一 墜ちてきた龍 3
海岸から少し小高い平地に、海の村の集落がある。
その一角の、木を組んで作られた小さな家の中で、妹と草の寝台で眠っていたエルゥは、妙な胸騒ぎを感じて眼を開けた。
まるで、嵐が近づくことを現す雲を見つけたような気持ちである。
母と妹がよく眠っている事を確認し、エルゥは静かに家を抜け出した。
(何だろう。この不安…。…違う…不安だけじゃない。何か予感がする。まさか…)
感じるまま、海岸へと走る。
夜の海は、いつもと変わりなく静かに息をしていた。
耳慣れた波音。
冷たい空気。
月のしずく。
他に何も無い。
だが、エルゥはその気配をはっきり感じた。
「…まさか…。居るの?おまえ…」
次の瞬間、波が勢い良く立ち上がり、その中に昼間の美しい龍の姿が浮かび上がった。
「やっぱり居たんだ!」
龍が散らせる水飛沫を浴びながら、エルゥは龍に駆け寄った。龍は長い首をしなやかに折り曲げ、エルゥに鼻先を近づけてきた。
「もしかして私を呼んだ?」
大きな頭を摺り寄せる龍は、まるで馴れた山猫のように人懐っこい。
エルゥは自分も龍に頬を寄せた。
「どこから来たの?どうして墜ちてきたの?おまえ、話が出来たら良いのに…」
すると突然、龍の身体から激しく蒸気が上がり始めた。
「どうしたの?お前!大丈夫?」
やがてその蒸気は眼も開けられない程激しくなり、エルゥは思わず顔を背けた。
どのぐらいそれが続いたのか、エルゥには判らなかった。
ふと、気配が消えたのを感じたエルゥは、ゆっくりそちらに顔を向けた。
「!」
息を呑む。
そこに龍の姿は無く、一人の男性が立っていた。
「父さん…?」
それは間違いなく、二年程前に海で死んだ父親だった。
「父さん!」
思わずエルゥは抱きついた。
「ありがとう」
エルゥを優しく抱きしめた父は、落ち着いた声でそう言った。
「…え?」
何かしらの違和感を覚え、エルゥは父を見上げた。
微笑んでいる父。それは、記憶に残っている懐かしい父の姿に間違いない。
だが、何かが違う。
何が…違うのだろう。
その答は、父の次の言葉ですぐに解かった。
「あの時、私を助けようとして、一所懸命呼びかけてくれたね。だから私は意識を戻して、命を取り留めたんだ」
(あの時?…まさか…)
「まさかさっきの銀の龍…」
「そうだ。私は君の記憶の中で、一番会いたいと思っている人の姿を借りた」
「そっか…」
(そうだよね。冷静に考えたら、それしか無いよね…。眼の前に居た龍が消えて、死んだ父さんが現れたんだ。龍が父さんになったんだ…)
父の姿に、一瞬我を忘れたエルゥだったが、ようやく理解することが出来た。少し寂しい気もするが、死んだ父が生き還るはずも無い。エルゥはそう納得しながら、父の姿となった龍から少し離れた。
「すまない。この姿は君を哀しませてしまったようだ」
「私の心が解かるの?」
龍は父の姿で頷いた。
「伝わってくる。君が…哀しんでいる」
「いいよ。大丈夫」
エルゥは明るく笑った。
「それより驚いた!人間に変身できるなんて!そんなの聞いた事がないもの!…って他の龍の事もあまりよく知らないんだけどね」
「私も他の龍のことはよく知らない」
「へぇ、そうなんだ。それで…どこから来たの?どうしてここに墜ちてきたの?なんて名前なの?」
「私は…」
彼は眉間に深い皺を寄せながら答えた。
「名前は…無い。アルノワ達は私のことを、レスパと呼んでいた」
「アルノワ?」
「私を倒そうとしている人間達のことだ。レスパとは彼らの言葉で、『災い』という意味らしい」
「災い…?それで倒そうとする人間が居る…ということなの?」
「そうらしい」
「そうらしいって、はっきりしないんだね」
「私にはよく解からない。ただ、気がついたら、私は倒されようとしていた。だから逃げた。必死に逃げて…、たくさん傷を負って意識を無くした。そして、海の中で優しい声を聞いて、眼が醒めた。本当はそのまま沈んでしまっても良いと、頭のどこかで思っていたんだが、その声で我に返ったんだ」
「…そうなんだ…」
エルゥは、自分が必死に龍に呼びかけた事が無駄ではなかったと解かり、とても嬉しくなった。もしあの時そうしていなければ、この龍は海の底に沈んで、そのまま死んでしまっていたのだ。獲った魚も満足に捌けない自分なのだが、他の命を助けることが出来て、少し大人に近づいたような気がした。
「それで、アルノワって人間はどこに住んでいるの?」
「よく解からない。とても綺麗な街だった。空は毎日澄んでいて、街の外れにはとても大きな樹が聳え、その樹から風が毎日心地よく薫っていた。街にも緑が溢れ、白い建物がそこかしこに並んでいて、私はそれを高い山から見下ろしていた。私はその山で産まれたようだった」
「お母さんは?他の龍はいないの?」
「解からない。私は、私以外の龍を見ていない」
「じゃあ、その街は…」
エルゥの質問が終わらないうちに、彼ははっと表情を変えた。
「どうしたの?」
父の姿の龍は急に身体を反転させ、波間へ飛び込んだ。
「待って!」
同時に背後から声がする。
「エルゥ!」
ティム爺の声である。恐らく龍は、彼が近づいてきたので、慌てて逃げたのだろう。
「大丈夫だよ!この人は貴方に何もしない!大丈夫だから戻ってきて!」
だがその声は届かなかったようである。水の中から大量の泡が上がり、やがては元の静かな海に戻った。恐らく海の中で、龍の姿に戻ったのだろう。
もう、彼がどこにいるのか、感じることも出来なかった。
「どうしたのじゃ!エルゥ!今誰かおらんかったか?」
「もう!」
エルゥは駆け寄ってきたティム爺に、つんと唇を尖らせた。
「何を怒っておる?美人が台無しぞ」
「昼間の龍がいたんだ。でもティム爺が来たから、驚いて逃げちゃったよ」
「何じゃと?しかし人間のようじゃったが」
「人間に変身してたの。スゴイでしょ!私の心を読んで、父さんになってくれたんだよ!」
「ロドに変身したのか?それは見たかったのう」
「それで、ティム爺はどうしてここに来たの?」
「それが、何だか妙な心地がしてな。こう、胸がざわざわとして落ち着かんのじゃ。気がついたらここへ向かっておった。そしたらおまえさんの前に、誰か立っておるではないか。おまえさんに何かしておるのかと思って、慌てて駆け寄ったんじゃが、そう言う事情なら、そっと影からでも見守っておりたかったのう」
「ホントだよ。もっと色々話が聞けたのに…」
エルゥは名残惜しそうに、龍の消えた夜の海を見つめた。
だが次の瞬間、エルゥの前に、何かが突然舞い降りた。
「うわ!」
眼の前に振り下ろされた気配に、エルゥは大きく後ろに飛び退いて辛うじてそれを避けた。
砂地に足をとられ、転倒するエルゥ。
気がつくとそこには、精悍で逞しい身体つきの人間が、剣を構えて、恐ろしい形相で立っていた。