小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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ゴールデンウィーク明け。
“汚物”は海外旅行から帰ってきたばかりだが、やっぱり早速不機嫌になっている。
それもそのはず、毎年恒例の事ながら、新人看護師がさらにもう1人来なくなったからだ。
相変わらず電話で辞意を伝えられたそうだが、これだけ毎年同じような事が続くのに、”汚物”は未だに自分が一番の要因だとは露知らず、壊れたテープレコーダーのように「最近の若い奴は根性が無い」と「誰かいじめたんじゃねえだろうな?」を繰り返す。
病気の診断能力はそこそこ高いのに、人間関係の問題にはどうしてこうも疎いのか。
ま、少々遅いかもしれないが、そろそろ正しい人間関係の作り方を学んでもらうためにも、僕が辞めて痛い目を見せてやらないといけないようだ。
僕が辞めるのは”汚物”のためでもあるのだ!!(笑)

それにしても、これは良い流れだ!!
辞めやすい雰囲気ができてきた!!
人の心というものは非常に伝染しやすい。
正の感情も、負の感情も。
一生懸命も伝染すれば、倦怠感も伝染する。
“汚物”も、日々の業務をもっと必死にやっていれば従業員だってもっと頑張る者は居るはずなのに、のらりくらりと楽な方へ楽な方へ流されて行き、他人にばかり苦労をさせて自分はゆっくり休み、何か問題が起これば全て他人のせいにして改善しようともしない。
トップがこんなやる気の無い奴だと、従業員もやる気を出せるはずがない。
今回辞めた新人看護師も、そういう職場の雰囲気の悪さに加え、4月末で辞めた新人看護師の件で「他の人が辞めたんだから、私も…。」と思ってしまったのだろう。
そして今、2人も続けて辞めたこの雰囲気の中でなら、「辞める」という行為が通常よりも許容されやすい。
僕が弱気になり、「辞める」と言い出してもおかしくない状況なのだ。
(僥倖っ…!なんという僥倖…!)
天までもが僕の辞めるという決断を応援してくれている!!
(神様っ…!ありがとうございます…!!ありがとうございます…!!!)

ちなみに、後に残った最後の新人看護師は、以前僕が犠牲にしてしまった例の子だ。
彼女は自分も大変な状況の中、周囲にも気を配り、困っている人間を手助けできるという、この病院にはもったいないくらいの優しい子だ。
彼女には助けてもらった恩と売ってしまった借りがあることだし、あまり迷惑をかけたくないのだが、僕が辞めるとなったら彼女はどういう状況に置かれるのだろうか?
僕が居なくなれば、この病院の”汚物”以外の正社員は、ベテラン看護師1名、中堅看護師2名、新人看護師1名の計4名となる。
一見すると、個人の動物病院としては十分な従業員数に見えるし、獣医師が自分1人になれば、さすがの”汚物”も真面目に働かざるを得まい。
今までも実質獣医1人で診療をこなしてきたようなものだし、多少は忙しくなるだろうが、病院が立ち行かない状態ではないだろう。
だが、問題は病院が回せるか否かなどではなく、”汚物”の機嫌である。
(自業自得だが)従業員に立て続けに辞められ、(”汚物”の頭の中でのみの話だが)大切に育ててやっていた獣医師に裏切られ、(病院主としては当然の事だが)自身は忙しくなるのだ。
はたから見れば「身から出た錆」なのだが、そんな事を考慮できる”汚物”ではない。
機嫌が悪くなるに決まっている。
そこら中に当たり散らすに決まっている。
怒鳴りまくるに決まっている。
下手をすれば、そんな状態が新しい獣医師が来るまで続くかもしれないのだ。
しかも、診療における”汚物”との接触が各看護師とも圧倒的に増え、怒鳴られる機会も大幅に増加するだろう。
特に、新人は元々何かと標的になりやすいので、その精神的負担の増大ぶりは計り知れない。
そんな未曾有の大嵐の到来が約束されているところに、新人看護師をむざむざ置き去りにするのは心苦しい。
これで彼女がうつ病にでもなったら、僕も傷害に加担したも同然だ。
一番手っ取り早い対策としてはこの病院を辞めてもらう事なのだが、なかなか辞めにくいだろうし……。
と、ここで一計を思いつく。

(むしろ、従業員全員で一斉に辞める事を提案してはどうか?)

