五 エラドール 1
翌日、エルゥたちはまだ朝もやの残る街中を後にした。
向かう先は、賢者エバールが住むという北のガラクシアス山脈である。
セイドによると、エバールは山の一番高い所に庵を構えているらしい。
山道は初めはなだらかだったが、次第に険しくなってきた。それに徐々に気温も下がってきている。
初めは要らないかなと思っていた上着も、今はとてもありがたいとエルゥは感じた。
やがて細く続いていた獣道も無くなり、ただ鬱そうと茂る木々やゴツゴツした岩場を苦労して乗り越え、それでもなお、山頂へはなかなかたどり着けなかった。
さすがに歳の割には達者が自慢のティム爺も、元気が取り柄のエルゥでさえも少々厳しく感じられ、本ばかりを読んでいたイファなどは、口には出さないものの、かなり堪えている様子である。
そんな中、鍛え上げた戦士のガライだけはとても元気で、全員の荷物を一手に引き受けてくれたばかりか、登りにくい岩場や大きな木の根っこなどの障害物に差し掛かると、逞しい腕でエルゥやイファはもちろん、遠慮するティム爺さえもヒョイッと抱き上げて、障害物の向こうへ運んでくれた。
登れば登るほど、目に見えてペースは落ちていき、気がつけば辺りは真っ暗になってしまったので、仕方なくエルゥたちは適当な場所で野営をすることにした。
本来なら火を熾して暖をとりたいところだが、この季節の山は乾燥しているので山火事になる危険があるというティム爺の意見に、ランプを一つ灯して一夜を明かすことにした。
「何だってエバールはこんな大変なところに住んでいるのかなあ」
食事の果実をかじりながら、思わずエルゥはそう言った。
「恐らく修行のためじゃろう。賢者は自分に色々試練を課して、精神や身体を鍛えるもんじゃからのう」
「鍛えてどうするの?」
今度はイファが訊いた。
「修行で身につけた知識や特別な能力を、人々の役に立てるのじゃよ」
「それじゃあアルノワ人みたいだね」
「そうじゃな。アルノワ人が具体的にどうなのかは今一つよく解らんが、似たようなモンかもしれんな」
三人が賢者について語り合っている時である。
静かに話を聴いていたガライが、険しい表情で立ち上がった。
「どうしたの?ガライ」
「来た」
「えー!ヤだぁ!」
エルゥたちも立ち上がり、ガライの見つめる方向を見上げた。
月が浮かぶ満天の星空に、白い影が二つ、こちらに向かってきている。
ガライは弓を構えた。
「殺さないでね」
エルゥの言葉に、ガライは弓を構えたまま応えた。
「翼を狙う。墜とすだけだ」
弓の腕には自信があると言っていたガライだが、エルゥは少々不安だった。
もしも外れて身体に当たれば、あの高さから墜落して、大怪我をしてしまうだろう。
と言って弓が外れ、ここに襲ってきても、とても困る。
できることなら、アルノワ人たちの気が変わって、どこかへ行ってくれないかなぁとエルゥは心の中で一所懸命祈った。
するとどうだろう。
白い影は、不意に方向を変えて、飛び去って行ったのである。
「行ったか。助かったのう」
「ねぇ聞いて!私どこか行ってって祈ったんだよ!通じたみたい!」
「偶然だろ」
喜ぶエルゥにイファはそう釘を刺した。
「もう。また嫌な言い方!」
エルゥはぷいっと顔を背けた。
「それにしても、こっちに気がついておったような風なのに、どうしたのじゃろう」
「気がついていなかったんだよ。あまり力の無い人たちだったんじゃない?私に付いた龍の臭いが判らなかったんだよ」
エルゥの言葉を聴きながら、イファは別のことを考えていた。
(エルゥの臭いよりも、もっと強い臭いを感じたんじゃないかな…)
と。
(きっとそっちに本物の龍がいるんだ。それしか考えられない)
そう思ったが、それは口にはしなかった。
エルゥは、あの龍のことをとても気にかけているので、そんなことを言えば心配するだろうとイファは思ったのだ。
「明日に備えて、今日はもう眠った方が良いじゃろう」
