小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第十六章  水色のサマーバケーション6

 目覚めてからしばらくして、巫女の少女が夕飯を運んで来た。彼女は旅館などで見る、料理を並べたまま重ねて運べるお盆を二段抱えていた。
「御夕飯です」
 そう言われ、鳥子は立ち上がる。そうして、ようやく自分もこの空気から抜け出せる。二人とも切っ掛けを待っていたのだった。
「二人分しかないのだけれど?」
 お盆の数を見て首を傾げる鳥子。
「これだけじゃ足りませんか?」
 少女のその反応は、ある意味正しかった。
「違うわよ! そういう意味ではなくて、貴女の分はどうしたのと訊いているの。それだけじゃ足りないって意味じゃないわ」
 そのやり取りを見て、思わず笑ってしまった。
「あははははっ!」
 鳥子はこちらをジロリと睨み付けて来る。後で覚えてなさいと言わんばかりに、拳を握り締めていた。
 自分は慌てて顔を反らす。
「私は別の場所で食べますので。だからここには御二人の分しか持って来ていません」
「それはいけないわ。貴女の分もここへ持って来なさい。友人の妹に、一人で食事させるなんて事出来ないわ」
 彼女の言葉を聞いて、初めてそれに行き当たった。この巫女の少女はもしかして――
「――巴さんの妹さん?」
 そう呟くと、巫女の少女はこちらを向いて頷いた。
「失礼しました。そういえば自己紹介がまだでした。私は七栄巴の妹。七栄色と申します。以後、よろしくお願いします」
 彼女はそこでペコリと頭を下げて、それで締めとしてしまう。
 色の代わりに、鳥子が補足した。
「七つ栄える色と書いて七栄色って言うの。姉妹揃って似た漢字だから覚え易いでしょ?」
 七栄色と書いて(ななえ・しき)と読むのか。あまり聞かない苗字と名前だった。ただ、どちらも特に珍しい漢字ではないし、違和感は覚えなかった。
 次いで、自分もまだ自己紹介していなかったと思い当たる。色に頭を下げ、言った。
「守野青羽と申します。守る野原の野に、青い羽と書いて守野青羽です。よろしくお願いします、色さん」
「青い羽と書いて青羽……ですか。わかりました。覚えました。よろしくお願いします。青羽様」
 こちらの名前を聞いて、ほんの少しだけ色は目を見開いた。それもほんの一瞬の事で、次の瞬間にはペコリと頭を下げていた。相変わらず、感情の読めない少女だった。
 そのやり取りを終えると、鳥子が笑顔になって手の平を合わせた。色と自分を交互に向いて言った。
「それじゃあ夕飯にしましょう! 色の分も持って来ないとね」
 そう言うと、鳥子は縁側の廊下に出て、台所の方へと行ってしまう。
 特に慌てている様には見えなかったが、それでも素早く、色がその後を追って行く。
「――鳥子様の御手を煩わせる事はありません。お止め下さい」
「――わたしが行かないとどうせ貴女は向こうで一人で食べるんでしょ?」
 それを聞いて、自分は自然と笑顔になっていた。
「……鳥子さんにも気の許せる人がいて良かった」
 ほんの少しばかりそれが寂しくも思えたけれど、それでも嬉しさの方が勝った。
「――よしっ!」
 気を取り直して、彼女達を待っている間に机の上に置かれた食器類を並べる事にした。重なったままのお盆を下ろし、コップを並べ、箸を揃え、食卓の体裁を整えて行く。
 料理を見れば、意外にも精進料理などではなかった。焼き魚やケチャップが添えられたポークステーキなどが並んでいて、かなり豪華だった。
 一つだけ何かわからない物があった。湯飲みを塞いでいる蓋を持ち上げて見ると、それは鶏肉とかまぼこと銀杏が入った茶碗蒸しだった。まだ湯気が出ていて、その上にはちゃんとミツバも乗っていた。
 このボリュームを見るに、鳥子に合わせて作られたのだろう。鳥子だけでなく、自分にとっても好物ばかりだった。自身でもそうと気付かぬ内に、夕飯が待ち遠しくなってしまった。
 早く彼女達が帰って来ないだろうか。こうして待つぐらいならば、いっその事、自分も付いて行けば良かったと、今更ながらに思ってしまったのだった。

 三人での夕食を終えた後、後片付けだけは自分と色の二人でする事になった。
 客人だからと、色からは断られたが、そこは断固として譲らなかった。
