九 エルゥと天使 3
「行っちゃった…。どこに行ったのかな」
「何じゃな。先にビオラ島に戻ってしまったのかのう」
「いいえ」
大司教は静かに頭を左右に振った。
「どこに行ったのか、解っておられるのかの?」
「ええ。私はあの龍…セルフェウスに、名前と同時に一つの役割を与えました。災いの化身として作り出してしまった彼に役割を与えることで、彼は新たに生まれ変わったのです。彼は今、生まれてきた意味をかみ締め、役割を果たすべく、そこへと向かっています」
「役割って…?」
「あなた方も、すでにご存知のはずです」
「何のことじゃな」
「ガラクシアスのエバール。彼ならセルフェウスを受け入れてくれるでしょう」
「おお、そうか!エラドールへの扉かの!」
「そうです。エバールは自分の命が滅ぶ前に、扉を護る後継者を探しています。セルフェウスは自分が必要とされていることを悟り、そこへ向かったのです。そこで彼は人の姿となり、エバールの元で修行を積んで、扉を護ることを己の使命とするでしょう。それが新たに生まれ変わった彼の、生きる意味なのです」
「そっか。そうなんだ…」
(エバールさんが、自分の後継者とはもう出会っていると言っていたのは、あの子のことだったんだ)
エルゥはエバールの言葉を思い出した。
もしかしたら、ビオラ島で一緒に暮らせるかもしれないと思っていたエルゥだったが、そんな大事な役割があるのなら仕方がない。ちょっと遠いが、こちらから遊びに行こうと思った。
「それで大司教様、イファはどこなの?今どうしているの?」
「あの少年は…」
大司教は一瞬、軽く言葉を切ると、すぐに優しい声で静かに続けた。
「あなたの大事な人は、今から半日ほど前、谷底に落ちて命を失いました」
「え…?」
大司教の言葉に、エルゥは一瞬、何が何だかわからなくなった。
大司教様は、今、何を言ったのだろう。
イファが、どうしたって…?
「まさかそんな…。イファは死んでしもうたのかの!」
「嘘だ。俺信じない!」
ティム爺とガライの声も、エルゥには遠くに感じられた。
「私が説明しよう」
セイドが、愕然としているエルゥたちの前に歩み寄った。
「昨夜、私とレシアは谷に落ちたイファを捜した。だが彼は谷底で見つかり、すでに命は無かった。そこにあの龍…セルフェウスが姿を現した。イファがいないと、エルゥが哀しむ。しかし自分がイファになりすましても、すぐに判ってしまうので、自分ではエルゥの哀しみを和らげることは出来ない。何とかしてくれ…と、我々に訴えかけた」
「ではなぜ、記憶を無くしたイファになったのじゃ?」
「それは私が提案した。エルゥを哀しませないために、少し時間を稼いでいてくれと彼に頼んだ。記憶を無くしたことにすれば、多少の違和感をごまかせると思ったのだ」
「時間稼ぎじゃと?」
「そうだ。私はイファを抱えてアルノワに戻り、事情を大司教様にお話しして、彼を生き返らせるべく、ヴァルデネの泉の使用許可を戴いた」
「ヴァルデネの泉…?」
「そうだ。命を落とした者の身体を泉に沈めると、生き返らせても良いと判断された者は、泉が命を呼び戻してくれるのだ」
「ではイファは今…」
「すでに審判は下った。彼はそこだ」
セイドの指差すそこにはラカイユが居た。そしてその腕の中には、しっかりとイファが抱かれていた。
「イファ!」
「大丈夫か、イファ!」
「イファ!」
エルゥたちは駆け寄った。
イファの緑色の瞳がゆっくりと開かれ、ぼんやりとエルゥたちの顔を映し出した。
「エルゥ…、ティム爺、ガライ…、僕は…」
「良かった!イファ!本当に良かった…」
エルゥの目から、涙が溢れてきた。
ティム爺も、ガライの瞳も潤んでいる。
イファはフワリと、ラカイユの腕から飛び降りた。
「え?…イファ、翼!」
エルゥはイファの背中の白い物に気がついた。
そこにはまだ小さいが、しっかりと白い翼が生えている。
「イファ、どうして…?」
「彼が強く望んでいたからだ」
目覚めたばかりでまだ状況の解かっていないイファの代わりに、ラカイユが答えた。
「どう言うこと?ラカイユ」
「ヴァルデネの泉が、彼の強い意思を受けて、アルノワ人として蘇らせたのだ」
「イファが…アルノワ人…って。イファ本当にそんなこと思ってたの?」
イファは頷いた。
「こんなことになるなんて思ってもいなかったけど、でも僕は、これで良かったと思っているんだ。僕は特別な力が欲しかった。エルゥや、困っている人たちを助けることが出来る力が欲しいって…、この旅の途中でずっと思っていたんだ」
「イファ…」
「だからここに残って、修行をするよ」
「え?じゃあ、ビオラ島には帰らないの?」
その問いには、ラカイユが答えた。
「アルノワ人となったからには、一人前と認められるまでは、地上に降りてはいけないのだよ」
「そんな…。どれぐらいなの?どれぐらい修行をしなくちゃあいけないの?」
「人によってそれぞれだよ。一、二年で認められる者や、十年経っても認められない者もいる。すべては本人次第だよ」
「僕は一所懸命修行をして、できるだけ早く地上に戻ってくる。だから心配しないで待っていて」
「嫌だよ!特別な力なんて無くったって、傍にいてくれるだけで良いのに!」
「エルゥ…」
「どうして勝手に決めるの!いつだってイファは、勝手なんだから!」
