小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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年末。
疲労困憊の従業員とは対称的に、気持ちはすでに海外に行っていて上機嫌の”汚物”のもとに、浮かれ気分をぶち壊す素敵なクリスマスプレゼントが届けられる。
中堅看護師の1人が病院を辞めると言い出したのだ。
彼女は我が病院に勤めて4年目で、仕事もまあまあ頑張るし、周りの状況をしっかり判断して”汚物”だけは怒らさないように行動できる、この病院にしては優秀な人材だ。
彼女が辞めるとなれば、病院にとっては大きな痛手だろう。
彼女は面倒事を避けるため、”汚物”には彼氏がいることを隠しており、辞める理由は建前上は「親の体調が悪くなって、しばらくは時間に融通の効く仕事に変えたいから」だが、本当の理由は同棲している彼氏が4月から転勤になるので、それに合わせて色々と準備をしたいからとの事だ。
年が明けると3月末まで言い出しにくそうなので、一区切りのついた年末にと思ったそうだ。
「恋人がいる=早く辞める」とか、「12月の終わりは辞めやすい」とかが分かっていて警戒している割には、まさにその条件で辞められるという空回りっぷりが何とも”汚物”らしくて面白い。
そして、これ以上従業員が減るとなると、もはや笑っていられる事態ではないのだが、普段はどっしりと構えた不遜な態度の”汚物”がこういう時だけは異様に焦る姿を見せてくれるので愉快痛快怪物君だ。
さすがはピエロ。
それではイッツショータイム。

“汚物”「えっ?えっ?辞める?契約終了まであと3か月ありますよ?その後も当然更新してもらえると思ってたのに…。親御さんが大変なのは分かりますけど、責任は最後まで果たす…、それが仕事ってもんです。例えば午後だけとかで働けないのかな?いきなり辞めるって言われても準備に時間がかかるし、こんな時期に他に雇ってくれる所も無いでしょ?それとも何か不満があるとか?君たちも何とか言ってやってよ。」

いやー、動揺しているだけあって、今回もなかなかつっこみどころ満載ですね。
まず、特に書類等も無くて口約束だけだった上に諸条件を散々一方的に改悪している労働契約において、労働期間だけはしっかり守ってもらえると思っている事がすでにかなりおめでたいのに、「その後も当然更新」とかはもう空想の世界にでも行っちゃったのかと心配になってくる程の戯言だ。
こんな病院、契約更新してまで続けたがる奴の方が珍しいだろう。
また、あざごときで職務放棄をしたような奴が仕事を語るのも愚の骨頂。
「責任」なんてどの口が語るのか。
さらに、「午後だけ」とか言っているが、その「午後」の労働がほぼ毎日日付の変わるまで続くので、結局親の看護はできなさそうで意味が無いし(嘘だから元々看護しないけど…)、「半日勤務だから給料は今の半額」とか言い出しかねないので、そんな怪しい申し出を易々と受けるような危機感の無い奴はこの病院には居ない。
「準備」とかも言っているが、いったい何の準備が必要なのか?
色々と手続きがあるのかも知れないが、恐らく「嫌がらせをする準備」がメインだと思うので、そんなのに時間をかける必要無し!!
唯一、「1月頃に雇ってくれる所が無い」というのはまあまあ正しいかもしれないが、その後の「不満があるかどうか」とかは不満の原因の張本人が聞いちゃダメだろ。
で、最後にはお決まりの他力本願。
「何か言ってやって」って、嫌だよ。
言うとしたら「4年間、お疲れ様でした。」だけど、それだとアンタ怒るだろうが。
まあ、そんなつっこみどころより何より笑えるのは、恋人がいるという疑いを全く持っていない事だ。
指輪を大事そうに身に付けていたら、普通は怪しむところだろう。
お笑い芸人の世界では「押すな」は“押せ”の意味だそうだが、この”汚物”が言っていた「何でもお見通し」とは“実際には何にも見通せてませんよ”を意味するというボケだったのか?
ボケで言っていたのだとしたら不覚にも少し笑ってしまったので、さすがはピエロと褒めておこう。
いずれにしても、この病院においては辞めると言い出した以上はすぐにでも辞めるのが最良の選択だが、優しい彼女は”汚物”の稚拙な説得工作でも同情や責任を感じてしまったようで、1月末までは今まで通り働くことになってしまった。
しかし、我が病院ではそんな慈悲の心を出そうものなら無惨にも仇で返される事となる。
翌日…。

(なんじゃ、こりゃあぁぁぁ!!)

“汚物”が新しく作り直した1月の病院の予定表を見て驚いた。
間違いなく嫌がらせだろうが、休診日当番が全て彼女の担当になっている!!
“汚物”曰く、「もう辞めるって事なんで、辞めた後はゆっくりできるだろうし、最後の1か月はちょっと頑張ってもらう事にしました。」
個人分の休日は残されているため、週に1日は休めるようではあるが…。
「週休1日ならそんなにしんどい事はないじゃないか。」と言われればそうかもしれないが、何よりも酷いのは辞める時期を説得で伸ばしておきながらこんな仕打ちをする事ではないだろうか?
ましてや、建前上は「親の看病をするために辞める」と言っているのに、その看病の時間を大幅に削るなど、人の心を持っているならばできるはずがない。
やはり、この”汚物”は人の心を持たない悪魔や鬼の類だったのだ。
“汚物”が周りに居ない時に「これ…、酷いですよね?」と聞いてみたら、彼女は「いいの。何となく予想できてたから。それより意外とすんなり辞めれて良かったわぁ(笑)。」と喜んでいた。
すんなり…、かなぁ?
彼女はこの病院の瘴気にすっかりやられてしまっているようだ。
それにしても、何故こんな酷い仕打ちが平然とできるのだろう?
“汚物”のことだから「契約終了前に辞めるんだから、その分働いてもらうのは当然。」とでも思っているのだろうか?
法律上では、遅くとも辞める2週間前には退職の意思を申し出なければならないそうだが、こんな嫌がらせを受けるなら絶対即日で辞めてやろうと決意した瞬間だった。
ちなみに、この予定変更によって彼女が頑張る分、他の看護師たちの1月の休診日当番は無くなったわけだが(僕はずっと急患当番だけどね!!)、他の看護師たちもこんな風に仲間を犠牲にした形で休みが増えても嬉しくないだろう…、と思いきや普通に喜んでいた。
(てめーらの血は何色だ!?)
ともかく、こうして爆弾処理を無事に(?)済ませた”汚物”は、従業員たちに病院を任せて何事もなかったかのように海外に旅立って行った。
そして、残された従業員は大晦日の夜までしっかり働かされ、激動の一年間を頑張り抜いた事へのお互いの賞賛と、正月明けに突然の「裏切り行為」をしないよう念入りに牽制し合いつつ解散していった…。

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