小説『エルゥと天使と銀の龍』
作者:間野茶路()

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一 墜ちてきた龍 1

 パラパラパラ…と小気味良い音が、遠くの空から聞こえてきた。
 海の村の少女エルゥは、砂浜で大人達とともに、早朝に収穫した魚を干す手伝いをしていたのだが、いち早くその音に気がつき、音のする南の空を見上げた。
 遠くに黒い点が見えるが、まだその形ははっきりしない。
 だが、エルゥにはその音だけで、影の正体が解った。
 「ティム爺だ!」
 エルゥの声に、その場に居た大人たちも作業の手を止め、彼女の視線の先を追った。
 ティム爺とは、島の北にそびえるアレボ山に住む老人である。彼は遥か北西のデュバル国の産まれで、若い頃から各地を旅する冒険家なのだが、いつしかこの島に落ち着き、八十歳を超えた今でも、プロペラが五つもついたジャイロと呼ばれる自慢の飛行機で、フラリと気ままな旅に出掛けるのである。
 「戻ってきたんだ!カダ、行っても良い?」
 「仕事が終ったらな」
 「ちぇ…」
 作業は今始まったばかりで、まだまだ相当かかりそうだ。
 エルゥは唇をつんと尖らせ、仕方なく腰を降ろした。
 大人の男たちの中に十二歳のエルゥが混ざるようになったのは、父親が海で事故死した二年前からである。 身体の弱い母や幼い妹の代わりに、長女の自分が働こうと、自分から言い出したのだ。
 元々快活で男勝りなエルゥは、素潜りもその辺の大人に負けないぐらい大得意で、本当は父のように船に乗って漁に出たかったのだが、当時十歳だったエルゥは、まだ小さいからと、主に船の手入れや、魚の数を数えたり開いた魚を干したりする仕事をしていた。そして十二歳になった最近、ようやく魚を開く仕事を任されるようになり、網にかかった魚と格闘する毎日なのである。
 「手早く開かないと、手の温もりで魚がマズくなっちまうぞ」
 手慣れた男たちが、笑いながらそう冷やかした。
 「分かってるよ」
 エルゥは、口元をつんと尖らせながらそう言った。

 ここはビオラ島。
 本国グリンモアから、北に約千カンス離れた海の上に浮かぶ小さな島で、本国からは訪れる人も滅多に無く、島には約四百人の人間が、のどかで平和な日々を送っていた。
 島には三つの村があった。
 一つは海の近くに集落を作り、男たちが漁で魚を捕り、女たちが海水を利用して塩を作る海の村。一つは農作物を育て、家畜を飼う谷の村。そしてあと一つは、獣を狩ったり木の実を収穫する山の村である。
 三つの村は週に一度、それぞれの収穫物を谷の村へ持ちより、一定のルールに従って物々交換をしながら、それぞれに親睦を深めていた。
 そして今日がちょうど交換日。
 この後大人たちは、捕れたての新鮮な魚と三日前に干した魚、それに袋一杯の塩を荷車に積み、谷の村へ行くことになっている。

