小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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さらに、手術に関してはとんでもない事件があった。
人でもそうだが、稀に異常に麻酔にかかりやすかったり、麻酔に対して激しいアレルギー反応を起こす患畜がいて、実際に麻酔をかけてみないと分からないケースがある。
もちろん、全ての手術において細心の注意を払いながら麻酔をかけるが、気付いた時には手遅れという事故が起きることもあるのだ。
そして、運悪く、僕が手術した患畜でこの事故が起きてしまい、患畜を死なせてしまったのだ。
全てのオーナーには手術前に必ず、事故が起こる可能性の説明を十分に行い、手術の同意書にもサインをしてもらっているので、通常はそんなに大きな問題には発展しない。
しかし、この時は術前の説明で、僕が『大丈夫』と言ったことが問題となったのだ。

手術前、いつも通りに術前の注意事項や麻酔のリスクを説明した。
しかし、オーナーがあまりにも心配そうにしていたので、ついうっかり『手術自体は簡単で、まず失敗する事も無いので大丈夫ですよ。安心してください。』と言ったのがまずかった。
オーナーはそれを聞いて、「死ぬなんて事はありえない」と認識し同意書にサインしたのだという。
それを聞いた院長は、もはや人間のものとは思えないほど不細工にひん曲がった顔をして僕の方に向かってくる。
もちろん、キレている。

院長「お前、何で「大丈夫」なんて言ったんだ!?このバカ!!飼い主なんて都合のいい事しか聞いてねえんだから、そんなん言ったら、いくら麻酔の危険性を話しても頭に入らねえに決まってんだろ!!」
『あ…、その…、あまりにも心配されてたんで…。』
院長「だからって「安心してください」とか「大丈夫」とかを言うなよって言ってんだ!!ボケ!!そんなこと言っといて今回みたいに大丈夫じゃなかったら訴訟問題に発展するんだぞ!!あの飼い主、「死ぬとは思わなかった」って言ってんじゃねえか!!どうすんだよ!?あぁ!?飼い主には最悪のパターンだけ説明しといて余計な希望は持たせんなよ!!そうしとけば最悪の事態になっても「あぁ、やっぱり」で終わるし、普通に成功したら「奇跡的に大成功」みたいになるだろが!!」
『あ…、でも…、あのままだと手術自体を止めそうな雰囲気で…』
院長「だからそれは説明の仕方次第だろが!!口答えばかりしやがって!!このタコが!!やらないともっと大変な事になるって言えば大体やるって言うに決まってんだろ!!それより「死ぬとは思わなかった」って言ってんのはどうすんだって聞いてんだよ!?おぉ!?」
『えっと…、麻酔にかかりやすい体質だったっていうのを説明して…』
院長「だからそんなの記憶にねえって言われるだけだ!!ボケ!!とりあえず手術代を無料にして謝るしかねえだろが!!お前が出るとまたややこしくなるからオレが説明してくるわ!!当然、給料から引いとくからな!!ホントに手間ばっかかけさせやがって!!このカスが!!」
『……。』

「手術への不安」といえば、同じような場面を何かの医療漫画で見たことがあったが、漫画の主人公は成功率が非常に低い手術なのにはっきりと「大丈夫です。手術はきっと成功させてみせます。」と言っていた。
そして「リスクをしっかり説明するのは確かに重要だが、患者さんの不安を取り除いて手術に望んでもらうことが一番大切なんだ。」とも言っていた。
そして、その患者の不安は主人公への信頼で掻き消え、それが功を奏して手術は成功する。
僕もそれを思い出して『大丈夫。安心してください。』と言ったのだが、やはり僕は主人公の器ではないらしい。
漫画の主人公は不可能と言われている手術でもまず成功させてしまうので、どんな綺麗事でも言えるのだが、現実ではそうは問屋が卸さない。
オーナーにリスクをしっかり理解してもらう事も、オーナーとの信頼関係を簡単に築く事も、手術を確実に成功させる事も、たとえ手術が失敗したとしてもオーナーに納得してもらって万事解決する事も、全てが思ったよりもずっと難しいのだ。
現実的には院長の言う通り、最悪のパターンを伝えるだけにしておいた方が遥かに効率的で訴訟リスクも少ないのだ。
それを理解できずに漫画と現実を混同し、名医にでもなった気分で気軽に『大丈夫』と言った愚か者は、全てが上手くいく夢を見ていたのかもしれない。
(ところがどっこい…… 夢じゃありません……!! 現実です……!! これが現実……!!)
綺麗事や奇跡ばかりの漫画など、もう信じない。

話を元に戻すが、動物病院もビジネスなので、通常は手術の成否に関わらず手術代を徴収する。
しかし、今回はこちらの説明に落ち度があったという事で治療費は請求しないことになった。
そして、その「病院の受けた損害」は当然、オーナー価格で僕の給料から天引きされる。
だが、今回は院長も未熟者に説明を任せてしまったという責任を負って、半額は病院が負担するとの事だった。
一見、明日にでも地球が滅亡しそうなくらい珍しい寛容な態度に見えるが、オーナー価格ということは麻酔代や機材使用費も原価の数倍は取られるので半額でもお釣りが来るし、何よりも不思議なのは技術料まで取られている事だ。
執刀したのはもちろん僕なのだが、何故かこの技術料も半額分は病院に“賠償”することになる。
確かに、院長の指示の下で「この病院流」の術式を行ったので病院に還元されるべきものなのかもしれないが、元々タダみたいなものを平然と徴収できる神経が分からない。
まぁ、簡単な手術だったので元の手術代が安く、さらにその半額なので2万円くらい引かれるだけで済んだが、結局は儲かっているくせに恩着せがましく「半分は病院が負担しました。」などと言って寛大なつもりでいるこの“生ゴミ”とは、もう信頼関係は築けない。
もうどんな気遣いをされても恩など感じない。
僕は世間を知らず、恩を知らず、我慢を知らず、権利主張だけはしっかりする最低の典型的な「最近の若者」だろうか?
だが、こんな“生ゴミ”を師匠として尊敬しなければいけないなら、僕は「最低」で一向に構わない。
この頃にはもはや、世間の評価や体裁を気にする余裕は失せている。

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