小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

  序章  灰色のトリコロール

 春――それは進学と進級の季節……それから三、四ヶ月が経った。
 今は夏。夏季休暇に入る頃合い。若者達が青春を謳歌する季節。
 この国にある学校の入学と始業時期は、四月の頭である事が大半で、一部の海外の学校の様に夏季を入学と進学の節目とする学校はまだまだ少ない。
 夏季を入学時期とする学校は“この国で一番偏差値の高い大学”以外、わたしは知らない。まだそれだけ珍しい事なのだ。
 七月の三週目にも入ると、全国的に大半の教育機関が夏季休暇に入る。
 高校生にとってはあらゆる期待を抱く、待望の期間だと言えた。
 ――コンビ二エンスストアの中に逃げ込んで十五分余り。雑誌コーナーの前に立つ事はせず、一つ棚を隔てたカップ麺のコーナーから頭を出し、外の様子を窺う。こう言う時、長身である事が活きる。
 今の時間帯は丁度朝の通勤、通学ラッシュで、街中が人で賑わう。
 朝食にするのか昼食にするのかは判らないが、弁当やパンを買って行く学生や背広姿の大人達が引切り無しに入店と出店を繰り返している。
 二つあるレジには長蛇の列が出来ている。店の奥に居た店長も今はヘルプに出て来ていて、忙しそうに商品を袋に入れてバイトのサポートをしている。
 一人だけで回しているレジの方を見ると、慣れた手付きで素早く会計と袋詰めを一人で全て済ませているのが見えた。その処理速度は、二人係でやっているレジに、決して負けてはいない。
 チラリと――そんな光景を横目で見てから、前方へと視線を戻す。
 ――“奴等”はもう近くにいないのであろうか。そろそろここを出て、別の場所に逃げ込むべきかもしれない。一ヶ所に留まれば、いずれ追い着かれてしまう。
(――いいえ……もう少し様子を見ましょう)
 もうしばし、外を観察する事にする。左から右へ、右から左へ。視線を右往左往、行き来させる。必要以上に。細やかに。神経質なほど。外の様子をじっくりと窺う……――慎重にならざるを得なかった。
 いよいよ“彼等”と“奴等”は手段を選ばなくなりつつある。こちらの事情を一切汲まなくなって来ている……
 逃亡を始めて既に一ヶ月が経つ。気が休まる時は未だ来ない。早く“あの場所”へ逃げ込みたい。
 この店内にいる学生の多くは、進学、あるいは進級を果たしてからのこの数ヶ月を、そう自覚してはおらずとも、充実して過ごしたはずだ。
 そして、事実充実した時を過ごした者ほど、本日より始まる夏季休暇に対する思いに期待が膨らむはずだ。
 恋人がいる者は、時間が合う度に会っては交流を深めるのだろう。出かける前の日の晩には、出かけた先で恋人と過ごす際の事を空想し、思いを巡らせるのであろう……――手を繋いで、微笑み合いながら通学する高校生カップルの姿が見えた。その姿は何とも初々しく、そして微笑ましい。彼等は左から右へと、流れて行く。
「………………」
 胸に――ズキリと痛みが走る。それは物理的なものではなく、羨望と嫉妬が入り混じったものが正体だ。実際に物理的に痛みを覚えかねない疼きが、比喩ではなく胸の中に生じている。こんな程度の事で醜い感情を抱くわたしは……本当に救いが無い存在だ。このままでは、心まで醜く成り果ててしまう……
 その時、新たに、一人の小柄な女子高生がコンビ二の前の通りに姿を現した。
 その表情は何とも形容し難いものだった。鬱屈としている表情から一転、笑みがその内湧き上がって来る。それが止められないのか、ニヤニヤとしてしまうのを懸命に堪えている。
 剣道に使う防具が入れられているのであろうスポーツバッグと、旅行用のバッグ、そして竹刀が納められた細長い包みを肩に掛けている少女が通り過ぎて行く。左から右へと。
 まだそれほど使い込んではいない二つのバッグと竹刀の包みの“微妙な新しさ加減”から、彼女が新入生――高校一年生だと窺い知れた。
 夏季休暇に入ると同時、恐らく合宿でもあるのだろう。
 部活に入った者は、忙しくも充実した夏季休暇を過ごすはずだ。部活とは青春そのものである。勉強以外の何かに打ち込むと言う事は、とても尊い事なのだとわたしは知っている。

