明良は、ソファーに座っている菜々子の膝を枕に寝ていた。
そうやって一緒にテレビを見ていたのだが、菜々子がふと気付くと、明良は寝入ってしまっている。
「あらま」
菜々子はそう言い、明良の目にかかっている前髪をそっと払ってやった。
そして「困ったわね。」と呟いた。
ずっとこのままでいるわけにはいかない。
(起こすの可哀想だな〜…)
最近、明良が副社長をしている「相澤プロダクション」の業績がよくなり、明良も忙しくなってきている。
別の事務所にいる女優の菜々子との休みが合わず、一緒に食事をする時間もなくなってきた。
今日は久しぶりに、顔を合わせられたというのに…。
(このまま寝ちゃおうか。)
菜々子はそう決めると、ソファーのリモコンを取り、ゆっくり背もたれを倒した。電動ソファーは本当に便利だ。
テレビを消し、ライトもリモコンですべて消した。
明良の心地よさそうな寝息が、闇の中に静かに響いている。
(仕事…辞めようかなぁ〜。家にいるくらい、ゆっくりさせてやりたいし。)
菜々子は別に女優の仕事に固執していないが、明良が辞めるなと言う。相澤プロダクションに俳優部門を作るという案も、今のところお預けのようだ。
「あれ?」
明良の声がした。目を覚ましてしまったらしい。
「菜々子さん?」
「ん〜?」
「ライトつけて。」
「んふふ。このままでいいじゃない。」
「よいしょ。」
膝に重みがなくなり、明良が起き上がったのを感じた。
そして唇に何か温もりを感じた。明良が口づけているらしい。
「もう…。」
唇が離れたのを感じて、くすくすと笑いながら菜々子が言った。
そして、傍に置いていたライトのリモコンを探り取って、ライトをつけた。
一瞬、まぶしさに目がくらんだ。
「あー…寝ちゃってたんだ…」
明良が頭を抱えるようにして、言った。
「どうする?シャワー浴びて、もう寝る?」
「ん〜…シャワーは朝にするよ。着替えて寝る。」
「明日、何時に起きるの?」
「6時。」
「早いのね。」
「9時に女の子をスタジオに送ってやらなきゃならないんだ。その前に、先輩との打ち合わせがあるし…」
「副社長の明良さんが送るの?その子マネージャーは?」
「一応つけてるけど、時々、本人の希望とか悩みとか聞いてやらなくちゃならないからね。」
「それこそマネージャーでいいじゃない。」
「マネージャーを介すと、マネージャーの都合のいい話しか、僕らに届かないから。だから、時々こうやって直接送り迎えするんだ。」
「相澤さんもするの?」
「いや、これは副社長の仕事。」
「…心配だわ…」
明良は、ふと菜々子に向いた。
「何が?」
「浮気したら嫌よ。」
明良が笑った。
「するわけないでしょ。」
明良はそう言って、また菜々子にチュッとキスをした。そして立ち上がって伸びをすると寝室に向かって行った。
(明良さんより、その女の子達が明良さんに惚れないか心配なんだけどなー…)
菜々子はそう思いながら、立ち上がって寝室に向かった。
すぐに菜々子の不安は的中した。
翌日、明良が夜10時頃になって帰ってきた。「ただいま」という声もないので、テレビを見ていた菜々子は気づかずにいた。
ただ、廊下の方で足音が聞こえ、夫が洗面所に行ったのを感じた。
「明良さん?」
菜々子があわててリビングから出て、洗面所に向かった。
明良が顔を洗っている。そして、コップに水を入れると口に含んでゆすいでいる。
「どうしたの?明良さん。…ただいまも言わないで。」
水を吐いて、タオルで顔を拭っている明良の背に菜々子が言った。
すると明良が突然菜々子の体を横抱きにして、寝室へ向かった。
「ちょ、ちょっと、明良さん?」
明良は何も言わずに菜々子の体をベッドに下ろすと、その上からかぶさってきた。
