小説『エルゥと天使と銀の龍』
作者:間野茶路()

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 二 死者の船 3

 ティム爺は必死にエンジンを修理しようとしているが、なかなか上手く直らないようである。操縦席からは、「うーむ」という唸り声と、ガチャガチャと機械をいじっている音が聞こえてくるが、一向に直る気配はない。
 「漕ぐの代わろうか?」
 何度かエルゥはそう声をかけてみるのだが、イファは「まだ良いよ」と、譲ろうとはしない。あれから一時間近くが経っているので、相当疲れているはずである。
 (ホントに意地っ張りなんだから…)
 エルゥはそう感じながら、
 「私にも少しは漕がせてよ」
 と、言い方を変えてみた。するとイファは、
 「仕方ないなあ」
 と、ようやく櫂をエルゥに手渡し、入れ替わりに機体の上へと腰かけた。
 「気持ち良いね」
 「でしょ?風も心地良いし眺めも…」
 イファを見上げて振り返ったエルゥは、はっと言葉を切った。
 風がイファの短く淡い色の髪をさらさらと揺り動かし、太陽の光を一身に浴びたその姿は、純粋無垢な赤ん坊がそのまま天使になったようである。
 「何さ」
 イファの言葉に、エルゥは我に返った。
 「か、顔色青白いよ。疲れたんでしょ?」
 取り繕うようにそう言うと、彼はにっこり笑みを返した。
 「エルゥと違って、もともと白いだけだよ」
 「もう…!」
 エルゥは前を向き、櫂をしっかり握り締めた。
 イファのぬくもりが、そこにまだ残っている。
 何故かエルゥは、少し気恥ずかしいような想いを感じた。
 (あの口の悪さがなけりゃあ良いんだけどなあ)
 眼に焼きついてしまったイファの姿を思い出しながら、エルゥはそう思った。
 次の瞬間!
 ブオン!という大きな音と共に、激しい振動が機体を襲った。
 「掛かったぞ!」
 ティム爺が少し興奮気味にそう叫んだ。
 だが同時に、不安定な機体の上に腰かけていたイファがバランスを失い、水飛沫を上げて海の中に消えた。
 「イファ!」
 身を乗り出して海を見つめるが、その姿は見えない。
 「どうした、エルゥ?」
 「イファが落ちた!」
 「何じゃと!」
 ティム爺はせっかく掛かりかけていたエンジンを再び停止した。
 「私が助ける!待ってて!」
 エルゥはそう言うと、ティム爺の答えも聞かず、海へ頭から飛び込んだ。
 青い水の中、しっかりと眼を開き、イファの姿を探す。
 イファは物体のように、静かに沈んでいる。
 慌ててそこまで泳ぎ着くと、エルゥはその腕を取り、ティム爺の待つ機体のところへ導いた。
 「おお!エルゥ!イファは大丈夫か?」
 「分かんない。気を失ってるよ」
 ティム爺はイファを引き上げた。続いてエルゥも、後部座席に上がった。
 「イファはどう?」
 後ろから目一杯覗き込むと、ティム爺は安堵の声と共に答えた。
 「大丈夫じゃ。今自分で水を吐いて、眼を覚ました。大丈夫か?イファ。わしが解かるか?」
 「…うん。大丈夫…。心配かけてごめんなさい」
 「いやいや、わしが悪かった。突然エンジンが掛かるとは思わなんだのじゃ」
 「僕が不安定なところに座っていたから悪かったんだ」
 「狭いからのう」
 「エンジンが直ったんだね。僕はもう大丈夫だから、早く進もう」
 「そうじゃな。では後ろに行っていなされ」
 イファは何とか後部座席に乗り移った。エルゥは荷物の中から乾いたタオルを取り出し、自分の隣に座るイファに手渡した。
 「ありがとう」
 「今度時間があれば、泳ぎ方を教えてあげるよ。また落ちても、大丈夫なようにね」
 少し皮肉っぽくエルゥはそう言ってみた。するとイファは、タオルで髪や身体を拭きながら、
 「じゃあ僕はバスチアン文字を教えてあげるよ。北の大陸では、アドリア文字に続いて、結構使われてるんだ」
 と返してきた。エルゥは(可愛くないなあ)と思いながら、
 「アドリア文字覚えたから良いよ」
 と面倒そうに答えた。
 「動きそうじゃ。少し揺れるから、前の手すりにしっかり掴まっておれ!」
 ティム爺が前でそう声を張り上げた。
 「飛べるようになったの?」
 「いや、海からでは飛び立てん。じゃがエンジンが動けば、漕がんでも進む事が出来る。行くぞ!」
 エンジンの振動が安定してきたので、ティム爺は青いスイッチを押した。すると、機体の真下に付いていた、飛行には全く関係の無かったプロペラが回り、ぐんっと身体が引っ張られるような感覚と共に、機体は水を割って進み始めた。
 「スゴイ!勝手に進んでる!不思議!」
 「アングラードに行けば、もっとスゴイものがたくさんあるぞ。今度落ち着いたら、ゆっくり連れて行ってやろう!」
 「やった!絶対だよ!」
 「僕も!」
 「ああ、もちろんじゃ!」
 少し不安定な空を行くよりも、こうして海の上を進む方が、遥かに気持ちが良い。エルゥは後ろに飛んでいく飛沫を眺めながら、その感覚を愉しんだ。
 
