小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 ≪第一部 嘘吐き少女≫



 ――ねぇ、『時間屋』って知ってる?

 天気がいい。アスファルトの強い照り返しの中、単調に足を動かす。まるで青色のペンキで一面を塗り潰したかのような夏の空には、白い太陽が鬱陶しいくらいに輝いていた。……天気がいい。気だるさを詰め込んで吐き出した溜息も、ユラユラと昇る陽炎に消えてゆく。

 退屈だった。最近何もかもが。女子は皆、教室の隅に固まって、誰が好きだとか、誰が嫌いだとかのタチの悪い会話を繰り返し、男子は皆、廊下で運動会を開催したり、じゃれているのか喧嘩しているのか分からない乱闘を繰り広げていたり。……あぁそういえば昨日は本箱を蹴破って、見事な顔出し看板に昇華させた男子がいたな。ギャグセンスは認めるが常識の範囲に止めてほしいと思う。

 本当に誰も彼もがくだらない事に時間を費やして、無駄に時間を過ごしてゆく。過ぎ去った時間は二度と戻らないのに。そうやって後悔に後悔を重ねて人生を歩んでゆく。私はそんなくだらない人間にはなりたくない。そんなつまらない人生は歩みたくない。自身のやるべき事――勉強なり習い事なり――をしっかりこなしていれば、母だった女のように、色んな所に男をつくって、あげく一人娘と旦那を置き去りにふらりと居なくなる馬鹿にはならないし、父のように、好き勝手していた母に文句さえも言えない、交通事故に遭って大怪我をしても、相手を咎める事すらできない軟弱な阿呆にもならない。

 ただ真面目に、真っすぐに生きてゆけば良いはずなんだ。もし私の家族も皆、きちんとした生き方をしてきていたならば。まともな人間に育っていたならば。明るい夏の空に期待感を覚えるクラスメートのように、私も何も考えずに毎日を楽しく過ごせていたのかもしれない。

 ……まぁそんな事、言ってもどうにもならないのだけれど。
過去に戻って全てをやり直せるような技術を、人類が持っていれば話は別だったりするのだろうが、それもまた子供の様な絵空事で。本当に、何もかもが退屈なんだな、私。改めてそう、思った。

 信号が赤に変わって立ち止まる。『過去に戻って』、その言葉で思い出した。今日女子達が話していた、途方の無い噂話。あれも確か、そんな様な内容だったか……



 「ねぇ、『時間屋』って知ってる?」

あー、それ知ってるー!と情報通女子が声を上げ、何それー?と好奇心女子が身を乗り出す。そんな事を話している暇があるなら、次の単語テストに備えたらどうだ。何より、勉強をしている私の後ろで、騒音を奏でないでほしい。

「なんかー、タイムスリップ出来るとかって聞いたけどー?」
「何それ、ガセじゃない?」
「ホントなんだって! 友達からメール来てー……」
「マジ?」
「ほらこれー」

携帯を取り出した一人の女子を、ぐるりと取り囲んで井戸端会議。
確か中学校に携帯の持ち込みは禁止だった気がするが、こんな連中には関わらないのが賢明だ。決して私が優等生ぶっているのでは無い。くだらないのはあちらの方だから。

「あたしもっと知ってるよ〜」

ほんわりとした声を発したのは美人女子の中でも群を抜いて可愛らしい顔をした子。ふわふわしたイメージで、騙される男子が後を絶たないが、その実、ただ他の女子に嫌われない様、媚を売る可哀相としか言いようの無い子。

「大人の男の人で、イケメンらしいんだ〜」
「うそぉ!」
「茶髪で、黒いおっきなヘッドホンしててー」
「へぇー」
「銀色の懐中時計を首からかけてるって」
「あはは、それっぽいねー」
「やば、超会ってみたい!」

どう考えても作り話では? ……もう一度言おう、どう考えても作り話では? 話を聞いている限り、誰がどう見ても、噂好きの女子にウケるように、漫画やアニメが好きな人間が考え出した作り話だろう。話していて馬鹿らしいとは思わないのか。やっていられない。単語を復習するだけなら、廊下でも出来る。音を立てずに席を立った私を、一人の女子――例の、ほんわりの子だ――がちらりと見た。

「呼ばれれば行くらしいから、もしかしたら会えるかもね〜」
「えぇー?」
「ホントにイケメンなのかな?」
「さぁー?」
「てか、ゆいぴょん何でそんなに知ってんの?」
「さぁー?」

どこまでもくだらない女子の喧騒を背に、私は教室を後にした。



 何台もの車が目の前を通り過ぎてゆく。じりじりと照りつける太陽の暑さも忘れて、どうしようも無い事を思い出したと、大きなため息をつく。
何も考えずに、だらだらと駄弁る女子に、こんな私の気持ちが、分かるはずもない。分からなくていい。浮ついた作り話を面白半分で噂して、もしも本当に『時間屋』なる者が居るのならば、こんなにも私は苦労しないのに。こんなにも私は、無機質でつまらない人間にはならなかったのに。あの噂話が本当だと言うのなら、私の人生をやり直させるくらい、訳無いだろう? 私の親の人生をやり直させるくらい、訳無いだろう? 居るなら出てきてみろ『時間屋』!

