〜 肆 〜
「……頭いてぇ」
次の日。
俺は見事に風邪を引いていた。
元々熱っぽかったところに激しい運動、その挙句にぶち切れて暴れている間に身体のあちこちにダメージを喰らい、頭を冷やすようにと雨野雫の冷水をぶっかけられ、その恰好のままで相手に怪我させた反省文まで書かされたのだ。
ある意味、風邪引いて当然かもしれない。
「……ま、ありがたいかもな」
正直な話、あれだけ暴れ回り……クラスメート全員から脅えたような目で見られてしまったのだ。
──あんな目で見られたのは、久々、だったな。
俺は熱い息を吐きながら、ふと思い出す。
……暗黒の中学三年生の頃を。
正直に話したが故にクラスの不良に絡まれ、そいつらを撃退したら今度は高校生の先輩とやらが出てきて、そいつらを叩きのめしたら今度は暴走族が……
負の連鎖。暴力の連鎖。恨みの連鎖。
腕力も武術の心得もない癖に、無駄にプライドが高く、自分の力では何も出来ない癖に徒党を組んで偉そうにしたがるクズ共を、真正直に正面から追い払い続けたあの日々。
……あの時代も、級友たちからあんな目で見られたっけ。
「明日から、教室に入り辛いだろうな〜」
思わず俺は黒歴史を思い出し、熱いため息を一つ吐く。
教室の中で腫物扱いされ、誰一人寄って来ず、存在そのものを疎んじられる。
そんな教室に入っていくのは、毎日が苦痛だった。
幾ら古武術をやっていても、喧嘩に勝ち続け東西南北中央不敗でも、あの視線と空気に耐えられる術はないのだから。
体調は最悪だし、気分も最低だが……タイミング的には丁度良かった。
そういう訳で、起きるのも億劫な俺は二度寝を始めることにする。
無断欠席?
──多分ならないだろう。
この部屋にいながらにして心の声が丸聞こえのお隣さんが、先生に教えてくれるだろうから。
ドンッ!
と、タイミングよく壁が叩かれる音がした。
ちょっと怒り気味っぽく女の子にしては荒々しい一撃だったが……聞いてくれているのは間違いない。
しかし、ここの壁、防音がそれなりにしっかりしているんだが、心の声はどうやら丸聞こえらしい。
──心の声ってのは、普通の物音とは違う響き方をしているのだろうか?
一瞬だけ、そんな疑問が俺の頭に浮かぶものの、すぐに脳にへばりつくような睡魔に襲われた俺は、すぐに思考を言葉にする気力すら失われてしまう。
──悪い、な。
俺は心の中でそんな感謝の言葉を一度唱えると、目を閉じて意識を闇の中に手放したのだった。
目が覚めたら既に放課後のようだった。
窓から見える空は真っ赤で、この世の終わりを思わせるような、そんな血まみれの空が一面に広がっている、まさに逢魔ヶ刻と呼ぶに相応しい空模様で。
そんな中、俺の部屋には誰もいない。
相変わらず身体は重く、熱い。
このまま……誰からも見放されたまま、この世界で一人きりで消えてしまいそうな、そんな感覚。
──そう言えば、昔もこんな感じだったか。
熱でぼんやりした頭で、色々と思い出す。
古武術なんてマイナーなものを曽祖父が俺に教え始めたのも、病弱だった俺を見かねてだったとか聞いたっけ。
そして、病弱だった俺を介抱してくれた従姉妹達には、今でも頭が上がらない。
あの頃は天使みたいに素敵な姉に思えたものだが……俺が元気になってからは、遠慮の欠片もなくなって……げほげほ。
あ〜。
俺がおもらししたのを洗ってあげたとか、そういうネタで散々からかわれたっけ。
うわ、思い出したら死にたくなってきやがった。
──ただでさえ寒くてだるくて人生が嫌になっているのに……。
……熱の所為だろう。
思考がマイナスに向かっているのが自分でも分かる。
止めようと思っても、一度転げ始めたネガティブ思考は止まらない。
──あ〜。もういいや。このまま逃げよう。
こんな学校辞めよう。
軍事機密なんて知るか。
……逃げりゃ良い。
そして、俺の黒歴史を知る従姉妹もいない、元同級生もいない、ついでに超能力者なんかもいない新天地でゆったりと過ごそう。
畑とかを耕すような……のうりんって感じの生活を送って。
──んで、俺は新天地でバストの大きな彼女を……
そんなことを考えている時だった。ドアがノックもなしにいきなり開く。
「……和人、何考えていた?」
部屋に入ってきたのは、怒った顔をした、凄まじく綺麗な女性だった。
目はくっきりと大きく、鼻はスラッとしているのに高すぎない。
顎のラインも滑らかで、そこからうなじへと続くラインも芸術的だ。
白い肌が夕日に照らされて赤く輝いているのが幻想的で、目の前の女性が本当に目の前に存在しているのかさえ、疑わしくなってくる。
年のころは俺と同じくらい。
ブラウンの流れるような髪は夕日を鮮やかに弾き、まるで光の妖精がダンスを踊っているかの如く。
まさに、俺の最期を看取るのに相応しい天使のような女性と言える。
「……だから、そのネガティブ思考、やめて」
窘めるような女性の声。どこかで聞いたこと、あるような……
──って!
