二 死者の船 1
島がすっかり見えなくなる頃、ティム爺は「ふうっ」と安堵のため息をこぼした。
「上手くいったね」
「そうじゃな。一応無事に旅立つ事が出来たのう。あの場でアルノワ人が襲撃してきたら、言い訳できんところじゃったからの」
「そうだね。何とか母さんたちは、気楽な旅だって思ってくれたみたいだし…。イファには見抜かれそうになったんだけどね」
「ほう、イファは何か気づいたのか?」
「うん。急に今日旅立つのはおかしいって。ティム爺が帰ってきたのは昨日だから、普通は一日あけて、明日旅立つはずだけど、それをわざわざ今日にするのは、そうしなければならない事情が出来たんだろうって」
「ほほう。さすがじゃのう」
「でもあんなこと、説明できないじゃん。私が天使に命を狙われてるなんてさ」
「何だって!」
急に後部座席のさらに後ろから、そんな声が響いた。
「イファ?」
エルゥが驚いて振り返ると、荷物室から、窮屈そうにイファが姿を現した。
「じゃから、手応えが重かったのか」
イファは少し苦労しながら、何とか前へと出てきた。ジャイロは二人乗りで、後部座席の定員も一人だったが、エルゥもイファも細かったので、狭いながらも何とか座る事が出来た。
「どうして乗ってるの!」
「絶対おかしいと思ったからさ。それで考えてみたところ、急に旅立たなければならない原因は、あの龍以外には無いと思ったんだ。だから、近道を通って先回りして、こっそり隠れて様子を見ようと思ったんだ。だけど、どういうことさ。天使に命を狙われているなんて」
「複雑なんだ。それより、イファは今すぐ島に帰ってよ。それとこの話は誰にもしないでよ!」
「嫌だ。帰らない。家には僕も旅に出ると書置きしてきた」
「駄目じゃイファ、おまえさんは帰りなさい。東の海岸に降ろすぞい。良いな」
ティム爺はジャイロの方向を反転させた。
「僕を降ろせば、島中の人に言うよ。エルゥは天使に命を狙われてるってね」
「もう!やっぱ嫌なヤツ!」
「エルゥ!イファ!」
急にティム爺が声を張り上げた。
「島には戻れん!しっかり掴まっておれ!」
「どうしたの?ティム爺!」
「来たぞ!」
ティム爺の声に、二人ははっと島の方向を見た。そこには一人の天使…いや、アルノワ人が、目標物を発見し、こちらに向かっている。
「振り切るぞ!」
ティム爺はエンジンを全開にし、再び北へ向かって全速力でジャイロを飛ばした。だが身軽なアルノワ人と、重い機械であるジャイロでは、全く話にならなかった。すぐにそいつはジャイロの横に並び、その手に剣を出現させてエルゥを睨みつけた。
「うわ!天使だ!」
イファはその姿に、息を呑んだ。
女性のような優しい顔立ちに、淡い金色の長い髪。木成色の長いローブの上から、胸、肩、腕には軽い防具。それに白い大きな翼が、背中から美しく伸びている。
エルゥは昨日のセイドとは全く違う容姿に、自分の立場も忘れて、少し見ほれてしまった。この姿が、自分たちが語り聞かせてもらっていた天使そのものなのである。
だがその美しい姿とは裏腹に、彼はエルゥに向かって剣を振り下ろしてきた。
ティム爺は咄嗟にエンジンを切り、ジャイロを急降下させて辛うじてそれを避け、再びエンジンをかけてさらに北へと飛ばした。虚をつかれて一瞬、目標物を見失ったアルノワ人だったが、大きなジャイロの音に、すぐにその方向に気が着いた。
「駄目じゃ!逃れられん!」
どこかに不時着しようにも、下は海。
振り切ることも出来ないし、操縦中は戦って護ることもできない。
こうして、ジャイロの操作だけで剣を逃れるのも、限界がある。
アルノワ人はすぐに追いつき、再び剣が振り上げられた。
その瞬間、エルゥの上にイファが覆い被さり、剣は寸前のところでピタリと止まった。
「退きなさい、少年」
彼は穏やかな良く通る声で、イファに話し掛けてきた。それはうるさいジャイロの音の中でも、何故かはっきりと聞こえてきた。
「嫌だ!エルゥにヒドイことはさせない!」
「イファ…」
彼はさらに涼しい声で、しかし厳しい口調で言った。
「その子は龍の化身だ。騙されてはいけない」
「違う!騙されているのはそっちだ!」
「何…?」
