小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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2月、季節は雪のチラつく冬枯れの頃。
この時期になると、朝の病院外の掃除は健康に悪影響を及ぼしそうなレベルに達するが、「ちゃんと厚着をすれば心配無い」との理由で”汚物”からは当然の如く何の配慮もない。
もちろん、以前ちょっと反抗した際のペナルティーも継続中だ。
この時期の早朝に、毎日独りで小一時間も野外の掃除をしていると、身も心も凍てついていく感覚にふと襲われる瞬間がある。
一昔前、(キラキラ雪の中、ふるえてドキドキしてた。全てがくずれても何も見えなくてもそれでもいいから、このまま埋もれて春になったらいいなぁ。)みたいな感じの歌詞の曲があった気がするが、今まさにそんな気分だ。
もっとも、僕の場合は(ふるえてドキドキしてた)理由には怒鳴られる恐怖から来るものも含まれており、(全てがくずれても…)というのは「死んで楽になれるならそれでもいいや。」という心境からである。
こんな精神的にも肉体的にも寒々とした状況下では、風邪やインフルエンザに罹らない方がおかしい気もするが、生憎、僕は昔から体が丈夫で発熱する事も滅多に無く、休む事もままならない。
もっとも、我が病院では風邪やインフルエンザに罹っても、体温が39℃未満なら出勤させられるらしく、そう易々とは休めないようなのだ。

(なるほどね〜。病院で一番偉い御方がご精勤なさっていらっしゃる時に、熱が出たくらいで自分だけ休んで楽をするわけにはいかないもんね〜。それに獣医療関係者なんだから自分の命や健康が危険に晒されようとも、病気でもっとしんどい思いをしている動物たちを早く治してあげなきゃいけないからね〜。しかも病欠だと給料引かれちゃうから損だしね〜。
…って、おい!!「39℃未満なら出勤」って、殺す気か!?その程度の発熱で働かせても死ぬことは無いから大丈夫とでも思ってんのか!?てゆーか、お前はいつも2階で休んでて接触時間が少ないからいいかもしれんが、半日以上一緒にいる他の従業員にうつったらどうすんだ!!)

まぁ、よっぽどの正直者でない限り、しんどい時は「39℃以上」という事にして休むと思うが、“汚物”自身が発熱した時は恐らく37℃でも休むはずなのに、ホントにコイツの他人に対する厳しさはマダンテなみだ。
もはやコイツは鬼である。
比喩表現などではなく、まさに鬼である。
鬼と呼ばれるのにこれほど相応しい人物はそうは居ないだろう。
なぜならここは地獄の病院、鬼が居るのがよく似合う。
ことわざにある「地獄で仏」とかいう幸運な状況など、現実では滅多にお目にかかれない。
「地獄で鬼」、これが現実。

そんな非情な現実を目の当たりにしつつも辞められる程の決定打を見出す事もできず、ただただ怒鳴られ続ける日々が続いていく。
「そんなに嫌なら辞めればいいじゃん。」という意見も確かにあろう。
しかし…

違う…!!分かってない…。あんた…、まるで分かってないっ…!!そりゃあ…、自分の意志を押し通してキッパリ辞める事は素晴らしい…。しかし…、状況をしっかり把握して辞めるタイミングを窺う事も同様に素晴らしい…!!うまく辞めれずとも…、人から見たら…、臆病…、軟弱に見える意志…、優柔不断…、だとしても…、輝きだ…!!かけがえのない人生なんだ…!!だからどんなに慎重過ぎて…、ただジタバタしただけの決断だとしても…、それを…、咎める権利は…、誰にもないっ…!!

…まぁ、つまり、大人の世界は「嫌だから辞める。」でまかり通れるほど単純なものでもない事を皆さんはご承知のはずだ。
その後の人生設計や生活資金、再就職先、世間体の問題、両親の想いや期待、残される同僚の気持ちや労働環境、辞める際の手続きや雇用主との交渉…。
それらを総合的に勘案し、関係者の全てがある程度納得するような理由を見つけ、かつ周囲への悪影響が最小限に抑えられるタイミングで辞職を申し出てこそ立派な大人と言えるのだ!!
…もっとも、大義名分も無しに辞めると言えるほど勇気が無かったのも事実なのだが…。

