてどんな綺麗事を言ってても、結局は他人を犠牲にしないと生きていけないよね。」などと勝手に言い訳をして自分をなんとか納得させる事にした。
ちなみに、手術が順調に進んでいたとしても院長が予告した10分で終わらなかったであろう事は書くまでもない。

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