小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

新年は2日から早速仕事始め。
幸いな事に「裏切り者」は出なかったものの、人数が少ない事に変わりは無い。
なお、“汚物”はまだ海外旅行から帰って来ていないが、最近は僕がそこそこ診療をできるようになったため、ヤツは難しい症例を除いたほとんどの診療をしなくなっていたので、いたとしても戦力には含まれない。
そして、今月末にはさらに従業員が減るのだ。
今の状態ですでに限界なのに、これ以上減ったらどうなるものか?
たいして期待もできないが、”汚物”が何らかの対策を立ててくれる事を願おう。
診療的には、この時期は寒くなって動物でも風邪や体調不良が増えるとか、いくつかの持病が悪化しやすいとか、飲水量が減って尿結石が発症しやすいとか、何だかんだで相変わらず忙しい。
そうこうする内に旅行から帰ってきた”汚物”も勤務を開始するが、相変わらず面倒そうな診察や治療は自分ではやらないくせにやたらと怒鳴り散らしてくる。
バカの一つ覚えみたいに「確認取れよ!!オレに!!」と「そんなん自分で判断できるだろ!!」ばかりを繰り返すのだ。
ご想像の通り、この2つはマジシャンズセレクトを使う限り、診療がある度に常にどちらか一方を使えるので使用頻度が一番高い言葉なのだ。
診療方針を確認しなかったら「確認取れよ!!」、確認したら「自分で判断…」。
もちろん、経験のある症例ではわざわざ確認しないようにしたり、初めての症例では相談するようにしているのだが、怒鳴られるかどうかはそんな過去の経験などには全く起因しない。
“汚物”の機嫌が悪いかどうかだけが唯一の要因となるのだ。
明らかなミスがあるならともかく、機嫌が悪いというだけで怒鳴られた時はもうはらわたが煮えくり返ってしょうがない。
そもそも、従業員を差し置いて自分だけ海外旅行を楽しんできたのだから、機嫌もしばらくの間は良くて当然のはずなのに、一日と持たずに怒鳴り始めるとはどういうことか。
コイツの癇癪癖はもはや、短気とかの性格のレベルを通り越して病気のレベルにまで昇華されていると言えるだろう。
1週間近く海外で遊んできた挙句に、その間、病院を支えていた従業員を感謝の言葉も無しに何の躊躇いもなく怒鳴るなど、常識人のする事とは到底思えない。(確か、前にも同じような事を書いたと思いますが、大切な事なので2度書きました。)
先輩獣医や看護師たちは、よくもまあこんなヤツの下で何年も働き続けられたものだ。
性格的には一癖も二癖もある取っ付きにくい人たちばかりだったが、そこだけは尊敬に値する。

まぁそんなこんなで、元々スズメの涙程度だった正月のおめでたい気分に早速止めを刺されつつも月日は過ぎ去り、いよいよ例の中堅看護師の辞める日が近づいてくる。
しかし、どうせ”汚物”のことだから「君たち、これから忙しくなっちゃうねぇ〜。頑張らないとね。」などと、他人事のようにヘラヘラしながら励ましてくるだけだろうと諦めていたが、何とバイトを雇う事にしたらしい。
しかも、2〜3人同時に雇う予定で募集をかけているとのこと。
何と素晴らしい知らせなのだろうか!!

…突然だが、「パンドラの箱」という逸話をご存知だろうか?
よく知られているのは、【神から絶対に開けてはならないと言われて渡された箱をパンドラという女性が開けてしまった。その箱の中には、この世のあらゆる厄災が封じられており、それらはあっという間に世界中に飛び去ってしまった。パンドラは慌てて箱を閉め、後には希望だけが残った。】というストーリーだろう。
結末の意味については諸説あるようだが、気になる説は【「希望」は絶望的な状況の中で、無駄な努力を続けさせる原因となる「厄災」の一つであり、最後に箱の中に残っていたが、それが無いと人は生きていけないため、パンドラが箱から出した。】というものである。
これを聞いた時は「希望が厄災かぁ…、それなら確かにパンドラの箱に入っていたのも納得できるし、面白い考え方だなぁ。」と感心する程度だった…。
しかし!!今なら言える…、この説が一番正しい!!
「従業員が増える予定」と聞いた時、僕は愚かにも「やったぞ!!それならまだ頑張れる!!」と希望を持った。
従業員が増えれば仕事の負担も減るし、何よりも”汚物”の憂さ晴らしの矛先が増えて僕が怒鳴られる回数が減る。
となれば、俄然元気も湧いてくるというものではないか!!
しかし、よくよく考えると、この「希望」が無ければ…、つまり従業員が増えなければ「過労による体調不良」とか「精神の限界」に陥り、辞める事ができたかもしれないのだ。
この地獄から開放されるチャンスだったかもしれないのだ。
こんな好機を逃していながら希望を持って喜ぶとはとんだ大失態だったが、この頃はもうそんなことに気を回せる余裕が無いくらい消耗していたのだからしょうがない。

しかも、バイトの雇用で状況はさらに悪化することになる。
結論から書くと、これから何人もバイトが入ってくるのだが、そのほとんどは”汚物”の言動に耐えられずに1か月以内で辞めてしまうのだ。
せっかく仕事を教えても、すぐに辞めてしまうので無駄に時間が浪費されるだけで、むしろ手間が増えるぐらいだし、バイトの不手際は何だかんだで僕のせいにされるので、結局怒鳴られる回数もそんなに減らない。
さらに、生き残ったバイトたちも、給料が時給なので余計な出費を抑えるために診察時間以外はすぐに病院を追い出されるため、正社員の代わりは到底務まらない。
何故なら、正社員の労働時間の割合は診察時間外の“無償労働”の方が遥かに大きいからだ。
やはり、正社員の抜けた穴は正社員が雇われない事には埋まらないのだ。
一方、”汚物”はバイトを雇った事で人手は十分と考えているので、以前と変わらない量と質の雑用や診療を要求してくる。
この自称“何でもお見通し”野郎は相変わらず周囲の状況がまったく見通せていないのだ。
要するに、手間や忙しさは増したのに、表面上の人手は減らないため、特に辞める理由が無い状況には全く変わりがないというわけだ。
下手な希望さえ持たなければぬか喜びして余計に落胆する事もなかっただろうに、深く考えずにやる気を出した愚かな自分が呪わしい…。
やはり、「希望」は「厄災」の一つで間違いないようだ…。
ちなみに、もちろんバイトだけではなく、正社員でも募集をかけているようだが、動物看護師の正社員は給料や待遇が前述のとおり“アレ”なので、なかなか応募が来ないのだ。
そうこうする内に1月も終わり、どんどん労働環境が悪化する泥船のようなこの病院を、1か月に及ぶ嫌がらせと引き換えに中堅看護師は巣立っていった。
これで残った奴らは基本的に仕事をしない看護師たち。
(これからが本当の地獄だ。)

-33-
Copyright ©深口侯人 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える