 「信号、青に変わってるよ」
「あぁどうも……」

夏に似合わない涼しげな声に、半分思考の迷宮に居ながら曖昧に返事をして足を踏み出す。
青信号に変わった事にすら気が付かないなんて、私はそんなにも『時間屋』の事に気を取られていたのか、恥ずかしい。

「中学生なのに色々悩み事あるって、大変だね」
「まぁ色々思う事はありますけど、別にあなたが気にするような事では……え?」

渡り切った所で慌てて振り返る。初対面の人間に、何を私は軽々しく心の内を吐露しているんだ!

「それにしてもイマドキの子供達ってさ、考える事が複雑だよね。俺なんか一瞬一瞬の事しか考えないのにー。あ、君誰?」
「あなたが誰ですか」

ペラペラと隣で喋る茶髪の男に、白けた視線を寄こして差し上げる。いや、最初に話しかけてきた彼に、不覚にも応じてしまった私にも、おそらく非はあるのだけれど。

「誰でしょう?」

両手を広げて、彼は肩を竦める。私渾身の冷たい眼差しに全く動じないとは、かなりのツワモノだ。尊敬する。あ、勿論褒めている訳では無い。

「あなたなんか知りません。しつこいようでしたら警察を呼びます」
「えぇ! それは困るんだけど」
「間違いなくあなたより私が困っています。ではさようなら」

強引に彼の横をすり抜けて早足で歩き出す。家に帰ったら念の為、父に不審者に絡まれたと伝えておこうか。

「え、ちょっ」

やっぱりやめておこう。あの人なんかに話したって、どうせ何にもならないし、口を利く事すら嫌だと感じる。

「冷たいなぁ、君が呼んだんでしょーが」

ぐいっと腕を掴まれた。思いのほか力が強くて振り切れなさそうだ。うんざりとした顔で今度は敵意を剥き出しにして彼を睨む。

「そういう頭の悪い口説き文句は暇な人に言ってあげて下さい」
「あのね……?」

はあぁ、と盛大な溜息をつかれた。私は悪くない。

「俺にそーゆーつもりは無いんだよね。むしろ君が呼んだから来たんだけど……」

何で俺不審者扱いされてんのかなーと心底不思議そうだ。この人、頭大丈夫だろうか。

「呼んだって、どういう事ですか」
「あ、やっと警戒解いた」
「解いてません」
「即答かよ……」

いじけた子供の様に唇を尖らせて、首に掛けたヘッドホンをいじりだす。何でもいいから早く解放してくれないだろうか。というか、こんな暑い日にそんな黒くてゴツイ物を、首に掛けていられるのが凄い。

「どういう事ですかって聞かれても、俺が逆に君が俺を呼んだ理由を知りたいんだけど?」
「は?」
「だから、」
「あなたなんか知りませんって言ってるじゃないですか」
「遮るなよ! ……俺も君を知らない。でも、呼ばれたのは分かった」
「意味分かんないです」
「よく言われるー。俺の商売自体、よく分かんないモンだから無理も無いんだけど」
「商売?」
「そ。これ売ってる」

そう言って彼が指差したのは胸元に光る、銀色の懐中時計。時間が違うような気がするが、それはいい。

「時計屋さん、ですか?」
「いやいや」

顔の前で手を振る彼。そんな彼を見ていたら、こう、何かがチカッと頭の中で光った。なんとなく、違和感を覚える。デジャヴの様な、けれどそれもまた違うような、こう……。銀色の懐中時計が白い太陽の光を反射した。眩しさに思わず顔をしかめる。ん?懐中時計?視線をゆっくりと持ち上げる。彼の首には黒い大きなヘッドホン。また視線を持ち上げる。きょとんとした彼の顔。その髪の毛の色は、茶色。

「あーっ!」

蒸し暑い空気を切り裂いたのは私の声。まさか、まさか本当に居たとは!



「『時間屋』……!」



彼はにこりと、人懐っこい笑みを浮かべて頷いた。

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