小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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10月や11月には、勉強の秋という事もあってか、大きな学術発表会が開かれることが多い。
臨床獣医師の業界でも、全国区の獣医師が集まる発表会が開かれたりするが、見栄を張るのが大好きな”汚物”は当然、その発表会でも発表する。
去年から1年間、地域の勉強会に出してきた中でもとっておきの演題を発表するのだ。(応募すれば大抵誰でも発表できるので、全然凄い事ではないが。)
もちろん、申し込みをしたり、発表会委員と連絡を取ったり、発表内容をまとめたりするのは僕だ。
普段は不要な雑務が増えたり、地域の勉強会以上に細かい点を指摘をされて訂正を重ねるので、他の仕事がどんどん溜まっていくのは言うまでもなく、発表会後が思いやられる。
発表内容はというと”汚物”の得意分野の症例紹介なのだが、専門用語のオンパレードで何が何だかよく分からない内容となっている。
それもそのはず、この「専門用語」は人の医療ではそこそこ使われており、獣医療でもこの分野を得意とする人間は知っているが、特にその分野に興味があるわけでもない獣医師にとっては全く馴染みがない言葉が多いのだ。
何故そんな獣医療では一般的でない言葉を使いたがるのかといえば恐らく、その分野特有の言葉を使うことで”汚物”がその分野に精通しているかのような錯覚に陥れるからであろう。
しかし、その分野だけの発表会ならともかく、全般的な発表会でそんなちんぷんかんぷんな発表をするとは独りよがりにも程がある。
以前、僕の一般的な専門用語を聞いて「難しい専門用語で誤魔化すな。」と言っていた人間が、自分の得意分野においてのみ、あまり一般的ではない専門用語をさも当然のように使い、分からなかった場合には「何でそんな事も知らんのだ!!このモグリが!!」と怒鳴ってくると、もう呆れて矛盾を指摘する気も起こらなくなる。
発表会の意義は、表向きは現在行っている方法が正しいかどうかの検討や個人の有益な知識を他の仲間にも伝えて、その業界をより発展させようという意味合いがあるが、所詮は発表者の名誉欲や自己満足を満たすための機会として利用される事が多い。
“汚物”もその流れに従って自己満足の知識を披露しているだけなので、この件に関しては”汚物”だけが悪いというわけでもないが、普段の診療で忙しい人間を巻き込まないでほしいものだ。

そして発表会の日。
僕も「勉強のため」という理由で強制的に参加させられたが、ずっと“汚物”の荷物持ちなため、自分が見たい発表は見られないので勉強も何もあったものではない。
そしてもちろん、病院は臨時休診なわけで、自己満足の発表のために病院を休みにするコイツが「病気は平日休日関係なくやってくるから。」とか語るとは…(以下略)。
また、獣医師の世界は狭いので、大きな発表会では昔の知り合いに思いがけず会ったりもする。
”汚物”も研修時代の仲間に出会ったようだ。
“汚物”は、病院外では善人を装うので物腰も柔らかで話し方も丁寧、一見、和やかに会話が交わされているように見える。
しかし、話はすぐに途切れ途切れになり、相手も視線を伏せがちであまり発言せず、数分もしないうちに別れていく。
相手も寡黙な人なのかと思っていたら、その後に別の人とは楽しそうに会話していた。
やはり、一緒に働いたり過ごしたりするとどんなに隠しても本性がバレてしまうようで、”汚物”は昔の同僚にもあまり好かれてはいないようだ。
他にも、普通は学会や勉強会を通して知り合った他の獣医師と話したりもするものだが、それ以降の“汚物”は人と話すこともほとんど無く、休憩時間なども周りの人々が談笑している中で独りだけぽつんとイスに座って資料に目を通しているだけなので、周囲の雰囲気から完全に浮いてしまっている。
コイツには知り合いや友達が少ないという事が改めて確認できた。
この”汚物”に嫌悪感を抱く僕は正常という事が証明されて嬉しい。
だが、こんな奴でも相性が良い人間は居るようで、昼食時に“研修時代の戦友(笑)”とやらと3人で食事をすることになった。
この“戦友(笑)”がまた、小物の雰囲気を漂わせるテンションが高めなお調子者のデブという感じで、何処となく”汚物”と通じるものがあり、嫌悪感を抱かせてくれる。
まるで「ジュラシック・パーク」に出ていたネドリー(恐竜の胚を横領しようとしたシステムエンジニア)みたいな感じの奴で、コイツとも一緒には働けなさそうだ。
最初の紹介では、何故か僕が「1年目だが、副院長」と紹介される。
確かに、現在の病院内では院長の他に獣医師は僕だけなのでそれはそうかもしれないが、普段は散々、「獣医じゃない。」とか「頼りにならん。」とか言ってくるくせに、こういう時だけ思ってもいないくせに「副院長」と紹介されるのは冗談でも気に食わない。
面白い事を言っているつもりなのか?
ハイテンションデブも「もう副院長!?すごいねぇ!!グププ!!」とか言って、つまんねえ事で気持ち悪く笑ってんじゃねえ!!
どうせ1年目では「副院長」なんて扱いをされるわけねえって分かってんだろ!?
その後も、食事をしながらこの”汚物”同士は全然不幸に思えない不幸自慢や明らかに誇大表現をした苦労話を楽しそうに語り、「自分の方がより大変な状況で頑張っているアピール」をしていたが、その話の中で特に気になった言葉が「研修医に人権は無い」だ。