 パラパラパラと、音が大きくなってきた。
 ティム爺のジャイロが、海岸で作業をしているエルゥたちの遥か頭上に迫っている。
 「ティム爺さーん!」
 思わずエルゥは立ち上がり、両手を大きく振った。だがジャイロは、そのまま山の方へ飛び去って行った。
 「あの音じゃあ、中はうるさくて何も聞こえないさ」
 残念そうなエルゥに、隣のべサが魚を干しながら言った。さらにその隣のバスが、笑いながら言った。
 「音が静かでも、ティム爺はあの歳だから、耳が遠くなってるんじゃないのか?」
 「ははは!それもそうだな」
 陽気に盛り上がる大人たちをよそに、エルゥは無言で再び座り込み、魚を開き始めた。早く作業を終わらせて、ティム爺の所へ行きたかったのだ。
 「貸せ」
 べサはエルゥの傍らに腰を降ろすと、エルゥのナイフを取り、魚を手早く開き始めた。
 「お前の手には、このナイフでは大きすぎるな。だからやりにくくて、要領が掴めんのだ」
 「そうかなあ?」
 器用なべサの手元を眺めながら、エルゥは内心、そうかもしれないと思った。父が残したナイフは大人用で、十二歳のエルゥの手には少々余るのである。
 「なあ、カダ。もう少し小さいのをしつらえてやれよ」
 漁のリーダーであるカダは、「うーむ…」と小さく唸った後に言った。
 「今はその大きさしかない。新しく作るとなると、山から黒亀石を採ってこないとな」
 黒亀石は島で一番大きなアレボ山で採掘される鉱石で、名前の通り真っ黒で硬く、ナイフ作りには最適の材料である。
 「今日の交換会で、山の村の奴らが持ってきてると良いな」
 べサがそう言うと、エルゥは「うん」と、微笑み返した。
 「私も今日、谷の村まで行って良い?」
 「谷を通り越して、山に行くのだろう?」
 カダは悪戯っぽい微笑みでそう言った。どうやら、谷の村の交換会よりも、山の村に帰ったティム爺が気になっていると、彼には見透かされているらしい。
 「良いでしょ?だって一ヶ月ぶりなんだもん」
 「ああ。ティム爺に魚を持っていってやれ」
 「うん!」
 それから半時ばかり魚と格闘した後、ようやくエルゥは、ティム爺の住む山の村を目指すことができた。

