八 夜明け前 3
先ほどまでの喧騒が嘘のように、とても静かな空間が広がっている。
その静けさが、なおさらエルゥを不安にさせた。
「イファ…大丈夫かな…。見つかるかな…。怪我してないかな…」
「大丈夫じゃ。絶対に見つかる。セイドとレシアが捜しておるんじゃ。すぐに見つかるに決まっておるぞ」
だがティム爺の励ましも空しく、静かな時間だけが、ただ過ぎていった。
さすがにティム爺も不安になってきた。
かつてデルフィノでイファが誘拐された時、同じようにセイドに助けを求めたら、彼は直ぐにイファを見つけて戻ってきた。しかしどうして今度は、これほど時間がかかっているのだろう。
もしやイファの身に何かあったのではないだろうか。
谷は暗くて、どのぐらい深いのかよく解からない。
もしもここから墜ちたのだとしたら、無傷ではすまないのではないだろうか。
その不安はエルゥも同じだった。
谷は暗くてイファの姿が見えないかもしれない。
それとも谷ではなく、別のところに飛ばされてしまったのだろうか。
いずれにしろ、今度はレシアと二人で探しているというのに、何故、イファは見つからないのだろう。
エルゥは一所懸命祈った。
イファが早く見つかりますように。
無事に戻ってきますように…。
「大丈夫じゃ。きっと見つかる」
頭を垂れて祈っているエルゥに、ティム爺は再びそう励ました。
「…うん…」
力なくエルゥは応えた。
やがてフワリと、誰かの気配がした。
顔を上げると、そこには、腕にしっかりイファを抱いたレシアが居た。
「イファ!」
「無事かの!遅かったので心配したぞい!」
イファは、自分でレシアの腕から降りた。
「心配をかけてすまない。彼は崖の下の木に引っかかっていた。意識を失っていたので、それを辿るのに少し手間取ってしまったんだ」
レシアの説明に、エルゥは全身の力が抜けるほど安堵した。
「ごめんね、イファ。怖かった?私のために、ヒドイ目に遭ったね」
イファはにっこり微笑んだが、何も言わなかった。
エルゥは思わず、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
そっとイファは、エルゥを抱きしめた。
いつの間にイファはこんなに大人になったのだろう。
エルゥはその腕の中がとても広くて大きいと感じた。
「セイドはどうしたのじゃ?」
「思うところがあって、先にアルノワに戻った」
「なら、本当に龍を倒すことを諦めてくれたのじゃな」
「そうだ。彼が龍のことを理解してくれたなら、こんなに心強いことはないよ」
「先に戻って、大司教様に説明してくれるつもりなのかのう」
「そうだと良いね、イファ」
満面の笑みでエルゥがそう言うと、イファは、やはり静かに微笑むだけだった。
「あれ…?イファ…、どうかした…?」
エルゥは、イファのその態度を敏感に感じ取った。
何だか、いつものイファでは無いような気がしたのだ。
「私が説明しよう」
何も応えないイファの代わりに、レシアが少し言いにくそうに切り出した。
「どういうことじゃ?」
「実はイファは、崖の下に落ちた衝撃で記憶を失ってしまったんだ。エルゥやティム殿、ガライ殿の事も憶えていないだろう」
「うそ…!ホントに?私が解らないの?からかっているだけよね?私を驚かせようとして、からかっているんだよね?」
しかしイファはただ、静かに微笑むだけである。
「…嫌だよ、こんなの!イファが何も憶えてないなんて…。じゃあ、たくさん勉強したことも憶えてないの?ここにいるのは、あの賢くて、物知りなイファじゃないの?もうイファは元のイファには戻らないの?」
「いや、いずれ記憶は戻る。いつかは約束できないけれどもね」
「アルノワ人の特別な力でも無理なの?」
「残念だが、私では無理だ」
「…嫌だよ!こんなのイファじゃないよ!」
エルゥは座り込み、顔を両手で覆った。
「エルゥ」
傍にティム爺が座り、優しく声をかけた。
「お前さんは、イファが好きなんじゃろ?」
「…うん」
「どんなイファが好きなんじゃ?」
「いつも少しエラそうで、生意気で、口うるさくて、嫌味ばっかり言って…、でも優しくて、賢くて、頼りになって…、傍にいると、とても安心するの…」
「ではここにいるイファは、好きではないのかのう」
エルゥはしばらく両手で顔を覆ったまま沈黙していたが、やがてそのまま首を左右に振った。
「ここに居るイファは、少しの間、記憶を無くしてしまっただけじゃ。記憶を無くしても、イファはイファじゃよ」
「…うん」
エルゥはようやく顔を上げた。
相変わらずイファは、ぼんやりと微笑んだまま、そこに立っている。
エルゥはふと、イファの母親のことを思い出した。
イファの母親もかつて記憶を無くし、海辺に打ち上げられていたところをイファの父親に助けられ、そこから二人は愛し合うようになって結婚をしたのである。だが、それから十五年以上も経つのに、イファの母親の記憶は戻らず、本当の名前やどこから来たのかも未だに謎のままなのだ。
(もしイファの記憶も、何年も何十年も戻らなければどうしよう…)
そう想うと、不安で悲しくてたまらない。
だが、もしもそうなったとしても、自分がイファを好きなことには変わりは無い。
(…そうだ。もしイファがこのままでも、私はイファが好きなんだ)
エルゥは気がついた。
(たとえどんなイファでも、私はイファが好きなんだ。だから、私は変わりなく、イファの傍に居ればいいんだ!そうだよ、心配なんてしなくても良いんだ。私はイファが好きなんだから!私が変わらなければ良いんだから!)
エルゥは、自分の中の、確かなモノを見つけた。
それはもう、この先何が起ころうと、揺ぎ無いものであるとエルゥは感じていた。
九 エルゥと天使 1へ続く