“汚物”A「僕らの研修時代は給料も安くて、朝から晩まで扱き使われて、怒られてばっかりで…。大変でしたよねぇ?今の人たちは、給料はたくさん貰えるし、丁寧に教えてもらえるし、技術も進歩しているし、勉強の機会も多いし、ホントに恵まれてて幸せ者です。そんな状況を作った我々に、もっと感謝してくれてもいいんですよ?」
“汚物”B「そうだそうだぁ!!(笑) 昔より働きやすい環境なんだし、使えないんだからその分もっと頑張って働けぇ!!(笑) 研修医に人権は無い!!(笑) グププ!!」
“汚物”A「そうそう。もっと言ってやって下さいよ。この子は全然成長しない上に反抗ばっかりするんですよ。ハハハハハ。」
『ハ…  ハハ…  ハハハ…… 』

なるほど、人権が無いという事なら今までの扱いも納得できるものばかりだ。
人権の無い労働者という事は、僕はさしずめ「奴隷」といったところか。
これも冗談で言ったんだろうが、普段の扱いと照らし合わせると冗談には聞こえない。
また、「給料が安く」「朝から晩まで働き」「怒られてばっかり」で昔の研修時代は大変だったという事だが、少なくとも我が病院では今でも同じ状況である。
しかも、技術の進歩は確かにそうかもしれないが(というより、技術の進歩に”汚物”は関係していないのでは?)、丁寧に教えてもらった記憶も勉強の機会をたくさん与えてもらった記憶も無い。
むしろ、嫌味を言われたり、憂さ晴らしの嫌がらせを受けたり、搾取をされたりしてマイナス要素が加わっているので、どう考えれば「恵まれてて幸せ」などと言えるのか全く分からない。
ともかく、「人権が無い」という事なら人のために作られた法律の制約も受けないと思うので、それを認めている”汚物”は、「何をされても法的手段に訴える事はできない」という事も認めているわけだ。(昔なら奴隷を物扱いするようなひどい法律があったみたいだが、今は無いみたいだし。)
もう後先考えなくても良くなる“お礼参り”の時にやってみたい報復は色々と思いつくので、その時が今から楽しみだ。
復讐ノートにしっかりメモしておこう。
ちなみに、発表会に参加すると大抵は資料代や参加費で万単位のお金が必要となってくるが、我が病院は強制参加のくせにそれらの費用は当然全額自腹である。
理由はもちろん「お前の勉強のためだから」。
アンタはそれしか言えんのか!?
こうして秋が徐々に深まっていく中、すでに埋まりようもないほど深くなった”汚物”と僕との間の溝もさらに深まっていくのだった。

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