 「お帰り!ティム爺!」
 山の村の広場には、ティム爺のジャイロが停まっており、その前に座るティム爺の周りには、すでに谷の村と山の村の子どもたちが集まっている。
 「遅かったな。もうメイバスの街の話は終わっちゃったよ」
 慌てて駆け寄ったエルゥに、谷の村の少年イファがそう声をかけた。エルゥは少しムッとしながら、
 「仕方ないじゃん。一番下から登ってきたんだもん」
 と返した。
 実はエルゥは、このイファが少々苦手だった。
 イファの方が一つ歳上ということもあってか、いつも自分は子ども扱いをされているのである。それに昔はよく、他の子どもたちと一緒にイファも泥だらけになって遊んでいたのだが、ここ数年前から、イファはあまり危険な遊びや下らない遊びには参加しなくなった。それは、イファの家が代々『伝承師』と言う血筋で、そのための勉強をしなければならなくなったからなのだが、そのせいでなおさら色々知識を身につけて、先に大人になっていくイファに、エルゥはどこかで距離を感じていたのである。
見た目にも、小麦色の肌に栗色の短い髪、手足も日々たくましくなっていくエルゥに、色白細身で、大陸の人間である母と同じ淡い髪の色のイファ。並んでいると、まるで神様がうっかり、二人の性別を取り違えてしまったようである。
 「エルゥか。元気そうじゃな」
 ティム爺は、細い眼をさらに細めた。まん丸の大きな眼鏡を掛け、頭に毛は一本も無く、代わりに白い立派な髭が、あごの下に伸びているのが印象的だ。
 「魚、家に置いてるから食べてね」
 「おお。それはいつもすまんな。街の話を聞きたいか?」
 「うん!もちろんだよ!」
 「えー!」
 他の子どもから一斉に不満の声があがった。
 「他の話をしてよ!」
 「エルゥは遅れてきたんだから、後でもいいじゃん!」
 「まあまあ、そう言わずに…」
 子どもたちをなだめようとしたティム爺だったが、イファが冷静に言った。
 「他の話を聞きたい者が八人、街の話を聞きたい者は一人。つまり八人が同じ話を我慢して聞くよりも、その一人が我慢をしたほうが良いということだよ」
 「しかしなあ、イファ。それではエルゥが…」
 「エルゥは、後で一人で街の話を聞けば良いのさ。理解できるだろ?エルゥ」
 エルゥは無言で肯いた。そんな言われ方をされれば、何も言い返すことができないのである。
 「仕方ないのう、では…」
 ティム爺がジャイロの前に座り直したので、子どもたちも、きちんと行儀良くティム爺の前に座った。イファが少し諭すような瞳をエルゥに送りながら座ったので、エルゥはふんっとわざと顔をそむけて、自分もその隣に腰を降ろした。
 「そうじゃな、ではトロヤ島の話でもしようかの」
 子どもたちの眼がキラリと輝いた。
 ティム爺は、白い口髭を動かしながら語り始めた。
 「トロヤ島はここから南東の位置に浮かぶ、とても小さな無人島じゃ。本当の名前は知らんが、空から見た形がトロヤ豆に似ておるから、わしが勝手にそう呼んでおるだけなのじゃよ。島には高い山もなく、なだらかな丘や海辺は、鳥やトカゲなど、動物たちの楽園となっておった。わしはジャイロで丘の真中に降り立った。動物たちは音に驚いて、一斉に逃げてしまったが、そのうち戻ってくるじゃろうと思い、わしはジャイロから降りて、島の中を歩いてみることにしたのじゃ。しばらく行くと、森があった。何と、ルダーの木の森じゃ!これがどう言うことか解るかの?」
 子どもたちは首を左右に振った。もちろんエルゥも、何のことだかさっぱり解らなかった。
 「どうじゃイファ」
 一人だけ首を振らなかったイファにティム爺が眼を向けると、イファは頷きながら答えた。
 「シーグルが棲んでいるかもしれない」
 「そうじゃ。ルダーの森には、あの獰猛なシーグルが棲んでおるかもしれんのじゃ!わしは震えあがった。この辺りの動物の中で、シーグルは最も脚が速く、跳躍力もあり、見つかれば、わしなんかまず間違い無く逃れられん。そして捕まれば最期、あの口元から下に二本鋭く伸びている長い牙で、一噛みじゃ!これはいかん、早くジャイロに戻ろうとわしが思ったその時じゃ!」
 「あれ…」
 不意にエルゥが、天の一点を見つめて立ち上がった。
 「何じゃな、エルゥ」
 ティム爺も話を止め、その方向に眼をやった。
 せっかく盛り上がっていた話が中断されたので、他の子どもたちは少々不満そうな顔つきになったが、やはり気になるその方を座ったまま見上げた。
 「エルゥ!話の途中で失礼だぞ」
 「でも何か空から落ちてくる」
 「何だって…」
 イファも立ち上がり、エルゥに並んでそれを確認した。
 「あれは龍だ!」
 「えー!こんなところに龍がいるなんて、聞いたことがないよ」
 「鳥じゃないのー?」
 「誰かのジャイロが墜落したのかも!」
 子どもたちは口々に騒ぎ始めた。
 彼らの言う通り、この辺りに龍が棲んでいる訳は無い。龍は高い山脈の中の洞窟や、人の踏み込まない森の湖など、自然が厳しく、容易に人間が近づけない場所に棲んでいるものである。こんな海のド真中の上空を飛ぶことなど、イファの家に伝わる書物の中にも書いていないのだ。
 「しかしあれは龍のようじゃ。あのままでは海に墜ちるじゃろう。下がりなさい」
 ティム爺はそう言いながら、老人とは思えない身軽な動きで、ヒラリとジャイロに飛び乗った。
 プロペラが回り始めると、大きな音と共に周囲の砂が風に巻き上げられ、子どもたちは慌ててジャイロから離れた。
 ゆらゆらと少し不安定にジャイロが浮き上がる。
 その瞬間、エルゥは地面を蹴り、ジャイロの翼を踏み台に飛び乗って、操縦席の後ろの座席に滑り込んだ。
 「エルゥ!」
 「二人乗りでしょ?早く!龍が墜ちちゃう!」
 「うむ。しっかり乗っておれ!」
 他の子どもが何か口々に言っているようだが、中はプロペラの音以外、あまりよく聞こえなかった。ジャイロは吸い込まれるように上空へと浮き上がり、見る間に海の方向へ飛び去った。
 「うわあ!気持ち良い!」
 エルゥは思わずそう叫んだ。
 風がビュンビュンと顔を通り過ぎ、不思議な浮遊感が身体に心地好い。
 前の操縦席で、ティム爺は髭を大きく動かしながら笑った。
 「ほっほっほっ!さすがエルゥじゃのう!怖くは無いのか?」
 「全然!海とは違うけど、でも凄く気持ち良い!今度冒険に連れて行ってよ!」
 「おう!良いとも!こりゃ頼もしいパートナーになりそうじゃ!」
 ティム爺は、細い目をさらに細めた。

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