イファは思わず、エルゥを抱きしめた。
「一所懸命勉強して、すぐに立派なアルノワ人になって、ビオラ島に戻るから。だから待っていて。僕が戻るまで、元気で明るいエルゥのままで待っていて」
「嫌…」
「大好きなエルゥ…。これをあげるから。まだ駆けつけることは出来ないし、今の僕には、これが限界みたいだけど」
イファはエルゥから少し離れると、背中の翼から、一枚の羽根を抜き取った。
それはまだ短く、ヒナの羽毛のような、とても幼いものであった。
「イファ…」
その羽根が意味するもの。
それは、言葉にしなくても、エルゥにはとても良く解かった。
思わずエルゥの頬に、一筋涙が流れ落ちた。
「抜く部分間違えたかな、この辺の方が良かったかも…」
イファは短い自分の背中の翼を振り返り、少しでも長そうなところを探した。
その様子に、思わずエルゥはくすっと微笑んだ。
「無理しなくても良いよ」
「無理じゃない!じゃあこれ、早く受け取れよ!」
「しょうがないなあ。受け取ってあげるよ」
エルゥは、満面の笑顔でそれを受け取った。
イファもつられて微笑んだ。
「ようやくいつもの二人に戻ったようじゃの」
ティム爺が横からそう冷やかした。
「では三人は、アルノワのオーロラから、好きな場所へ送り届けてあげよう」
「ではビオラ島まで頼む」
セイドの言葉にティム爺がそう答えると、すかさずイファが言った。
「それは不自然すぎるよ。アントスの方が良い。そこでジャイロに乗り換えて帰るんだ。それに、アントスの方がガライにも都合が良いでしょ?僕はどこか…、そうだ、リングウォルトで勉強してから帰ることにしておいて」
「うむ。さすがイファじゃの」
ティム爺は細い目をさらに細めて頷いた。
そう言う訳で、エルゥたちはひとまずアントスに送り届けてもらい、そこからジャイロでビオラ島へと帰ることになった。
セイドとラカイユが操る天馬の馬車で、アルノワの西の端へと向かう。
見事なウィギリアの大樹が、優しく馬車を見下ろす中、ほどなく満天の星空に浮かびあがるオーロラの元へと辿り着いた。
「イファ…。色々本当にありがとう。いっぱい助けてくれたよね。いっぱい護ってくれたよね。本当に嬉しかった。イファがいてくれて、本当に良かったよ」
「僕もエルゥと一緒で良かった。あの日、思いきってついてきて、本当に良かったよ」
イファは優しく微笑みながら、エルゥの両手を握りしめた。
「早く戻ってきてね。待ってるよ」
「うん。待っていて。僕は絶対に早く一人前になってみせるから」
「うん。絶対だよ」
「約束する。絶対だよ」
次にイファは、ティム爺の手を握りしめた。
「ありがとうティム爺、元気でね。またジャイロに乗せてね」
「もちろんじゃ。いつでも乗せてやるぞい。それと、ログとマリィには、真実を何もかも話すぞ。良いな」
「うん。父さんと母さんは、解ってくれると思うよ」
「うむ。しっかり勉強して、早く二人に元気な姿を見せてやるんじゃ」
「解った。頑張るよ」
次にイファは、ガライの逞しい手を握り締めた。
「ガライも元気でね。自由に地上に行けるようになったら、イグアノスに会いに行くよ」
「待っている。お前、すぐ天使になれる」
「ありがとう。コリンたちにもよろしくね」
「ああ。コリンも待っている」
ガライは、ギュウッと力強くイファの手を握り返した。
「申し訳ないが、オーロラが消えるまでに、呼び寄せないといけない。そろそろ良いかな」
名残を惜しんでいる四人に、少し言いにくそうにセイドが言った。
四人は頷いた。
心は離れたくないと叫んでいるが、エルゥは、それ以上どうにもならないと解っていた。
言いたいことはまだまだたくさんあったが、何とか喉の奥に呑み込んだ。
「ではそこに立ってくれ。オーロラのカーテンを下ろす」
セイドが示したそこに、三人は並んだ。
イファはすっとエルゥに近づくと、その頬に軽くキスをして、すぐに離れた。
「じゃあ、元気でね。みんな…」
「おまえさんもな」
「待ってる。イファ、待ってるから!」
泣きそうになるのをぐっと堪え、エルゥは一所懸命手を振った。
「早く戻ってねイファ!ありがとう、セイド!ラカイユ、色々本当にありがとう!またビオラ島に遊びに来てね!イファ、待ってるよ!ビオラ島で待ってるから…!」
イファも大きく手を振った。
オーロラのカーテンがゆっくり下りてくる。
目の前が眩しくなり、もう、イファやセイドやラカイユの姿は見えなくなった。
気がつくと、見覚えのある甲板の上だった。
アントスは朝らしく、暖かくて眩しい太陽が、甲板の片隅に置かれた懐かしいジャイロを優しく見下ろしている。
「エルゥか!それにティム殿…ガライ…!」
声に三人が振り返ると、そこには驚いた表情のコリンが立っていた。
「コリン!」
エルゥは思わず駆け寄り、抱きついた。
「上手くいったの!みんなのお陰なの!私、ビオラ島に戻れるの!」
「そうか、良かった。とても良かった。話してくれないか?旅のことを」
「うん!聞いて!色々なことがあったの!とてもたくさん、話したいことがあるの!とてもたくさん、たくさん!」
ティム爺はジャイロの調子を見ながら、エルゥの話が終わる頃には、何とか整備も終了できそうだと思った。
ビオラ島まで、あともう少し。
ジャイロの整備が終わるまで。
エルゥの話が終わるまで。
エルゥと天使と銀の龍 完