それはともかく、働いている獣医師が実質1人では診療をこなし続けるのには限界がある。
しかも、雑用の負担が増えたはずなのに相変わらずのんびり働く看護師たち。
さらに、今までの仕事に加えてバイトの面倒までも見なくてはならなくなったのだ。
今まででさえ怒鳴られるのを覚悟で緊急性の低い仕事を後回しにしていたのに、さらに別の仕事が増やされたらどんな状態になるかは書くまでもないだろう。
しかし、僕にはまだ希望が残されている…。
4月になれば新卒の獣医師が入ってくるはずなのだ!!
バイトでも看護師でもなく獣医師が入ってくる…、これがどれほど嬉しい事かお分かりいただけるだろうか?
雑用の負担が減り、憂さ晴らしの矛先が増えるのは看護師が増えても同じだが、獣医師が増えれば診療の負担も減るのだ!!
診察、検査、治療、手術、往診、急患当番…。
これらが軽減されれば、仕事量も怒鳴られる回数も圧倒的に減るはずだ!!
今よりもずっと働きやすい環境となるだろう!!
もちろん最初は何も任せられないだろうが、ゆくゆくは半分とまでは行かないまでも2割、3割は負担してもらえるはずだ!!
でも、そんな事よりも何よりも一番嬉しいのは、同じ職業の仲間が増えるという事だ!!
獣医師ならではの色々な苦労も分かち合えるだろうし、専門的な話もできる。
将来の夢を語り合ったりもできるだろうし、診療の喜びも悲しみも共感できることだろう!!
親の気持ちが本当に理解できるのは自分にも子供ができて親になった時らしいが、あの他者を見下していた感じの先輩獣医師が僕にだけは優しかった理由が!!(「言葉」でなく「心」で理解できた!!)

(ようやくこの悪夢みたいな労働環境から抜け出せるんだ!!思えば1年間、短いようで長かった。これ以上劣悪な労働環境はまず無いだろうし、これを乗り越えればこの先どんな困難にも立ち向かえる気がしてきたぞ!!いや、待て。喜ぶのはまだ早い…。去年の先生がそうだったように、”汚物”にやられてうつ病になるかもしれないし、その前に嫌気がさして辞める危険だってある。そんな事になったらまたこの1年の繰り返しだ。もう、独りで耐えきる精神力など残ってないぞ…。やっと訪れる希望の光なんだ!!”汚物”からしっかり守りつつ、大切に育てよう!!)

…このやたらと希望に満ちた感じの力強い説明や、やけにハイテンションな心理描写から、カンの良い方はすでに気付かれた事だろう…。
そう…、新人獣医師は入ってこない。
辞める心配など最初からする必要は無かったのだ…。
3月下旬の某日、”汚物”が軽快に話し始める。

“汚物”「いや〜、大変なことになっちゃったよ先生〜。実はさ〜、獣医さんずっと募集してたんだけど、今年度は就職希望が無くってさ〜。来年度も僕と先生だけで頑張らないといけなくなっちゃったみたいなんだよ〜。獣医さんが来ないなんて初めてなんだけどね〜。まぁ、今のままで病院は十分回せてるから問題ないよね〜(笑)。」

フフ…、フフフフフフ…。
人は、どうしようもなくなった時には笑いが込み上げてくるものだ。
そして今がそんな時だ。
“汚物”は極めて軽いノリでとんでもない内容をカミングアウトしてくれたものだが、この軽さは事態をあまり深刻に捉えていない気持ちの表れだろう。
“汚物”には僕がまだ平気なように見えていたのかもしれないが、僕はもう本当に限界なのだ。
最後の希望まで奪われて働き続けるほどの気力は、今の僕には残っていないのだ。
そういえば、臨床獣医師を目指す学生は、就職を考えている病院に見学や研修に行くことが多々あるが、今年、我が病院に来た学生は1人もいなかった。
したがって、何となくはそんな予感がしていたのだが、それを認めてしまっては精神が耐えきれないので考えないようにしていたのだ。
しかし、はっきりと言われてしまってはもうおしまいだ…。

絶望である。
努力をする機会すら与えられず、始まる前に終わってしまう。
希望を抱く事すら許されない。
未来が見えない…。
人が自殺を考える時はまさにこんな気分なのだろう。
その後、看護師たちとの内緒の談笑で「急募で既卒の獣医さんを募集する事もできるけど、既卒獣医を雇うと給料の支出が痛いんだわ。忙しいのは悩み所だけど経済面では助かるし、既卒の募集はやる予定無いなぁ。あっ、先生には内緒ね。壊れるかもしれないから(笑)。」とかいう内容が普通に聞こえてきた事も、すでに生ける屍となっていた僕には何の感情も引き起こさなかった…。

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