 その後、海の上を快調に進み、月が見下ろす頃、機体を止めてそこで夕食と仮眠を取る事になった。
 荷物の中から非常食を取り出し、それぞれに食べる。
 島で採れたカラ麦の粉を焼いたチャカラと、甘酸っぱいアケの実、竹筒に入れた島の山水だけの、質素な夕食である。だが、島でも普段はそれにせいぜい野菜や魚などが加わる程度で、祭りや祝い事などの、よほどの事が無い限り、バルカ鹿の干し肉や山鶏の丸焼きを食べる事は出来ないのである。
 ふと、エルゥの足元にアケの実が転がり落ちてきた。
 隣のイファからである。
 「もう!狭いんだから、気をつけてよね」
 そう言いながらアケの実を拾い、イファに手渡そうとしたエルゥは驚いた。
 イファは前の手すりに縋りつき、顔を埋めている。
 「どうしたの、イファ!」
 その身体に触れたエルゥは、はっとその手を引っ込めた。
 とても熱い。
 「どうしたのじゃ?」
 後ろの気配に、ティム爺もイファを覗き込んだ。
 「イファがすごい熱!」
 「何じゃと!大丈夫か!」
 「う…うん…」
 何とかそう声を出すイファ。
 だが、その肩は大きく揺れ、荒い吐息であるのがエルゥにも分かった。
 「海に落ちたりして疲れたんじゃ。とにかくまず、この熱さましを飲め」
 ティム爺は腰にいつもつけている巾着の中から、赤い小さな実を取り出して、イファに手渡した。イファは何とかそれを口にした。
 「ゆっくり横にさせてやりたいんじゃが…、ここではそれも無理じゃのう…。イファ、どんな具合じゃ?身体が熱いだけか?他にどんな感じがするのじゃ?」
 「身体が熱くて…頭が…酷く重い…。息も苦しい…。ごめん…話したく…ない…」
 これは見た目よりも、かなり酷そうである。気丈なイファのことだから、調子が悪いのをぎりぎりまで堪えていたに違いない。
 「相当じゃな…。一刻も早く落ち着ける場所を探した方が良いかもしれんが、熱が下がるまでは動かせんじゃろう」
 「うん…。でもイファ、とても酷そう。羽根使おうよ。こんな海の真ん中で、どうしようもないよ」
 「そうじゃな。これ以上悪くなれば、危ないかもしれん」
 「じゃあ、セイドのは一枚残しとかないといけないから、ラカイユにするよ」
 エルゥは革袋の中から、一枚の羽根を取り出した。これを宙に投げてその名前を呼べば、ラカイユが来てくれるのだ。昼間に別れたばかりなのに、こんなに早く使うとは思わなかったが、イファの具合が悪いので仕方が無い。
 エルゥは羽根を宙に投げようとした。
 「…ダメ…だ」
 その手をイファが掴んで阻止した。
 「こんな…ことで…使っちゃあダメだ…。僕は大丈夫…」
 「イファ…」
 その手は熱く、汗ばんでいる。相当熱が高いのだろう。だが、その碧の眼はとても厳しく、エルゥを睨みつけている。エルゥは、こんな怖い顔のイファを見たのは初めてだった。
 「…この先、もっと大変なことが…起こるかもしれない…。こんなことぐらいで…簡単に使っちゃあ…ダメだ…」
 イファは、荒い息の下からそう言うと、そのままぐらりとエルゥの方に傾いて意識を失った。
 「イファ!」
 「エルゥ!羽根は使わんでも良さそうじゃ!」
 「どうして!イファが大変なのに!」
 「船が近づいてきた!クラクションを鳴らして、気が付いてもらおう!」
 エルゥはティム爺の示す方向を見た。そこには暗闇の海の上、オレンジ色の小さな明かりが、ぼんやりとこちらに向かって動いている。
 ティム爺は操縦席につけてあった、鳥や獣を遠ざけるためのクラクションを鳴らした。
 パフパフと、少し甲高い耳障りな音である。
 それを聞きながら、エルゥは船が気がついてくれるように祈った。
 次第に明かりが近づいてくる。
 月明かりの中、露になるその船体に、エルゥは思わず息を呑んだ。
 「大きい!」
 魚を獲る島の小舟とは違い、その船は見上げるほどの高さに、大きな支柱が数本。船の上には小さな家のようなものが乗っており、オレンジ色の明かりは、船の胴体にある窓から二つ零れている。よく見ると、支柱に掲げられた布はずいぶん穴だらけで、夜の背景をうけて、不気味とさえ感じられる。
 (これは…シグリット製の船じゃが、型が大分古い。まさか幽霊船か?)
 その異様な外観に、ティム爺はふと、そう思った。だが明かりが付いているので、それは違うだろうと思い直し、さらにクラクションを鳴らした。
 やがて船は真横に着き、ピタリと停止した。

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