 ただし、昨日、今日で二度も倒れている鳥子だけには立ち仕事はさせられなかった。ここだけは自分と色の意見が一致した。
 それに対し、鳥子は文句を言っていたが、真顔で頭を振る自分の表情を見て何も言い返せなくなったのか、「ふんっ」と言ってそのまま部屋に戻って行ってしまった。多分、仲間はずれにされたとでも思っているのだろう。と、思いきや――
「――ねぇ……後で三人でトランプでもしましょう。わたしの部屋に来てね」
 振り返ると、角から恨めしげに顔を半分だけ出して、こちらを覗いている鳥子が見えた。失礼かもしれないが、和服を着た髪の長い女性がそうしているとホラーだった。
「はいはい……わかりました。後で行きますから待っててね」
 苦笑しながら了承する。鳥子はそれを聞くなり機嫌を取り戻し、鼻歌を歌いながら、今度こそ台所から姿を消した。
 それからしばらく色と並んで皿洗いを黙々としていると突然――台所にある勝手口がガチャリと音を立てて開いた。
「――たっだっいまぁ????っとぉ? ヒック!」
 お酒が入ってベロンベロンになっている、見た所三十歳前後の男が住居内に侵入して来た。酒のせいで頭のてっぺんまで見事に真っ赤に染まっていた。どこからどう見ても変質者だった。
「失念していました。勝手口の鍵をかけるのを忘れていました。何たる失態……」
 何やら不穏なセリフを吐く色。表情こそ変わらないものの、舌打ちでもしそうな雰囲気を発していた。
 思わず、自分は皿を取り落としていた。おかしな男の出現と、色の不穏な発言に、注意が散漫になっていた。
 寸での所で、音も無く色がその皿を掴み取ってくれた。彼女は皿を直接見る事も無く、男から目を反らす事も無く、それをしてのけた。本当にこの少女は何者なのだろうか。何だか怖くなって来た。
 男の首から下を見てみれば袈裟を着ていた。どうやら坊さんの様だ。信じられなかった。
「――ったくよぉ??……葬式なのに、酒が飲めるなんて聞いてねぇぞぉう!? 『故人が死んだ時は賑やかに送り出してくれと言っていたので、だから住職さんも御一緒にどうですか?』だってよぉ????!? ぎゃははははははははははは!!!!!」
 ペシリと自分の頭を叩いて、暴風の様に笑い始める坊主。こういう坊さんの事を、何て言うのだったろう。確か――
「相変わらずの“破戒僧”っぷりですね。いい加減御酒を飲むのは止めて下さい。この寺の品位が疑われてしまいます。毎度言っていますが、そこで靴を脱ぎっ放しにしないで下さい。玄関から入って脱ぐか、こちらから入る際は御自分で履物を玄関まで持って行かれて下さい。もし明日の朝それを見付けたら燃えるゴミに出しておきます」
(あれ?……色ってこんな性格だったっけ?)
「上手い! 巫女だけに、萌えると燃えるをかけたってか? ぶはははははははは! つっまんねぇええええええ!」
 再びペシリと頭を叩いて、笑い始める坊主。
(この人、一人でノリツッコミしてる……)
 自分は未だかつて、こんな得体の知れないものを、三森水穂と鳥子以外に見た事が無かった。
「大きな声を出さないで下さい。御客様に迷惑です。もしそれ以上騒ぐのであれば、今日は外で寝てもらう事になりますよ」
 男に負けず劣らず、色も違う意味で怖かった。得体が知れないのは色とて変わらないのだと気付いた。彼女の口から発せられる言葉は、まるで刃物の様な切れ味を持っていた。
「――おい……お前誰だよ? あれか? 色の彼氏か? あああぁん!?」
 シラフに戻ったのであろうか。先ほどとは打って変わって、真面目な顔付きをする坊さん。娘に彼氏を連れて来られた父親の様な表情をしていた。まるで……今にもこちらを絞め殺しそうな表情をしていた。
 今日はよく恋人に間違われる日だった。
「いえ! 違いま――むきゅっ!」
 こちらが言い終える前に、色に口を塞がれていた。そのまま、彼女に代わりに答えられてしまう。
「この方は鳥子様の恩人です」
 色の説明はそれなりに正確だった。自分と鳥子は恋人ではないのだと、色の中ではきちんと修正された様だった。
「うはっ! こいつか!? こいつがか!? 鳥子と駆け落ちした坊主ってのは!」
 ――思い出した。風呂上りに色が『後で誤解を解いておかねばなりませんね』と言っていたのはこういう事だったのか。本当に何て事をしてくれたんだ!
