小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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こうして凍えるような恐怖の夏も終わり、現在の我が病院における”汚物”以外の従業員は獣医師が1人、動物看護師が4名。
おぉ!!僕が見学に来た頃の人数に戻った!!
違うのは獣医師が先輩から僕に、そして病院の主が「院長」から「汚物」に変わった事くらいだ。
この病院はこれが一番バランスの良い従業員数なのかというと、そんなわけはない。
日々の作業量の多さは微塵もその通りだと思わせてくれないのだ。
さすがにこれだけ人手が減ると、先輩看護師たちもサボってばかりはいられないので雑用も色々とやってくれるようになったが、それでも手の届かない部分がどうしても出てくる。
特に朝はやる事が盛りだくさんで、診察開始前の15分程度で全面ガラス張りの病院入り口の指紋だの汚れだのホコリだのを全て拭き取り、オーナー用の駐車場をゴミ一つ残らず掃き回し、診察室の掃除や整理整頓を済ませ、入院患畜の身体検査を一通り行い、薬や治療器具の注文を終わらせなくてはならないので、独りでは到底不可能な作業量なのだ。
看護師たちも、動作が今一つ緩慢なのが気になるが、トリミングの準備や受付、待合室、入院畜舎の掃除と整理整頓、スケジュールのチェックなど、それなりにやる事があって忙しそうなので手伝いを頼めるような雰囲気ではない。
しかも、オーナーが来てない時や診療が途切れた時は、暇を持て余した”汚物”が観葉植物の陰になっている部分などの細かい箇所の汚れを探したり、院内や駐車場をじっくり見回って掃除の不十分な箇所を見つけては怒鳴るので、少したりとも手が抜けないのだ。
とはいっても、時間も人手も無いんだからできないものはしょうがない。
怒鳴られるのを覚悟で細かい部分を諦め、あとは”汚物”の機嫌が悪くない事を祈るのみ!!
そして、さらに困るのは、診察開始前からオーナーが診療を待っているパターンで、その場合はある程度の準備ができ次第、すぐに病院に入ってもらって診察を始めなくてはいけないので、てんてこ舞となる。

そんな朝を迎えて診察開始時刻もとうに過ぎた忙しい最中、のろのろとしたダルそうな動作で大きなあくびをしながら2階からゆっくり下りてきた”汚物”は、検査などであたふたしている従業員を見回して言う。

“汚物”「おい!!お前ら、挨拶も無しかよ!!」
(挨拶してほしいなら、せめて診察開始前に下りて来い!!)

朝の準備も手伝わず、診察開始時刻にも下りて来ず、やっと面倒くさそうに下りてきたと思ったら忙しく働いている人間に向かっていきなり怒鳴りながら挨拶を要求する。
これが良識のある人間のする事だろうか?
ましてやコイツは、従業員の手本となるべき病院の長である。
相手は上司だし、世間ではこれが当たり前という事ならもはや何も言わないが、少なくともこんな対応をするような奴を尊敬しようとは思わない。
そして、案の定、診療が落ち着いてちょっと時間ができた時に病院内を見回し、入院患畜のカルテを見ていた”汚物”が突然こっちに向かってくる。
もちろん、キレている。

“汚物”「おい、入院中の○○ちゃんの今日の体温書いてねえけど、当然測ってるんだよな!?」
『元気そうだったし、他の準備があったので測ってません。』
“汚物”「はぁ!?お前、ふざけんなよ!!1年目のくせに何、手ぇ抜いてんだ!!ボケ!!体温なんて基本中の基本じゃねえか!!元気そうでも測るだろ、普通!!頭おかしいんか!?」
『体温を測ってると朝の掃除がとても間に合わないので無理です。』
“汚物”「看護師がいっぱい居るだろが!!掃除ぐらい頼めよ!!アホウが!!」
『他の人たちも忙しそうで、とても頼めません。』
“汚物”「何、口答えしてんだ!!ボケ!!やる気か!?あぁ!?人に頼めんのだったら、お前がささっとやればいいじゃねえか!!コラ!?」
『ささっとやったら、汚れが残って院長に怒られるのでできません。』
“汚物”「オレのせいかよ!?舐めた事ぬかしやがって!!このクソが!!じゃあ、お望み通り、じっくり掃除させてやるよ!!おまえの出勤時間は明日から8時だからな!!遅れやがったら承知せんぞ!!」

ちょっと反抗してみたが、だんだん手や足が出るようになってきて、しまいには報復として出勤時間を30分早められたので、もうギブアップ。
「出勤が30分早くなったぐらいどうって事ないじゃん。」と思った方は大間違い。
我が病院は、診察開始の15分前くらいにならないとドアの鍵を開けてくれない。
診察開始は9時、元々の出勤時間は8時半。
普段から15分くらい締め出しを喰らっていて病院周囲の点検やゴミ拾いをさせられているが、それが30分伸びたところで院内に入れなければできる事はほとんど変わらない。
反抗した報復として、ただ無駄に勤務時間が増やされただけなのだ。
翌日、もしかしたら鍵を開けてくれているかもいうと淡い期待を抱きつつ病院に到着したが、ドアは非情にもガチャガチャと音を立てるだけで開きはしない。
その代わり、ほうきとちりとり、雑巾とバケツが外に出してある。
なるほど、駐車場の掃除と外の窓拭きでもしてろって事か。
診察開始前の15分間の忙しさは、駐車場の掃除と外の窓拭きが無くなったくらいでは大して変わらないが、ドアが開かない以上は他にできる事も無いので、とりあえず掃除と窓拭きをやっておく。
頃は風も寒くなり始めた秋の初め。
2階の暖かい部屋で黙々と朝食を食べながら高みの見物を決めこんでいる”汚物”の視線を感じつつ、かじかむ手を時折温めながら寒風吹きすさぶ屋外でただ独り、掃除と窓拭きをドアが開くまで続ける。
こんな日がこれから毎日続くのかを思うと、孤独感のせいかやたらと風を寒く感じる。
秋浅き 2階は何を する人ぞ

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