小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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そんな閉ざされた世界で、ただただ家畜の世話を毎日ひたすら続けているうちに、一つの疑問が湧いてきた。
『たった一度しかない自分の人生、本当にこれで良いのか?』
人生諦めたとはいえ、今の生活はあまりにも悲しすぎる…。
このままでは、生きた証も何も残らないのではないか?
静かに自分を見つめなおす時間ができた事で、改めて、今の道をこのまま進んで本当に後悔しないか不安になったのだ。
確かに、あと数年経てば、また別の部署に異動して仕事内容や環境も変わるだろう。
例えば、県庁に配属されて、都会暮らしで快適な生活が送れるかもしれないし、保健所や食肉検査所に配属されて、そこでとてもやりがいのある仕事に出会えるかもしれない。
しかし、そこも数年したらまた異動になり、定年退職するまで住所も職務内容もコロコロコロコロ変わり続けるのだ。
異動希望も出せる事は出せるのだが、それが考慮されるかは前述の通り…。
公務員獣医師には、地域に根差した人間関係を育てる事はできないし、「この道一筋」みたいな誇れる仕事や技術も身につかない。
蓄積されるものが何も無い労働人生なのだ。
なるほど…、これでは人気が出ないわけだ。

…というのは間違いで、実は採用された後で知った事だが、公務員獣医師で人気が無いのは異動による転勤や仕事内容の激変が多い都道府県の職員のみ。
ほとんど異動が無いか、異動してもたかが知れている都市部の市職員は、公務員獣医師でも人気が高いらしいのだ。
獣医職の公務員は、都道府県の他に、市町村でも募集している場合がある。
町村は規模が小さいために滅多に獣医枠の募集はしていないが、政令指定都市やそこそこ大きめの市なら結構募集しているのだ。
その仕事内容は市が所有している施設によって様々なようで、市役所での事務の他、食肉検査所や保健所、動物園や水族館などでの勤務もあるようだ。
異動があるか無いかも各市によって分かれるようだが、異動するとしても範囲は市内なので、住居は変えなくても済む場合が多いだろう。
しかも、都市部で便利な生活ができるとあれば、若者を中心に人気が出るのも無理はない。
さらに、人気の話でいえば、「都道府県の職員は人気が無い」とひとまとめにして書いたが、実はその中でも格差があるようだ。
北海道や鹿児島などの畜産が盛んな県は獣医師が重宝され、やりがいがある仕事も多いようでそこそこ人気があるようなのだ。
まぁ、人気があるといっても定員割れはしばしばのようだが、人が来るだけまだマシという事だ。
また、東京や大阪、福岡などの大都市圏の都府県では、獣医師の需要は少ないので扱いが悪いが、便利な都会で暮らせる、あるいは大都会が近いという事でやはり人気が少し高めなようだ。
となれば、残りの「畜産が盛んでもないし大都市が近くもない良いとこ無しの県」が特に不人気な県という事になる……、そう、僕の地元も含めて、だ。
そういった県に就職したが最期、退職するまで扱いが悪い上に不便な町村を転々とする労働人生を歩む事になるのだ…。

なお、人気の有り無しは採用試験時の受験資格年齢や募集人数でだいたい推測できるが、僕が見た中で一番すごかった所は、なんと55歳までの獣医師を募集していた!!
よっぽど獣医師が来ないのだろうが、まぁ…、ただの田舎じゃあしょうがないよね…。
そんな悲惨な人材不足も、獣医師の待遇をもうちょっと良くすれば少しはマシになるかもしれないが、“偉い人”たちには「獣医の仕事など事務職と同じで誰にでもできる」と思われているようで、いつまで経っても事務職と同じ給与体系のままだ。
所詮、世間一般に認識されている獣医師の重要度などその程度である。
ちなみに、国家公務員の獣医師は、?種なら幹部候補で厚生労働省や農林水産省の省庁及び地方機関での勤務、?種なら各都道府県で検疫や事務が主な業務だそうで、ひたすら全国各地を飛び回るらしい。
それが良いか悪いかは人それぞれだ。

ともかく、そんな悲惨な境遇の不人気県の県職員を選んだ僕はまたしても最悪の選択をしてしまったわけだ。
自分の思慮浅さにはホトホト愛想が尽きた…。
だが、運命はまだ僕を見放してはいない。
不人気県がある限り、場所さえ選ばなければ、僕はいつでも公務員になれるのだ。
ということは、もっと自分に合った仕事を探して、公務員以外の仕事をやってみるのもいいかもしれない。
いや、むしろ、コロコロ転職できるのはまだ独身で若い今だけだし、今しかできない他の仕事もやってみるべきだ!!
そんな衝動に駆られた僕は…、お察しの通り、退職した。

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