九 エルゥと天使 2
「イファ!良かった!」
レシアに、イファは行けないかもしれないと脅されたので、不安になっていたエルゥだったが、自分の直ぐ後からイファが来たので、思わず抱きついて大喜びをした。
「しかしここがアルノワか。美しいところじゃのう」
虹の中に入ったエルゥたちは、一瞬目がくらむほどの光と、ふわっと身体が浮かぶような感覚に包まれたが、すぐにその感じが無くなったので瞳を開けてみた。すると、雲ひとつ無い真っ青な空の下の、真っ白な建物に囲まれた広場のようなところに着いていたのだ。
空気は澄んで美味しく、ほのかに植物の良い匂いが漂っていて、とても心地が良い。
足元には見事な石畳が何かの模様を描いていて、白い建物が並ぶ遥か向こうには、立派な神殿らしい大きな建物が聳え、遠くには緑の森や山がなだらかな稜線を描き、ここからでも良く解かるほどの立派な大樹が、山の向こうから覗いている。
あれはレシアから聞いた、アルノワを支えるウィギリアに違いない。
「来た」
ガライの言葉に、エルゥたちの中に緊張が走った。
エルゥたちが来たことに気がついたアルノワ人たちが、手に武器を持ち、集まり始めたのだ。
「再びこの地へ舞い戻るとは!しかも地上人に姿を変えて、何を企んでいるレスパ!」
一人のアルノワ人が、声を張り上げた。
逞しい身体つきに、肩や胸などに防具をつけた武装した男である。
「違う!話を聞いてくれ!」
負けじとティム爺が怒鳴った。
「この子は龍なんぞでは無い!墜ちて来た龍を助け、そのために龍の臭いが身体についてしまったのじゃ!それで龍と間違われて、アンタらに命を狙われておる可哀想な子じゃ!じゃから、ここの大司教様に会いに来たのじゃ!大司教様なら、解って下さるじゃろう!会わせてくれ!」
「何を言う!龍の臭いどころではない。龍そのものではないか!疑いの余地も無い!」
「何じゃと?そんなことも解らんのか!」
「正体を現せ!レスパ!」
彼はそう言いながら、持っていた槍を思いっきり投げつけた。
その槍はあっという間に、まっすぐイファの身体を貫いた。
「きゃああ!イファ!」
「イファ!な、何をするんじゃ!この子は…」
ティム爺の言葉が終わらないうちに、イファの身体は蒸気と光に包まれ、その中から美しい銀色の龍が露になり、身体に槍を刺したまま青い天へと昇り始めた。
「え…」
エルゥは何がどうなったのか、理解できなかった。
イファだと思っていたのは、あの龍だった…?
では、イファはどうしたのだろう。
どこに行ってしまったのだろう。
一体イファは今どこで、どうしているのだろう…。
エルゥは呆然とそこに立ち尽くした。
アルノワ人たちは龍を追い、それぞれに得意の武器を持って一斉に空へと舞い上がった。
龍はアルノワ人の攻撃を、一太刀、二太刀と受けている。
はっと、エルゥは我に返った。
「止めて!その子は悪くないの!殺さないで!大司教様に会わせて!お願い!」
だが小さなエルゥの声は、天空で龍と戦うアルノワ人たちには届かない。
それでも尚、エルゥは叫んだ。
「セイド!どこに居るの?助けて!セイド!龍を助けて!お願い!龍を殺さないで!」
その時である。不意に
「止めなさい!」
と、澄んだ張りのある声が響いた。
その声に、龍を攻撃していたアルノワ人たちが一斉に動きを止めた。
エルゥたちはそちらを振り返った。
そこには、立派な輿に乗った一人の女性が、数名のアルノワ人に囲まれて広場に到着していた。
見た目に何歳であるのかよく解らないが、少女のような可憐さと賢者のような聡明さを漂わせる表情で、真っ白な長いローブをまとい、背中には大きな白い翼、銀色の長い髪と胸元には、緑色の美しい石を飾り、エルゥが今まで出会ったどんな人よりも、気品に溢れた美しい女性である。
「大司教様!しかしあの龍を倒さねば…」
先ほどのアルノワ人が、いち早く舞い降りてきた。
「ミルザム。アルノワの治安隊長の立場は解るが、冷静になりなさい。龍は今どうしていますか」
「え…?」
そう言われて、ミルザムと呼ばれた彼は、天を仰いだ。
止めろと言われて攻撃の手を中断しているアルノワ人たちの輪の中で、龍は静かに浮かんでいる。
「一度たりともあの龍は、反撃しておりません。あれでは災いとは言えぬでしょう」
「しかし今は大人しくても、いずれ…」
大司教はミルザムの言葉を遮るように、エルゥに向かって言った。
「エルゥと言いましたね。話はセイドから聴いています」
大司教がそう言うと、輿の後ろに控えていたセイドが、輿に向かって頭を下げた。
「あ、はい…。エルゥです。はじめまして」
「ずいぶん辛い目に遭わせてしまったようです。本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ、大丈夫です。それよりあの龍は…」
「龍をここへ呼び寄せて下さい」
「はい!」
エルゥは天を仰いだ。
「おいで!ここへ降りておいで!」
両手を広げ、優しく声を張り上げる。