 ……青春――その輝かしい時を、わたしは一年前に、確かに過ごしていた。
 一族の多くの者達は“贄”である者には教育など必要無いと言う。けれども、せめて高校までは通わせるべきだと主張する者達が一部いてくれた御陰で、わたしは進学を果たせた。
 けれどもすぐに事情が変わった。進級してからは“贄の責”を負う事が増え、以前よりも更に自由が無くなった。そして、遂には軟禁と監禁の境の様な状態と化した。
“前任者”である“贄の責を負う者”が亡くなった為だ。
 わたしが一年生の頃――高校一年生の頃には“贄の責の儀”により、既に学校を休みがちであった。元より度重なる“呪い”によって、満足に動けない日の方が多かった。
 体育の授業は入学よりずっと、いつも見学であった。こちらの方は特に問題は無かった。極たまにそういう生徒が入学して来る事はままある。それは“普通の例外”として自然と受け入れられた。
 だが、それ以外の授業ではそうも行かない。体を動かす事は出来ずとも、座学に関しては言い訳は利かない。出席日数が足りず、補填が必要となった。それは夏季と冬季の長期休暇にある補講を受ける事でどうにかなった。その補講ですら幾らか休む事はあれど、無事、わたしは二年生に進級を果たす事が出来た。
 去年の夏季休暇中は補講漬けだったのを今でも覚えている。それでも楽しかった。充実していた。
『試験の成績は良いのにね』と、共に夏季補講を受けた級友達と教師が、苦笑交じりに『どんまい』と、そう励ましてくれたのを思い出す。それはもう、大分遠い昔の事の様に思えた……
 しかし、二年生になってからのこの三、四ヶ月余りは、まだ一度も学校に通えていなかった。
 ここから県を一つ隔てた場所にある、とある私立の名門女子高。それがわたしの通うべき高等学校だった。
 そこは私立の名門校であるが故、鼻持ちならない者も多かったが、わたし自身もまた世間ずれしている自覚があった。だからそれはお互い様だからと、とやかくは言えない。
 それでも友人は幾人か出来たし、それなりに楽しく過ごせていた。
 けれども、それらはあっさりと取り上げられてしまった。“贄の責”を負う事を最優先とされているが故に、通えない日々が続いた。
 学校へはいつも通り、病気の療養中と届けられているであろう。
 退学こそまだしていないものの、このままでは少なくとも進級は絶望的だった。夏期講習を受けて、残りの二学期と三学期をほとんど休まず登校すれば大丈夫であろうが、それは“本家”にいたままでは先ず持って不可能であった。
 今一度、自分の身辺を整理しなければならない。“本家”との関係を今一度見直し、必要最低限の自由だけでも掴み取らねばならない。そうしなければわたしは“学生”である事すら出来ない。
“贄”である以上は“呪い”が刻まれ続けるさだめにある。それは避けられない事だ。重要なのは、それを可能な限り先送りにさせる事だった。
 新たに刻まれた呪いは、新たな“苦痛”を生む。それはいつしか押さえ切れなくなり、堪え切れなくなり、病や痣となって、肉体に見える形で顕在化する。
 これより更に呪いが刻まれ続ければ、最終的には己の力で立って歩く事すら出来ない時が確実に来る……死んだ“前任者”――“彼女”の様に。そうなれば最後だ。
 動けないのを良い事に、生きたまま、死ぬまで“贄の責”を負い続ける事になる。
 わたしは“前任者の彼女”――“母”の様にはなりたくなかった。
 度重なる“贄の責”により、わたしが十の年の頃には布団の上で寝た切りとなってしまった母。自力で上半身を起こす事はおろか、口を利く事すら出来なくなってしまった。
 永久に治らない、永遠に鈍痛を与え続ける、白い肌に刻まれた、醜い火傷の痕の様な、鉤爪で出来た傷痕の様な、黒い無数の刻印が織り成す斑模様……
 わたしは……ああはなりたくないと思った。わたしは自由に生きたいと思った。例え話としてではなく、真に、自由に空を飛ぶ鳥になりたいと思った――心の底から。
 そうして、一ヶ月前に、わたしは母の死の喪に服する事すらも捨てて“本家”を飛び出した。“本家”からの離反を完全に決意したわけではないが、それに近い形と向こうからは見なされているであろう。執拗な追っ手の数がそれを裏付けている……