何処ででも売っているような、淡い水色のトレーナーをくっきりと押し上げて、安物を芸術品にまで昇華させているその二つの豊満極まりないバストはっ!
ようやく俺は我に返る。
この目の前におわすお方をどなたと心得る。
畏れ多くも先の副将軍……じゃなかった、俺の崇拝するおっぱい様、数寄屋奈々その人である。
寝惚け&熱に浮かされた所為でネガティブに向かい続けていた俺の思考回路がようやく正常へと戻ってきた。
自分が如何に失礼な態度を取ってしまったかに気付いた俺は、咄嗟に飛び起きて我が崇拝の対象に五体投身の礼という、全身で地面に這い蹲る礼をやらかそうとする。
だけど、熱にやられた俺の身体は思うように動かず、ベッドの上でへたり込む。
「……私の顔を見たの、本当に初めてだったの?」
奈々のそんな呆れた声に、俺は返す言葉を持たない。
だって、その……視線が顔に向かう前にその、誰の目をも奪おうとする素晴らしき至高の財宝へと向かうのは男性として正常な衝動な訳で。
男なら基本的な反応である。
と言うか、さっきはちょっと熱の所為で弱っていただけだ。
ちょっと弱気になっていたから、目の前の少女を末期に迎えに来た天使と勘違いするような、妙な思考回路に捉われていただけで。
だから間違いなく、俺はコレが素。
ベッドに座り直した俺の内心の言い訳に、ため息を一つ吐くおっぱい様。
「……かなり弱ってるわね。ご飯、食べられる?」
「えっと。少しぐらいなら。……っと、悪い」
おっぱい様の言葉に素直に頭を下げる俺。
出てきた言葉はあまり素直っぽくなかったが、流石に正面向かってお礼を言うなんて、照れくさい。
そのまま、奈々が持ってきてくれたトレイを受け取る。
トレイの上に乗っかっているのは、何の変哲もない、ただのお粥だった。
……間違っても参鶏湯とかいう変なメニューじゃない。
普通のお粥なんては食堂にはなかったハズだから、もしかして食堂の人がわざわざ俺のために作ってくれたのだろうか。
「……そういうことにしておく」
はて?
熱で頭の回転が鈍っている俺は奈々が少しだけ憮然とした声で呟いたその言葉を特に疑問に思うでもなく、お粥を口に運ぶ。
美味くもなければ不味くもない。
熱々の米がふやけるくらいに煮られているだけという、まさに普通のお粥だった。
「……ふん」
あれ? 急に不機嫌になったような……
それほど食欲はないつもりだったけど、半日以上何も食べていなかった俺の身体はやはり食べ物を欲していたようだった。
一口食べると味とか食欲とかに関係なく、次々と手が口が食べ物を求めて動き続ける。
その様子を椅子に座って興味深そうに眺めるおっぱい様。
結局、最後の最後まで味は普通だった。
「ごちそうさま」
「……おそまつさま」
何となくそんなやり取りを交わす。
ただ、会話が続かない。
考えてみれば、おっぱい様とは一対一で、面と向かっての会話をした記憶がなかった。
脳内思考に突っ込みを入れられることは多々あるんだけど。
……こう、改めて何かを話そうと思うと間が持たないというか。
「……そうね」
俺の思考を読んだおっぱい様が微笑む。
やっぱその笑顔は綺麗で、ちょっと見とれてしまう。
……その両腕に押されるように、さまざまに形を変える豊満にして弾性に富んだ二つの膨らみではなく、彼女が少しだけ面白そうに微笑んだ笑みに。
俺らしくもないその事実が、間が持たず会話を探そうとする俺の焦りを加速させる。
──えっと。何を話せば……
頭の中がぐるぐると回転している割には、思考に結論が出ない。
熱暴走ってこんな感じだろう。
……そりゃこんな状況に放り込まれたら、精密機器なんて壊れるだろうな。
なんて、どうでも良いことばかりが頭に浮かぶ。
──ああっと、会話会話会話会話会話会話何か会話会話会話話題話題話題話題。
そうやって何を話そうかと悩めば悩むほどに思考回路はショート寸前でムーンライト伝説の歌が何故か鳴り響き、そうやって俺が悩んでいる様子を見ておっぱい様が楽しそうに微笑むという……傍から見れば何をやっているんだか分からない、二人のやり取りが体感時間で三時間ほど続いた頃のことだった。
……いや、実質五分くらいだったのだろうけど。
「やっほ〜、元気してる?」
突然、窓からお邪魔虫、もとい亜由美のヤツが飛び込んできたのだった。