「本当じゃ!」
ティム爺が、あまり事情のよく解からないイファの代わりに怒鳴った。
「その子はあんたらの追っている龍ではない!あの龍の命を助けた優しい子じゃ!そのために逆にあんたらに命を狙われる羽目になって、とても気の毒な子じゃ!あんたに心があるのなら、見逃してやってくれ!」
「何だと?その話は真か?」
「ああ。昨日の天使は解かってくれたぞ」
「昨日の天使?」
「そうじゃ。セイドと言う名じゃ」
「何…セイドが…?」
そのアルノワ人は思いがけない名前が出てきたので、眼を丸くさせて驚いている。
「エルゥ、アレを見せてみい!」
「あ…、う、うん」
エルゥは自分を庇っているイファの下から出てくると、腰に下げていた革袋の中から、昨日貰った白い羽根を一枚取り出した。
「それは…」
彼は息を呑んでその羽根をエルゥから受け取った。その手には、すでに剣は消えていた。
「確かにこれはセイドの羽根…。これを君は何枚受け取った?」
「三枚だよ」
「三枚…そうか…」
彼はそう言ったまま、静かに瞳を閉じた。
「解かってくれたかの?」
ティム爺の声に、彼は再びその美しい瞳を開けた。先ほどの鋭く突き刺すような色ではなく、とても穏やかになっている。
「ああ。この羽根が物語っている。この羽根の意味を知っているか?」
「羽根の意味?名前を呼びながら宙に飛ばしたら、すぐに助けに来てくれるってセイドは言ってたけど」
彼は頷いた。
「そうだ。どこに居ても、どんな時でも、呼ばれたら駆けつけなければならない。つまりその羽根を持つ者に、その瞬間支配されるということだ」
「支配?」
「少し言葉が悪かったかな。要するに、その羽根を持つ者に仕えるという意味だ。だから、よほど心を許した相手か、よほど信頼をしている相手にしか、我々は羽根を渡さない。つまり、セイドは君を、心から信じたということになるのだよ」
「そうなんだ」
「怖い想いをさせてすまなかった」
彼はそう言いながら、セイドの羽根をエルゥに返した。
「良かったあ。やっぱり良い人が多いんだね、アルノワの人って。話せば解かってくれるじゃん」
「残念ながら、そうとは限らない。中には何を言っても無駄な者もいる」
「ふうん…」
少し楽観的になったエルゥだったが、また、何だか落ち込みそうになってきた。これからこの先、何度こんな目に遭わなければならないのだろうと思うと、気が重くなったのである。
「君はこれから、とても難儀が降りかかるだろう」
「解かってる。セイドにもそう言われたもん」
エルゥはわざと強がってみせた。
「これから君たちはどこへ行くつもりだ?」
「セイドに言われて、エラドールに行くの」
「何…エラドールだと…?」
彼は秀麗な瞳を曇らせた。
「うん。そこでレシアって人に会って、その人にアルノワまで連れて行ってもらうの。それでアルノワの大司教様に何とかしてもらうの」
「なるほど…。レシアか…」
「どんな人?」
「エラドールに追放されたが、とても良い人だよ。エラドールがどう言うところか私はよく知らないが、彼なら君を任せて大丈夫だろう」
「ふうん。良かった!」
「とても心苦しいが、私は先を急ぐから君を助けてあげられない。だから代わりにこれを持っていきなさい」
彼は昨日セイドがそうしたように、自分の翼から羽根を三枚抜き取り、エルゥに手渡した。
「良いの?ありがとう!」
「何じゃ、おまえさんも三枚とは、意外とケチじゃのう。セイドよりも立派な翼なのに、本当はもっと大丈夫なんじゃないのかのう?」
ティム爺の言葉に、彼は苦笑した。
「今の私にはそれが精一杯だ。私が羽根を渡せる枚数は、全部で十枚が限界なのだが、これまでにすでに七枚、他の者に渡してしまっている。それに一度渡したら、同じ相手には二度と渡せないので、使ってしまったから新たに渡すということも出来ない。それはよく考えて、本当に困った時に使ってくれ」
「解かった。そうするよ!ありがとう!」
「では君の無事を祈っているよ」
彼はそのまま飛び去って行こうとした。
「待って!名前は何て言うの?」
「ああ、これは失礼した。私はラカイユだ。また会おう」
空中を滑るように、静かにラカイユは消えて行った。