新人看護師にとっては、得られる以上に多くのものを失うこんな病院には早く見切りをつけてもらって、早いうちに新しい病院に移った方が傷は浅くて済むはずだ。
他の看護師たちも、いつも文句を言って辞めたがっていた事だし、良い機会になるのではないだろうか?
一斉に辞めれば、後に残る人の事を色々と心配せずに済むし、みんな一緒なら罪悪感も薄れるだろう。
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というやつだ。(良い子はマネしちゃダメだよ!!)
しかも、最近は動物病院が雨後の筍のように乱立しているので、ここより条件の良い病院はいくらでも見つかるだろうから、その後の職場探しも容易なはずだ。
また、僕が辞めれば、その後の病院がどんな状態になるかはこの病院に勤めている者なら誰でも簡単に想像できるだろうから、辞める決断の後押しとなるだろう。
さらに、全員同時に辞める事で、密告の可能性も減ずることができる。
なにより、“汚物”への復讐としても、これ以上の案はちょっと思い付かない。

(これだ!これしかない!!これで決まりだ!!!)

今から考えると、「辞めた方が良いに決まっている」という自分勝手な考えを人に押し付けようとするのは少々行き過ぎた感もあるし、「5月末で辞めてもらう」というのも話が急過ぎて難しい気もするが、この時は最高の妙案を思い付いた事で浮かれきっていたのだ。
ともかく、僕が5月末で辞める考えであることを伝え、全員で一緒に辞めようと提案をしてみる。
もちろん、いつものようにストレス発散で言っているだけと思われないように、真剣な雰囲気で、だ。
すると、いつもの軽めな調子なのが気になったが、ベテラン看護師が即座に「辞めよう!!辞めよう!!私も辞めるわ!!」と応じてくれ、続いて中堅看護師たちも賛同してくれた。
新人看護師も一応了承してはくれたのだが、今一つ乗り気ではない感じがちょっと気に掛かった。
何か思うところでもあるのだろうか?
確かに、彼女はまだ1か月しか働いていないので、仕事の事も”汚物”の事もよく分かってないだろうし、僕の事が信用できないのも無理はない。
僕の方も、彼女に勝手な理想像を押し付けて「優しい娘」などと思ってはいるが、彼女の事をそんなに詳しく知っているわけではないし、やはり、入ったばかりの職場を辞めるというのは抵抗を感じたりするのだろうとも思う。
まぁ、諸手を上げて賛同してくれなかったのは残念だが、思ったよりもすんなり提案を受け入れてもらえて良かった。
『やれるだけの事はやった。これで心置きなく辞められる…。』と思いきや、ベテラン看護師がやっぱりやってくれる。

数日後、ベテラン看護師が「やっぱり生活のこともあるし、急には辞められない。先生も、もうちょっと勤める事はできないか?」みたいなことを言ってきた。
やはり、僕みたいに心の準備をしていたならともかく、何の準備も無しに今月末でいきなり辞めてもらうというのは少々無理があったようだが、それならそれで、一度軽々しくOKを出して期待させないでほしかった。
それにしても、後半部分は聞き捨てならない。

(無理だ。もう無理だ。他の従業員が辞めなくても、僕1人でも辞める。それはもう変わらない。)

ベテラン看護師が辞めないという件はともかく、僕が診療を続ける事は丁重にお断りした。
この件が気に入らなければ、”汚物”にチクってもらっても構わないという覚悟で。
何故なら、「急には辞められない」と言っているが、今の状態が続く限り、この人はいつになっても辞められないだろう。
それは過去の「辞める」騒動の結末からも分かる事で、そんな辞める気の無い人に付き合って無駄に勤務を続ける事など真っ平御免だからだ。
それに、ベテラン看護師が賛同した時、やたら軽い感じでその場の流れに合わせた反射的な返答だったので、すぐに心変わりをする事など想定の範囲内である。
そして、御意見番のベテラン看護師が「辞めない」と言ったなら、中堅看護師たちも右へならえ。
新人看護師もやはり乗り気ではなかったらしく、申し訳なさそうに「まだ続けてみます。」と言っていた。
これも、最悪の展開として予想した通りだ。
(言ってもわからぬ馬鹿ばかり…。)
皆、何だかんだで文句を言いつつも今の職場が気に入っているようだ。
僕が居なくなった後の状態をちゃんと考えられているかはちょっと心配だが、辞める事を無理強いするわけにもいかない。
僕のせいで看護師たちに迷惑がかかるのは心苦しいが、もう僕が彼女たちにしてあげられる事は何もないのだ。
僕は最後まで無力だった…。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな…。

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