「色から電話で聞いたぞ! よくやった! あのクソみたいな旧家の奴等に一泡吹かせてやったんだろ? 上出来だ馬鹿野郎!」
 ふら付く足取りで、その坊主は土足のまま室内に上がり込んで来た。そのままこちらに近付いて来るなり、肩を寄せられ、バシバシと背中を叩かれた。無茶苦茶痛かった。
 男から咽るほどに強い酒の臭いがしたので、思わず口を押さえてしまう。
 その時だった――バシャッと、坊主の顔に水がかけられた。
 そちらを見やると、色がフライパンを持っていた。どうやらそれで水をかけたらしい。そのコントロールは精確であった。こちらには一滴も水はかかっておらず、かつ、男の顔面だけを的確に濡らしていた。
「酔いは醒めましたか?……全斎様」
 この坊さんは(ぜんさい)と言う名前だと言う事がわかった。坊さんらしい響きの名前だった。
「色……さすがにこれはやり過ぎじゃねぇの?」
 ポタポタと水を垂らしながら、今度こそシラフに戻った坊主は言った。
「ならばこちらで直接御顔を叩かれた方がよろしかったですか?」
 色はフライパンを軽く持ち上げて見せた。
「いえ。結構です。すいませんでした……」
 全斎はビクッと一度だけ肩を震わせて、最後の方はぶちぶちと尻切れになりながらそう言った。
「水は後で私が拭いておきます。全斎様は先に御二人と話をされて来られてはいかがでしょう。それと、ここに“贄”が来た事を本家にも御伝えせねばならないのではないですか?」
「ああ……そういやそういう決まりだったな。鳥子には悪いが、そういう“約束”だからな。本家に先に電話して来るわ。それと、おい! そこの坊主!」
 坊主と言われ、ここに坊主はあんたしかいないと思わず言い返しそうになってしまった。だが、口に出す寸での所で自制する事が出来た。
「お前は鳥子を呼んで来い。俺もすぐに行くから」
「青羽様は中庭を見渡せる一番大きな部屋に御案内しています」
「ああ、あの一番上等な部屋な。なら俺もそこに行く。本家に電話したらすぐにそこに行くから鳥子とそこで待ってろ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、全斎は台所から出て行ってしまった。草履を履いたまま……
「あの人……本当にお坊さん?」
 それは自然と湧いて出た疑問だった。
「どう見てもお坊さんの姿にしか見えませんが?」
 ――いや、格好の問題じゃなくて……
「鳥子様は最初御連れした部屋におられます。場所は覚えていますか?」
「多分大丈夫だと思う。片付けまだだけど、ごめんね。先にご挨拶した方が良いだろうから、こっちを優先するよ。あの人がここの住職さんなんでしょ?」
「そうです。あれがここの住職です。手伝って頂いてありがとうございました」
 ペコリと頭を下げて、色は背を向けた。
 自分も自分の役割を果たすため、動き始めた――

 鳥子を連れて、自分が通された部屋へと戻って来ると、既にそこには全斎がいた。机は隅の方に寄せられていて、部屋の中心には座布団が品の字型に三つ並べられていた。その内の、一つだけ向かい合って並んだ方の座布団に彼はあぐらをかいて座っていた。
「――久し振りだな鳥子。先ずは座れ」
 軽く会釈してから、澄ました顔をして、鳥子は向かって右の座布団に座った。やはり正座だった。自分はその隣、鳥子の左隣の座布団に座った。自分も正座しておく。
「単刀直入に言うぞ。そいつをここへ連れて来たのは何でだ?」
「この子に呪いが刻まれてしまったからよ」
 鳥子からこの子と呼ばれ、少しだけムっとしたが、全斎の前なので態度に出す様な真似はしない。
「その事を本家は……そうだよな、まだ知らないんだろうな。お前が一月前に家出したって、さっき聞いた所だからな。もし知られれば、あいつら喜ぶだろうしな……ちっ、面倒くせぇ……」
 全斎は露骨に舌打ちして見せた。本当に彼は僧侶なのであろうか。
 その会話について行けず、内心しどろもどろになっていると、全斎は今度はこちらに顔を向けて口を開いた。
「おい坊主。と言う事は、お前あれか? 鳥子から呪いを移されたんだな? どういう経緯でだ?」
「移された覚えはありません。鳥子さんが倒れている所を助けようとしたら鳥に襲われただけです」
 それを聞いて、全斎は目を見開いた。
「――あいつか? あいつに見初められたのか?……難儀な事だな」
 全斎はどこか遠くを見る様な目付きになった。しばし思案していたかと思うと、全斎は再び鳥子に向き直った。
「それで鳥子、お前、この事態をどうする積もりだ? 本家の話は後でまとめてする。先ずはお前達の話から済ませるぞ」
 鳥子は相変わらず、澄ました顔のまま、語り始める。
「この子に刻まれた呪いを、巴がかつてそうした様に、わたしに移――」
 そこまで聞いて――自分はその言葉を吐いていた。
「――移さなくて結構です」
 その瞬間――鳥子と自分の間の空気がパリンと音を立てて砕け散った。
 横を向けば、砕けた空気の破片が実際に散らばって見えるわけもなく、そこにはこちらを睨み付ける少女だけが在った。
 こちらを今すぐにでも殴ってやりたいのだと言わんばかりに、鳥子は感情を剥き出しにしていた。
「………………」
 しばし全斎は自分達のそのやり取りを肘を突きながら傍観していたが、やがてへっと笑ってから口を開いた。
「あいつも、巴も、お前らも……何度繰り返す積もりなんだか……」
 全斎は額に手を当てると、畳に視線を落としたのだった。その姿はまるで、泣いているかの様に見えた。

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