…そしてそのまま動かなくなった。
「明良さん?…どうしたの?」
明良は菜々子の上にかぶさったまま、顔を横にして黙っている。
「何があったの?」
「キスされました…」
「!?え?」
「…キスされちゃいました…」
菜々子は(あー…やっぱり…)と思った。
「誰に?」
「新人の女の子。」
「どこで?」
「車の中です。…仕事が終わって家まで送ったんですが、見送るために車を降りようとした時にしがみつかれて。」
「…助手席に座らせるからよ。」
明良がびっくりしたように半身を上げた。
「!…そうか!」
「もお〜…明良さんって、そういうとこ抜けてるから…」
そこがまたいいんだけど…と思ったが、それは口に出さなかった。
明良はふたたび体を下ろした。ここちよい重みが、菜々子の体にかかった。
「あー…僕はほんとに…」
「明良さん…あなたは、自分が思ってるよりもてるんだから、ちゃんと自覚して。」
「はい。」
「今度から、女の子は後部座席に乗せるのよ。」
「…はい。」
明良の返答に菜々子はおかしくなって笑った。
「ただ、1つ問題が。」
「どうしたの?」
「写真週刊誌のカメラマンに写真を撮られちゃいました。」
「!!!」
そっちの方が一大事じゃないの…と菜々子は思った。
「写真週刊誌!?また、すごいタイミングじゃないの!」
「…たぶん、待ち伏せされていたんだと思います。」
「…ということは?その女の子が仕掛けたってわけ?」
「…でしょうね。」
「相澤さんに連絡した?」
「はい。」
「相澤さんはなんて?」
「お前が襲ったのかって…」
菜々子は思わず笑ってしまった。
「相澤さんもどこまで本気かわからないわね。それで?」
「違いますって言ったら、じゃぁ大丈夫だって。」
「大丈夫?」
「ええ…。例えば、僕の方から体を乗り出していたら「プロダクション副社長、新人アイドルを襲う」みたいな感じでスクープになるけど…」
菜々子は再び笑ってしまった。
「逆に女の子の方が乗り出しているなら、そんなのスクープにもならないって。写真週刊誌も馬鹿じゃないから、そんなの載せたって仕方ないことはわかるはずだって言うんです。」
「…確かにそうね…」
「ただ、ネットの方が怖いと。」
「!!」
「ネットで、画像を細工されて流された方が怖いから、そっちを警戒しようって言ってました。」
「…なるほどね…」
「でも、僕と菜々子さんの仲は皆知ってるから、さほどスクープにはならないよ…って、なぐさめてくれたんですけど…」
菜々子はくすくすと笑った。
「…それよりも僕は…もうちょっと、菜々子さんに嫉妬されたかったです。」
「!?」
明良のその言葉に、菜々子は声を出して笑ってしまった。
「ごめんね。…でも、いちいちそんなことで嫉妬してたら、私の神経が持たないわ。」
「……」
「明良さん?」
明良の返事がない。菜々子は驚いて、明良を抱くようにして背中を軽く叩いた。
「どうしたの?怒っちゃったの?」
明良の寝息が聞こえた。安心したのか眠ってしまったらしい。
「…なんだ…びっくりした…」
菜々子は微笑んで、枕元にあるライトのリモコンを取り、電気を消した。
・・・・・
翌朝、菜々子は明良と一緒に相澤プロダクションに向かっていた。
「私もどうして一緒に行くの?」
車の中で、菜々子が運転している夫に尋ねた。
「さぁ…先輩が菜々子さん連れて来いって言うから…。」
「ふーん?」
プロダクションビルの地下に車を止め、エレベーターに乗り、社長室に向かった。
廊下で稽古着の若い子たちが、明良に挨拶している。
(まぁ、結構たくさんいるのね。)
明良は微笑んで挨拶を交わしていたが、ある緊張気味な女の子の顔を見て表情を硬くした。
「…おはようございます。」
女の子は丁寧に挨拶していたが、明良は無視して通り過ぎてしまった。
