小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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そして、ついに最後の給料日を迎える。
診察はそれなりに忙しくはあったが、時間が空いた時は院内を見まわし、『もう明日からここに通う事はないんだ…。』と感慨にふける。
嫌な記憶ばかりが甦ってくる場所なのに、これでお別れとなるとやはり少し寂しい。
もっとも、もう”汚物”と会わなくて済む嬉しさの方が圧倒的に勝ってはいたのだが…。
診療も普段通りにしたつもりだが、見る人が見れば挙動不審で落ち着かない感じだったろう。
看護師たちの呪いの視線も何となく突き刺さってくる気がするが、そんなものは後ろめたさからくる僕の思い過ごしに違いない。
ベテラン看護師の「先生、今日は活き活きしてるね。」という言葉も、そこはかとなく恨み節に聞こえたりもするが、真意など気にせずに、素直に「そんなこと無いですよ(笑)。」と和やかにリアクションしておく。
この癖のある看護師たちともいよいよお別れだ。
『仕事上の付き合いで嫌々だっただろうけど、今日まで支えてくれて本当にありがとう。』と心の中でこっそりとお礼を言っておく。
そんなこんなで色んなものに心の中で一方的に別れを済ませつつも時間は経ち、午後の診察も終わり、手術も終わり、いよいよ給料の支払いが始まる。
先輩看護師たちが1人ずつ部屋に入り、給料を受け取って出てくる。
1人出入りする度に胸の鼓動がどんどん高鳴っていく。
まるでこれから告白しに行くかのような気分だ。
まぁ、実際、別の意味での「告白」をするわけだが…。
ベテラン看護師の番が終わり、中堅看護師の番が終わり、いよいよ僕の番になる。
体温も上昇し、呼吸も乱れ、頭も火照ってくる。
ちゃんと言いたい事が言えるかどうか心配だ。
部屋に入って”汚物”の前に行き、いつもの“有り難き御言葉(笑)”に耳を傾ける。
しかし、“汚物”が何かを喋っているのは分かるのだが、緊張が極限に達している僕の耳には自分の心臓の鼓動音と耳鳴りしか聞こえてこない。
僕の心はもう、今から言う予定の自分の言葉を覚えておくだけで精一杯なのだ。
そうこうするうちに話も終わり、給料袋を受け取る…。

そして! ついに! この時が来た!!
この地獄の1年間の、想いの全てをぶつける時だ!!
散々薄給で扱き使ってくれた事や奴隷扱いしてくれた事、そして何よりも過去にうつ病患者を出しているにもかかわらず、性懲りもなく怒鳴り続けてくれた恨みを全てぶちまけてやる!!
いざ尋常に勝負!!!

……と意気込んで挑んだものの、まともな勝負にならなかった…。
というのも、いざ”汚物”と対面すると頭が真っ白になり、『辞めます』と『すいません』以外の言葉が出てこなかったからだ。
「今日で辞めます。」と言った後、もちろん”汚物”は色々とギャーギャー喚いて暴れていたのだが、その様子もほとんど覚えていないので、紹介のしようもないし、つっこむ事もできない。
確か、ありきたりな「責任」とか「恩」とか「我慢」とか「契約期間」とかの言葉を言っていたと思うが、僕は「辞める」という断固たる決意を示すのに精一杯で聞いている余裕が無かった。
他にも言ってやりたい事はいっぱいあったのに、後は結局最後まで「すいません。」しか言えず、言われたい放題、やられたい放題のサンドバック状態だった…。
「今まで散々盛り上げてきといて、最後の最後でそりゃーねーだろー。」とお思いの皆さん…、それは僕のセリフです。
これまでの恨みを晴らすべく、最後に一花咲かせてやろうと、言いたい事を言い尽しての嵐のような口論をするつもりで挑んだのに、結果は無残なワンサイドゲーム。
しかもまさかの記憶喪失……、自分で自分が嫌になる…。
そういえば僕は、告白どころか日常会話でも気になる人が相手だと緊張して頭が真っ白になり、喋りたい内容と記憶が飛ぶ事がよくあるのだった。
気になる人との日常会話ですらそうなのに、この1年間、みっちり怒鳴られてトラウマを植え付けられた根源を相手にして、緊張もせずに冷静に口論などできるはずがなかったのだ。
一番肝心のクライマックスでとんだ大失態だ…。
所詮、言い訳ばかりであらゆる困難から逃げ続けた奴の人生なんてこんなものなのだろう…。
そういえば”汚物”のパニックフェイスも楽しむためにわざわざ直接対決にしたのに、それを観察するのもすっかり忘れていた。
こんな事なら、電話の方が冷静に言いたい事を言えていたかもしれない。
僕はつくづく正解の選択肢を選べない人間だ…。

その後、”汚物”は僕の決意が揺るがないと知るや、怒り心頭で部屋を出て行き、看護師たちに「辞める予兆が無かったかどうか」とか「無責任だと思わないか」とか聞いていた。
しかし、「予兆があった」と答えたら「何で知らせないんだ!?」と怒鳴られるのは分かっているし、「無責任だと思わない」と答えたら、これまた”汚物”が怒り狂うのは目に見えているので、看護師たちの答えは決まっている。
そんな予定調和な質問をして何が楽しいのだろうか?
ともかく、最終的には「もう知らん!!早く出ていけ!!二度と顔も見たくねぇ!!」と退職のお墨付きをいただいたので、荷物を素早くまとめて病院を後にした。
こうして、“汚物”との別れはあまりにもあっけなく終わった。
1年も一緒に(?)働いたのに、ちっとも名残惜しくないのが少し悲しかった…。

最後の帰り道、従業員駐車場で事前の打ち合わせ通りに看護師たちを待っていると、思っていたよりも早く看護師たちがやってくる。
”汚物”の怒りが意外に早く治まって解散できたようで、彼女たちにかける迷惑が少しでも減って安心した。
もっとも、それは明日からが真骨頂なのかもしれないが…。
まぁ、それはともかく、迷惑をかけたお詫びと1人ずつにお礼と感謝の言葉を伝え、看護師たちの車が帰っていくのを手を振って見送った。
そして…、誰も居なくなった。
ついに全てが終わったのだ…。
初めての勤務生活も…、地獄の苦しみも…、臨床の道も…、……僕の人生も。
全てが終わり、明日から新たに始まるのだ……、夢を見失い、目的も無く、空虚で、とても「生きている」とは言えない、ただ死んでいないだけの毎日が…。
新しい職場など決まっていない。
すぐに働けるわけがない。
しばらくは心と体の休養が必要なのだ。
しばらく休んで、それから先の事を考えようと思う…。
残りの人生はどうせ消化試合…、時間はたっぷりあるんだから。

まだ肌寒い晩春の夜…
辺りは静寂に包まれて…
見上げた夜空の星々は、ただただ静かに瞬いていた……


――― まだ終わりじゃないぞよ。もうちっとだけ続くんじゃ(笑)。 ―――

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