すると虚ろに宙に浮いていた龍は、はっと瞳を見開き、魚が海の中を泳ぐように、エルゥの元へまっすぐ降りてきた。そして初めて出会った時のように、鼻先をエルゥにこすり付けてきた。
そのあまりに大人しく愛らしい光景に、周りのアルノワ人から「おおっ」と歓声が上がった。
「やはり、そなたの申した通りのようです」
大司教は、セイドにそう言った。
「どういうことだ、セイド」
ミルザムはセイドに説明を求めた。
「あの龍は、アルノワから墜落して海に沈んだ。そしてそのまま一度は死にゆくところだったのだ。それを、あの少女が助けた。死の縁から蘇り、一番初めに触れたのが、あの少女の穢れない美しい心だったのだ。そのためあの龍には、少女のように美しい心が宿ったということだ」
「しかし、いずれ邪悪な心が目覚め、全てを滅ぼすほどの存在に…」
「忘れたか?ミルザム。あの龍は、審判の虹を通ってここへ来たのだ」
「う…」
「つまり、虹がアルノワに来ることを許した。心が清い証拠だ。虹が、邪悪な心のあるものをここへ導くはずが無い。すでにあの龍の中には、邪悪な心など微塵たりとも存在しない」
確かにあの龍は、どれほど自分たちが攻撃をしようと、鱗を逆立てることも、牙を見せたりすることすらもしなかった。ただ大人しく、刃をその身に受け止めるだけだった。そして今、少女に懐いているその瞳は澄み渡り、微塵の翳りも無い。
ミルザムは持っていた槍を消した。他のアルノワ人たちも、次々、武器を消した。
「そなたも感じることが出来ましたか?あの龍の心の奥を」
「はい。恥ずかしながら、今、感じとることが出来ました。澄んだ清い心の持ち主であると」
ミルザムは大司教に、深々と頭を下げた。
「じゃあ、この子は助けてもらえるの?もう大丈夫なの?」
大きな瞳をさらに見開き、エルゥは大司教を見上げた。
大司教は、優しく微笑みながら、
「そうです」
と頷いた。
「その龍はもう災いではありません。倒す理由が無いものの命を奪うことは出来ないでしょう」
「でも…、この子だけじゃ嫌」
「どういうことです?」
「他の龍も殺さないで!倒すためだけに創るなんてことをしないで!お願い!そんな可哀想なことを、もう二度としないで!どんな生き物でも、生きるために産まれてくるんだよ!殺されるために産まれるなんて、そんなの可哀想だよ!」
「…」
大司教は少し言葉を閉ざし、真剣な瞳で訴えるエルゥを見つめた。
「お願い!大司教様!」
尚もエルゥは懇願した。
「わしからもお願いしますじゃ!」
「俺も!」
ティム爺とガライも、エルゥの隣に並び、一所懸命そう訴えた。
「私からもお願い申し上げます」
セイドも深々と頭を下げた。
「私も同意です。どうかお願いいたします!」
船の上で出会ったエノヴァルも、声を張り上げた。
「私も同意です!」
「お願いいたします!」
タルコットの町から一時的に戻ってきていたクラビウスとラーシルの二人も、大きな声でそう言った。
「私も同意です!お願いいたします!」
「私も同意です!」
「同意です!お願いいたします!」
あれほど自分たちを追っていた、アッシード、オーラン、ロスネルの三人も、声を出している。
「私も!」
「同意です!」
「お願いします!」
気がつくと、いつの間にかあちこちから声が上がり、やがて大勢のアルノワ人が、声を揃えて「お願いします」と叫んでいた。中にはアブリルやオリヴィのように、龍退治を楽しみにしていた者も多数いるが、とても反対意見を唱える雰囲気ではなく、すっかり黙り込んでしまっている。
その様子に大司教は、すっと右手を上げて皆を鎮めた。
「では、災いの龍を作り出すことは、今後一切禁止いたします。禁を犯して作り出した者は、厳罰に処します。よろしいですね」
その言葉が終わると同時に、「おお!」と大歓声が沸き起こった。
「ありがとう!大司教様!」
「いいえ。お礼なら私から言わねばなりません。私たちはずっと、大きな過ちを犯していました。あなたの言葉の通りです。命は、どんな生き物でも等しく尊いものです。そして全ての命は、生きるために産まれてくる。どんな命でも、そうあるべきなのです。それに気づかせてくれたことに、深く感謝いたします」
「良かった!じゃあ、もう可愛そうな龍は創らないよね?」
「ええ。約束いたします」
「じゃあ、私たち、もうビオラ島に戻っても大丈夫だよね?」
「もちろんです。もう誰も、あなたの命を狙うものはおりませんよ」
「この子はどうなるの?」
「それは、その龍自身が、どこに行くべきか、どうすべきかを悟るでしょう。私からの罪滅ぼしの一つとして、名前を与えましょう。その龍は今からセルフェウスです。アルノワの言葉で、『澄んだ銀の湖』という意味です」
「セルフェウスだって。凄く良い名前だね。良かったね!」
龍は、はっと瞳を大きく開いた。
そして頭をゆっくり持ち上げ、空気の臭いをかぐように、頭を少しゆらゆらさせていたが、次の瞬間空に舞い上がり、あっと思う間に飛び去っていった。