小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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そんなこんなで、先輩が辞めてからあっという間に1か月ちょっとが過ぎた。
先輩が辞めた分、信じられないぐらい仕事量が増えたが、僕にはまだ余裕がある!!
なぜなら同期の新人看護師がまだ1人残っており、増えた雑用も誰でもできるような仕事は任せられるので、まだ負担が軽いからだ!!
と油断していたら、さらなる非情の鉄槌が我が身に振り下ろされる事になる。
そう…、このもう1人の新人看護師が辞めると言い出したのだ。
思い返せば、先輩が辞めた頃からしんどそうにしている回数が増えていた気もするので、予兆はあった。
僕も診療方面で忙しくなった分、雑用を押し付け過ぎたかもしれないという申し訳なく思う気持ちが込み上げてくる。
“汚物”に直接申し出るとは何とも勇気のあることだが、それだけ限界だったのだろう。
「なぜ?」という問いは、もはや愚問であろう。
だが、その原因である張本人はやはり愚かなようで、この質問を本人にぶつけ始める。

“汚物”「はぁ?何で?せっかく色んな仕事もできるようになってきたのにもったいない。仕事が楽しくなるのはこれからだぞ?まさか誰かにいじめられてるとかか?君たちも何とか言ってやってよ。」

今まで散々「仕事ができん奴だ!!」とか「役に立たん!!」とか怒鳴っておいて、こういう時だけ「仕事ができる」はないだろう。
それとも、この”汚物”の言う「仕事」とは、「昼の休診時間に真夏の炎天下で小一時間ほど病院の周りの雑草をひたすら毟らせる」という憂さ晴らしのために申し付けたであろう苦行のことを指しているのだろうか?
それならば、確かに納得だ。
あれは本当によくやったと思う。
脱水症状や熱射病にもならず、無事に戻ってきて笑顔で元気良く「終わりました!!」と言ったのを見た時には、思わず涙しそうなぐらい感動したものだ。
思い付きの憂さ晴らしで言いつけられ、命に危険が及んでもおかしくないような嫌がらせを乗り越えてなお笑顔でいる事など、僕には絶対にできない。
そんな純真で元気いっぱいだった娘が…、今や……。
それにしても、説得が怖いくらいに下手。
最初にこの説得を聞いていてあまり引き止めるつもりも無いのかと思っていたら、後から聞いた話ではこれで精一杯優しく説得してたんですと!!
あと…、「誰か」じゃなくて「お前」だよ、いじめてたのは!!
早く気付け!!
最終的には周りの従業員に頼ってるし…。
この頃から何となく気付いたが、この”汚物”は基本的に精神年齢やコミュニケーション能力が小学校ぐらいで止まっているのだと思う。
自分がいつも一番でなければ気が済まず、気に入らない事があったり自分の思い通りに事が進まなければ怒鳴り散らし、手に負えない事態になれば逃げる。
どうやら”汚物”は、彼の自慢話から推察するに、学生時代から人付き合いが苦手であまり人と接してこなかった上に、研修期間も優しい院長の下で伸び伸びと修行したらしい。
そして動物病院の院長になり、外界から半分隔離された職場で他人と接する機会がますます減り、その職場では自分より上の立場の人間が居ないため、挫折や他者との衝突を糧とした精神的成熟やコミュニケーション能力アップの機会がほとんどなかったのでこうなってしまったようだ。
他人事なら「可哀相な人」で済ませられるが、こっちは被害者なのでそんな温かい目で見守ったりはできない。
はっきり言って、こんな精神的に未熟な輩は人の上に立つ資格など無いだろう。
もっとも、かく言う僕も人の上に立てるような人格者ではないので、この”汚物”を反面教師として精進したいと思う。
反面教師という点においては、この”汚物”は非常に優秀な教材となるのだ。
ともかく、新人看護師は「家庭の都合」で退職すると言っていたが、その疲弊しきった死人のような顔を見れば、本当の理由は本人の健康上の都合だということがよく分かった。
今頃はまた昔のように元気を取り戻せていると良いのだが…。

(これで残った新人は僕だけ。こうなったらもうヤケクソだ!!やれる所までやってやる!!)

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