小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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本題に戻ろう。
先輩の代わりという事なら”生ゴミ”の機嫌取りもしなければいけないが、僕は世渡りやお世辞が苦手で上手くできなかったので”生ゴミ”の機嫌が悪い日が続いた。
当然、機嫌が悪い日は怒鳴りやすいので要注意なのだが、最上級に機嫌が悪い時は怒鳴りやすい上に必要以上にしつこく間違いを追求されるので精神の消耗が激しい。
以下はそのやりとりの一例だ。

“生ゴミ”「おい、何だこのカルテ。この検査は何の病気を疑ってやるつもりなんだ?」
『えっと…、○○と□□です。』
“生ゴミ”「なるほどな!!じゃあ××の可能性は無いわけだ!!検査もしないでそれが分かるなんて先生すげえな!!たいしたもんだ!!」
『あっ…、いや…。 ……その可能性もあります…。』
“生ゴミ”「はぁ!?『あっ』じゃねえよ!!『あっ』じゃ!!もっと深く考えて検査しろっていつも言ってるだろ!!バカ!!何回同じ事言わせりゃ気が済むんだ!?この能無しが!!」
『…すいません。』

××の可能性に気付いてないと分かっていて質問してくるところや、最初に褒めてくるあたりが相変わらずいやらしい感じだが、いつもはここでどこかに行くので大して問題とはならない。
最上級の場合はここからが本領発揮だ。

“生ゴミ”「謝れって言ってんじゃねえんだよ!!何回言ったら覚えんのかって聞いてんだ!!ボケ!!おぉ!?」
『はい…、あの……。』
“生ゴミ”「な・ん・か・い・言・っ・た・ら・お・ぼ・え・ん・だ!?」
『…1回で十分です…。』
“生ゴミ”「できてねえじゃねえか!!タコ!!2、3回は言っとるわ!!あぁ!?何回なんだよ!?」
『…3回で十分です…。』
“生ゴミ”「3回も同じこと注意しなきゃいけねえのかよ!?めんどくせえ奴だな!!この頭、ちゃんと脳ミソ入ってんのか!?そもそも患畜の事を真剣に考えて治療しようと思ってたら、こんな事にはならねえよ!!××は大した病気じゃないってか!?病気にかかってても大丈夫ですってか!?あぁ!?」
『いえ…、○○と□□がよくある病気なんで、××の可能性までは考えが回らなくて…。』
“生ゴミ”「言い訳すんなよ!!よくある病気とかじゃなくて、可能性と重症度で考えろよ!!万が一××だった場合は早めに対処せんといかんだろが!!ボケ!!」
『はい……、あの………。』
“生ゴミ”「違うかって言ってんだ!?あぁ!?下向いたままボソボソ喋りやがって、ちゃんとオレの話聞いとんのか!?コラ!?オレ、何か間違ったこと言ってるか!?なぁ!?」
『……。』
“生ゴミ”「なぁ!!なぁって!!返事しろよ!!都合悪けりゃ無視すんのか!?いいご身分だな、おい!!ボサッと突っ立ってないで早くオーナーに説明して検査しに行けよ!!グズが!!」

この間、カルテで頭をペシペシ叩かれたり、胸を小突かれたり、足をコンコン蹴られたりして、ちょっとあざができる程度の軽い暴行を受けていたとかそんなのは些細な事なのでどうでもいい。
問題なのは、“生ゴミ”の気が済むまでこの答えの無い答え合わせが終わらない事と診療待ちのオーナーがどんどん溜まっていく事だ。
ここまで機嫌が悪い時は大抵、嫁とケンカしている時だが、家庭の事情を仕事に持ち込んで八つ当たりしやがるとは見下げ果てた奴だ。
憂さ晴らしで一つのミスをいつまでもゴチャゴチャ言われたのでは堪らない。
しかも、診察終了後にクールダウンし、言い過ぎたと反省してフォローを入れてくることもあるが、その内容がまたイラつかせてくれる。

“生ゴミ”「いや〜、ホントにね〜、厳しい事言ってるのは分かってるんですよ。先生はまだ経験が浅いし、僕みたいにできないのは分かってるんです。でもオーナーは同じ金額を払うわけだし、ベテランでも大学卒業したてでも獣医さんは獣医さんなんです。経験なんて話はこっちの事情ですから、その部分でオーナーに損をさせるわけにはいかないんですよ。だから、先生ならきっとそこそこできるようになると信じてるんで、これからも僕と同じレベルの医療を求めていくつもりです。頑張って付いてきて下さいね。ハハハハハ。」

正論だ。
さりげなく自分が上という自己顕示が入ってはいるが、言っている内容は全くもって正しい。
ただし、正論を言うことがいつも正しいとは限らない。
時間と場所と場合を考える必要があるし、正論を無視して柔軟に対応しないと状況が悪化するケースもある。
正論を述べる人間はいつもそうだが、正論を言っている自分は正しいと信じて疑わず、正論を展開する事がこの世における最善の行為であり、秩序を無視する外道たちの邪論に正論で立ち向かう自分はまるで聖人であるかのような錯覚に陥っている。
彼らはしばしば正論を振りかざしては我を押し通し、場の雰囲気を打ち砕き、周囲の空気の澱みに目もくれない暴挙に打って出るのだ。
しかし、人間社会とは他者との関係をメインに成り立っているため、その間に漂う微妙な空気を感知し、相手を思いやり、時には自分の正論を胸にしまってでも周囲との和を保つ必要がある。
それができないこの“真面目で正しい”社会不適合者予備軍は、周囲の人間が事態を収拾するために折れる事によって社会の中で何とかやっていけるのだ。
日々、そんな厄介者と接さなければならない周囲の人間は人一倍精神を摩耗している事だろう。
彼らは周囲の人間に見放された時、自分が社会不適合者になるとは露知らず、今日もせっせと周囲の人間を苛んでいるのだろう。
そして、我が病院のキングオブ社会不適合者が何よりもいただけない点は、自分の悪事を正当化させるために正論を利用しているという事だ。
この “生ゴミ”は個人的なイラつきを、その原因とは無関係で立場が弱く反論の余地の無い人間に当たって解消するという行為を、正論を言うことで正当化しようとしているのだ。
反論させずに自分の意見を押し付ける上、己の悪事まで正当化しようとするとは何事か。
しかし、信じられない事だがこれにより、彼はいつも自分は正しく、悪い事をしているとはまったく思わず、人に嫌われたりするわけが無いと確信している。
「オレ、何か間違ったこと言ってるか?」はそれを象徴する“生ゴミ”の口癖の一つである。
間違った事は言っていないかもしれないが、間違った事を行っているのだ。
挙句の果てに、穏やかな口調で丁寧語を使って喋る事により、温和な人物を装っているつもりらしいが、どういう神経をしていたらこれほど短気な人間が温和なつもりでいられるのだろうか。
『驚くほど短気な人格破綻者のくせに、自分はいつも清く正しい温和な院長であると思い込んでいるこの厚かましいまでの倒錯ぶりが異常にイラつくのは僕だけか?』と思っていたら他の従業員も皆そう思っていたらしい。
裸の王様とはまさに“生ゴミ”のためにあるような言葉だ。

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