「俺は見張りをする。俺は、三日は寝なくても大丈夫だ」
「では任せても良いかのう」
「任せろ。天使でも野獣でも、追い払ってやる」
「ありがとう!」
力強いガライの言葉に、エルゥたちはとても頼もしく想った。
お陰でその夜は少し寒かったが、安心して眠ることができ、翌日は日の出と共に目を覚ました。
簡単な朝食を済ませた後、再び頂上を目指して少し肌寒い山道を登り始めた。
昨日の疲れもまだ残ったままだったが、それでも一歩一歩、何とか足を進めていくうちに、太陽が真上に昇る頃には、とても見晴らしの良い頂上付近に辿り着いた。
そこは木々が途切れ、岩場が続く殺風景な場所である。
「ここが頂上?何も無いよ」
「人なんか住んでいる気配が無いね」
エルゥとイファが、不安そうに辺りを見渡してそう言った。
「ここでは無いのかのう。ガラクシアス山脈というからには、もしかしたらもっと向こうの方に見えるあの辺りまで行かねばならんのかのう」
山は脈々と続いているが、どう見てもここが一番高そうである。しかし、そう見えるだけで、向こうの頂上の方がここよりも高いのかもしれない。
四人が少し戸惑っていると、背後から声がした。
「よく来てくれた。私はここだ」
振り返るとそこには、一人の男が立っていた。
見かけは五十歳ぐらいで、がっしりとした体格に深い緑色の長いローブをまとい、赤毛に赤い口ひげが印象的である。
「あんたはエバールさんかね」
「そうだ。私を訪ねて来てくれたのだろう?ここでは寛げんから、ついてきてくれ」
エバールはエルゥたちの返事も聞かないうちに、さっさと先に立って歩き始めた。
エルゥたちは顔を見合わせた後、素直に後に従った。
「ねぇ、私たちが来るの解ってたの?」
エルゥが広いその背中に問いかけると、彼は前を向いたまま「ああ」と答えた。
「水晶に、山に入る君たちが映った。耳を澄ませば君たちの声が聞こえ、私の話をしているのが解った」
「凄い!そんなに大きな声じゃなかったのに、聞こえたの?」
「耳で聞いたのではない。心で聞いた」
「心で?どうやって聞くの?」
「修行をすれば聞こえるようになる」
「ふうん。凄いなあ」
エルゥが感心していると、エバールは不意に足を止めた。
「ここを降りる。足元に気をつけてくれ」
エバールが示したのは、すこし崖になったところで、すり鉢状の底の部分に家らしい物が建っている。木の階段はあるがとても急斜面なので、エルゥたちは慎重にそこを降りて行った。
何とか家に辿り着くと、それは上から見たよりもかなり立派な木の建物で、エバールは大きな扉を開けてエルゥたちを中に招き入れた。
中はとても広い部屋が一つあるだけだったが、壁際の本棚や料理を創る台、眠るための寝台や、床のふかふかの絨毯など、とても居心地が良さそうである。
「何も無いが、身体を休めてくれ。暖かいスープを作っておいたが、どうだね」
「かたじけない。遠慮なくいただくよ」
ティム爺がそう言ったので、エルゥたちも素直にそれをご馳走になることにした。
絨毯の上に座り、良い匂いのする野菜スープを受け取る。それはとても美味しくて、今までの疲れが、一瞬に消えてしまうほどだった。
「それで、こんな山の上まで私を訪ね来た理由を、教えてもらえないだろうか」
「聴いて下さるか」
ティム爺が今までの出来事を語り始めた。
空から墜ちてきた龍のこと。
それを助けたエルゥのこと。
そのため、エルゥがどういう状況になってしまったのか。
そしてこれから自分たちは、何をしなければならないのかを。
「なるほど。まさかそんな事情とは…」
エバールは秀麗な目元を少し曇らせ、何度も頷きながらその話を聴いていた。
「それで、エラドールへの道を、おまえさんなら知っておると聞いたのじゃが、どうじゃな」
「知っている」
「どこじゃ?どう行けば良いのじゃ?」
「ここだ」
「え…?」
エルゥたちは目を丸くした。