(あの子ね…。)
驚いたように振り返っているその女の子の顔を見て、菜々子はちょっとその子が可哀想に思った。
「ねぇ…明良さん…」
明良の背中に、菜々子は声をかけた。
「何です?」
「おとなげないわよ。」
「……」
明良は黙っていた。
・・・・・
「菜々子ちゃん、ごめんね。急に呼んで。」
相澤が言った。
「いえ、仕事もなかったですから…」
「どうぞ、座って。」
相澤に勧められるまま、菜々子はソファーに座った。
明良は菜々子に背を向け、片方のポケットに手を入れたまま、社長席の後ろにある窓のブラインドを開けて外を見ていた。
(まださっきの女の子の事怒ってるのかしら…)
菜々子はそう思った。
「あのね。菜々子ちゃん。」
「ええ。」
「菜々子ちゃん、ここのプロダクションの役員にならない?」
「え?」
菜々子はその相澤の言葉に驚いて、ふと窓の外を見ている夫を見た。
夫は外を見たままである。
「…明良はさ…反対みたいなんだ…。だって菜々子ちゃん、女優を辞めなきゃならなくなるだろう?」
「ええ…まぁ…今の事務所は辞めなくちゃいけませんものね。」
「ここに俳優部門も作ろうかと思ってるけど、簡単に作れるもんじゃないって明良は言うんだ。」
「私もそう思います。」
「…でも俺としては、明良と菜々子ちゃんに、一緒に仕事をして欲しいんだ。」
「…相澤さん…」
「昨夜の話聞いた?」
菜々子は思わずクスッと笑った。
「明良さんが襲われた話?」
「そうそう。」
相澤も笑った。
「実は前々から菜々子ちゃんに来てもらうって話してたんだけど、明良はどうしても首を縦に振ってくれない。で、昨夜ああなったじゃない。菜々子ちゃんがうちにいてくれれば、ああいうこともなくなると思うからって、今朝電話で言ったら、明良が直接本人に聞いてみてって言うからさ。」
(なんだ…知ってて呼んだんじゃない。)
菜々子はそう思った。夫は背を向けたままだ。
「ちょっとすぐにはお返事できませんけど…前向きに考えてみますわ。」
「ほんと!?」
相澤が嬉しそうに言った。明良が驚いた表情でこちらに振り返った。そして慌てたように駆け寄ってきて、相澤の隣の椅子に座った。
「菜々子さん!」
「明良さん…あのね…。ここの役員になるかどうかじゃなくて…私、もう女優に固執していないのよ。」
「!!」
「明良さんの気持ちは嬉しいけど…。私もいろいろと限界を感じているの。…明良さんもその気持ちわかってくれるわよね。」
「……」
明良は困ったように下を向いた。
帰りの車の中では、明良と菜々子に何か気まずい空気が漂っていた。
「…明良さん?」
「何ですか?」
明良はにこりともせずに運転している。
「…怒らないでよ。」
「…怒ってはないですけど…どうしたらいいのかわからないんです。」
「……」
「菜々子さんが相澤プロダクションに来ることが、本当にいいことなのかどうか…」
「私と一緒に仕事するのは嫌?」
明良は首を振った。
「そんなことはないですけど…。」
菜々子はほっとした。
「でも…本当に女優の仕事を辞めていいんですか?」
「いいわ。」
菜々子は即答した。
「正直、役員とかじゃなくて、あなたの秘書がいいの。公私ともに、あなたのサポートができたらいいと思ってる。」
「!!」
明良が驚いた表情で菜々子を見た。が、慌てて進行方向を向いた。運転中によそ見は危ない。
「そんなにびっくりしないで。…前も言ったけど、私はあなたの妻なのよ。」
「菜々子さん…」
明良は、微笑みながら感慨深げに小さく首を振った。少し涙ぐんでいるように見えた。
・・・・・
−それから1ヶ月後、菜々子は女優を辞めた。「一人の名女優が消えた」と惜しまれたが、潔い引退に賞賛の声が多く上がっていた。
(終)