小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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4月…、新年度…。
専門学校卒の新しい看護師が3人…、正社員で入ってきた…。
見た感じは普通の女の子たちのようで…、特に精神的に強そうでもない…。
この子たちもどうせすぐ辞めることだろう…。
“汚物”は相変わらずの様子で…、最初こそ穏やかなものの…、1週間もすれば元通り怒鳴り散らし始める…。
入った直後はキラキラしていた新人看護師たちの目が…、どんどん腐った魚の目のようになっていく…。
社会人としてのはじめの一歩が大失敗だった事を悟ったのだ…。
だが…、もはやどうしてやることもできない…。
『適当な辞め時を自分で見つけて辞めるがいいよ…。』
心の中でそっとつぶやく…。
診療は相変わらず多忙を極めるが…、僕の診察能力は1年前に比べると格段にアップしているし…、スピードも以前と比べものにならないほど速くなった…。
しかし…、実に悔しい事だが…、難しい症例の診療は経験がものを言うため…、どうしても”汚物”に頼らざるを得ない事態も出てくる…。
もちろん…、スピードも”汚物”の方が上だ…。
なので…、機嫌が良い時には「1年経っても、ちっとも使い物にならんなぁ、副院長殿(笑)。」とか冗談を言っている”汚物”も…、機嫌が悪い時は「1年も投資してやったのに、まだこの程度かよ!!お前、今までで一番出来の悪い弟子だわ!!どうしていつまで経ってもこんな事もできんのだ!?」と罵声を浴びせてくる…。
今の僕はもはや…、悪意ある言葉を…、かわす事も…、受け流す事も…、防ぐ事も…、遮る事も…、撥ね返す事も…、打ち砕く事もできない…。
ただ直撃を喰らうのみ…。

(僕は出来の悪い弟子…。いつまで経っても成長しないダメ人間…。僕は何のために生きているのだろう…。)

そんな気分の落ち込みに加え…、忙しさに追い討ちをかけるかのように毎年春恒例の狂犬病予防と心臓寄生虫予防の診療がわんさか入ってくるので…、僕の精神にはじわじわと這い寄るように終焉の時が近づいてくる…。
以前は時々やって来るくらいだった頭痛や吐き気やめまいも…、僕にすっかり懐いたみたいで側を離れなくなってきた…。
寝付きも悪くなり…、ようやく眠れても悪夢や小さな物音ですぐに目が覚めるので…、心も体も休まるものではない…。
睡眠不足が続き…、食欲も落ち…、体重もぐんぐん減っていく…。
自殺しようとまでは思わないが…、大通りを行き交う車を見るたび…、『事故とかで死んだら楽になれるのにな…。』という考えが頭をよぎる…。
今…、精神科を受診すれば…、うつ病の診断が下されるのだろうか…?
だが…、病院に行く時間も無いし…、受診するのも面倒くさいので…、そんなのどうでもいい事だ…。

精神も肉体も時間的にも限界を突破し…、ミスも当然増えてくる…。
この時期はさすがの”汚物”でも忙しく働かなければならない上に…、怒鳴っても怒鳴ってもミスを続ける僕に対し…、そのイライラが最高潮に達しているようだ…。
もはや怒鳴られたところで改善する余裕も無いのだが…、以前よりやる気が無くなっているのもまた事実…。
“汚物”にしてみれば…、忙しい時期に急に反抗的になったように見えるだろうし…、腹立たしがるのも無理はない…。
そして…、やがて怒りの波は幾重にも折り重なり…、巨大な大津波となって”汚物”の心を激しく揺さぶり…、決定的な言葉を放たせる…。

“汚物”「お前…、やる気無いんだったら辞めろ!!お前の替わりなんていくらでも居るんだぞ!!獣医だからクビにならないとでも思ってんのかよ!?何を自惚れてんだ!!このバカが!!」

「○○だったら辞めろ。」とか…、「お前の替わりはいくらでも居る。」とかも”汚物”がよく使う言葉だ…。
しかし…、さすがに獣医師の替わりはなかなか見つからないようで…、今までは看護師やバイトにしか言っていなかった…。
だが…、度重なるイライラが我を忘れさせたようで…、ついに僕に対しても使ってきた…。
これは願ってもない喜ばしい事態だ…。
だって……。

(普通なら言葉の綾とか…、やる気を出させる時の常套句で本気にする奴はいないとか…、冗談とかで済まされる言葉なのだろうが…、今の僕にそんな言い訳は通用しない…。言ったからには責任を取ってもらう…。言質は取れたんだ…。もう僕はいつでも何の気兼ねもなく辞められる…。替わりはいくらでも居るらしいからね…、フフフフフ…。)

そんな事を頭の中で考えてはいても…、『結局僕は辞められないんだろうな…。』と自嘲しつつ診療を続けていたある日…、ついに念願の辞めるに値する決定的な事件に遭遇する…!!
だがそれは…、朧げに想像していたような輝きに満ちた天の恵みなどでは決して無かった…。
そんな事で辞める決心をすることになるとは思わなかった…。
それに気付くくらいなら…、まだ今の地獄の生活をあと2年続けた方がマシだった……。

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