 ――そうだった。わたしは今逃亡している最中なのだった。
「………………!」
 その時、わたしはハッと我に返る。気付けば、通学、通勤の波が引いていた。
 レジの方を見ると長蛇の列は嘘の様に消えていて、閑散としていた。レジの片方には「お隣のレジへお願いします」と書かれた札が立てられてすらいた。
「…………っ!」
 小さく舌打ちし、客が自分以外にはいない店内を慌てて出る。人ごみに紛れて姿を眩まそうと思っていたのに、思考の迷宮に迷い込んでいる合間にその機会を失っていた。
 コンビ二の前、駐車場を駆け抜けて、通りに出るなり、左右を見渡す。幸い、追っ手の姿は無かった。空を見ても“黒い鳥”の姿は見えない。
 ――“どちら”からも、まだ見付かってはいない様だ。だが安心は出来ない。早く身を隠さなければならない。
 少し離れた所に、まだ通学途中の学生の一団が見えた。その距離はおよそ五十メートル程。
 人の身を隠すには、人の中であるべきだ。木を隠すには森の中と言う言葉がある様に。
 わたしは学生達の後を追い、その中に身を紛れ込ませた。わたしは女子にしてはやや長身である為、身を屈ませて、素顔を隠す様に俯むきながら歩く。そうしなければ目立ってしまう。
 本日、全国的に大半の教育機関が終業式を迎える。昨晩、インターネットカフェのパソコンで調べたから間違いない。
 明日からは、平日の昼間に十代の若者が街中を歩いていても何ら不思議ではなくなる。だからこそ、わたしも逃げ易くなる。姿を隠し易くなる。
 周囲の学徒達の足取りは軽く、表情も五割り増しで明るく見える。それに比例するかの様に、日射を受ける白い学校指定服も一際眩しくキラキラと輝いて見えた。それは若者達の可能性そのもの。前途ある者の輝きと言えた。
 夏休みを迎える大分前に衣替えは済んでいた。夏服である白いセーラー服やポロシャツの一団の中では、上下黒い長袖と長裾のスカート姿のわたしは浮いてしまう。白鳥の群れの中に、烏が一羽紛れ込んでいる様なものだ。
 おまけに、二の腕までを覆う黒い手袋と、黒いタイツまで纏っていては、正気を疑われるであろう。

 陽炎が立ち昇る程の炎天下の中、こんな姿であらねばならぬ事……

 白い学生の集団の中で、黒い姿で一人彷徨わねばならぬ事……

 奇異の目に曝されながら、ヒソヒソと陰口を囁かれる事……

 森の中にあって、その木はなおも異質さを醸し出すものなのかもしれない……

 白き人々の中にあって、わたしはなおも黒く異質に在り続ける……

 わたしは思う。それはまるで――“呪い”の様だと。

 それは、決して周囲と“混じわる”事の無い……白と黒とが織り成す……灰色のトリコロールだった――

-2-
Copyright ©雪路 歩 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える