小説『π>ψ』
作者:馬頭鬼()

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「さて、と」

 体育館についた車椅子の少女……檜菜先輩は、先生たち相手に体育館の使用許可を一瞬で勝ち取ることに成功していた。
 一年一組の授業中だったのに、一組全員の授業を取り止めさせてまで、である。

 ──檜菜先輩って、一体どんな権限持っているんだか。

 そんな訳で、苦々しい表情の一組担任のお局様や、授業を中断させられた一組の面々、俺たちについてきた二組のクラスメート達。
 それら全員が俺と檜菜先輩を見つめてみる。
 ……ただ一つだけ気になるのは。

「舞斗! てめぇ、何で女子の制服着てやがるんだ!」

「う、うるさい! 貴様には関係ないだろう!」

 思わず叫んでいた俺の問いに返ってきたのは、顔を真っ赤にした舞斗の怒鳴り声だった。
 いや、確かに、まだ顔の腫れが引いてないから超能力の授業を休んでいるってのは理解出来るんだが……それだけでは女子の制服を着ているという理由にはならない。

 ──しかし、女顔だから女子の制服が似合いすぎているな、コイツ。

 真っ赤になって俺に怒鳴り返す辺り、彼にも彼なりの逆らえない何かがあるのだろう。

「ふわ」

 あ、舞斗を見て委員長が倒れかけた。
 おっぱい様がその身体を支えられて形を変えている。

 ──委員長、お礼はするのでその位置を俺と代わってくれないだろうか?

 っと。
 俺が要らんことを考えている間に、気が付けば車椅子を押していた舞奈さんも野次馬の中に紛れ込んだようで、俺と檜菜先輩は体育館の中央部で対峙している。

 ──って、ちょっと待て!

 俺は思わず心の中で叫んでいた。
 これって……もしかして戦うってことか?
 この、手も足もない、車椅子の少女と?

「……ちょ、ちょっと。先輩?」

「はっ。手加減なんてしていたら、お前、死ぬぞ?」

 俺の躊躇を見抜いているように、車椅子の少女は笑う。
 笑いながら学年主任の方を向いて頷く。
 お局様は渋々といった表情で手を上げると……

「始めっ!」

 と、決闘開始の宣言をしやがった。
 いつものようにふざけた開始の合図ではなく、本当に決闘の立会人になったかの如く、真剣な表情で、だ。
 その声にただならぬものを感じた俺は、気を引き締めると軽く構える。
 ガードよりも回避を主体とした、両手を腰辺りに配置することでガードと攻撃どちらにも対応できるようにしつつ、腰は落とさずに軽くステップを踏む……いつ何が来ても反応できるように……そんなアウトボクサーっぽい構えである。
 俺の習った古武術は相手の重心移動を読んで先読みする技術系統が多い。
 つまり、車椅子の相手が超能力を使ってくるような事態にはあまり向いていないと咄嗟に判断した構えだったのだが。

「……へぇ。様になってやがる」

 俺の構えを見て笑う檜菜先輩。
 いや、実際のところこの構えを取ったのは、四肢のない少女相手に殴りかかるのも気が引けるから、防御に徹して諦めてくれるのを待とうという消極的理由からだけど。
 まぁ、この『夢の国高等学校』に在籍している以上、彼女も超能力者なのだろうけれど、一年の面々の能力を見る限り、彼女のそれほど脅威ではないだろう。
 一瞬でそこまで判断した俺は、守りに徹することを選んだのだ。

 ──だけど。

 その考えが甘いものだと知らされたのは、わずか一秒後のことだった。

「なら、軽く行くぜ?」

 そう軽く笑う檜菜先輩。

「つっ?」

 次の瞬間、突然視界がブレた。
 頬に、何か固いモノで殴られたような衝撃が走ったとしか言いようがない。

「……な、な、な?」

 慌てて周囲を見渡すが、周囲には何もない。
 空気の塊や石礫みたいな、距離を離れても打撃を加えられるようなモノは、何も。
 そもそも、誓って俺は油断なんて欠片もしていなかったのだ。
 ……なのに、何かが顔面に当たるまで、それを知覚できなかった。

「へっ。どうした?」

 車椅子に座ったままの少女は、俺の反応を見て笑う。

「がっ?」

 次の瞬間、腹に突然の痛み。
 理解は出来ない……が、突然、何かに殴られた感触。
 羽子の能力みたいに、風の塊がぶつかった感じじゃない。
 もっと硬質な……そう、本当に拳で殴られたような感触が一番近い。

「っ!」

 何となくやばい気がしたので、勘でスウェーバックをしてみる。
 すると、聞こえてくる風切り音や肌に感じる風から、目の前を何かが通り過ぎていったのが分かる。
 この状況から察するに……檜菜先輩は、車椅子に座ったままの体勢で、見えない何かを操っている、らしい。

 ──恐らくは……拳大の大きさの塊。

「へぇ、かわしやがったよ、コイツ」

 俺の反応が面白かったのだろう。本当に楽しそうに笑う檜菜先輩。

「じゃあ、本気で行くぞ?」

 ……いや、勘弁してください。さっきのはただの勘なんだから!
 と、泣き言が脳内に浮かぶが、正直な話それどころじゃない。
 何しろ、先輩の攻撃は見えないのだ。避けるとか防ぐとか出来る筈もない。
 ただ、殴られたダメージ自体はそれほどキツくない。
 少女の力で殴られたかのような、そういう程度のダメージである。
 とは言え、何処から来るか分からない以上、筋肉を締めて衝撃を受け止めることも出来ない以上、少女の力で殴られたダメージであっても馬鹿には出来ない。
 避けることも防ぐことも出来ない以上、このままではリーチ差で俺が一方的に火だるまになるのは明白だった。
 である以上……

「おっ?」

 ──突っ込むしかない!

 即座に俺はそう判断すると、重心を前に運んでいた。
 ……攻撃こそ最大の防御と言う。
 曽祖父の教えは「攻撃よりも防御を優先しろ」だったが、防げない相手にはそのセオリーも通用しない。
 だから、俺は何も考えずにまっすぐに最短距離を車いすの彼女目がけて突っ込んだ。

「おわっ!」

 次の瞬間、何かに足を掴まれてひっくり返る俺。
 慌てて受身を取った俺は、転んだ勢いをそのままにすぐその場で起き上がる。
 しかし、先ほど足を掴まれた感触は……女性の手、だったような。
 ……つまり、彼女は……

「……見えない手、か」

「へっ。不可視の手(インビジブル・ハンズ)ってんだよ。よく気付いたな」

 俺の呟きを聞いて、感心したような表情の先輩。

「!」

 次の瞬間、横面に殺気。
 慌てて手を上げガードすると、そこに拳の当たる感触!
 ……防げた?

「次っ!」

「がっ?」

 そう安堵した瞬間に、次はボディに拳が突き刺さる感触。
 見えない打撃なんて、偶然以外に防げるハズもない。
 腹筋に力を入れることも出来ないままに腹を殴られた所為で、呼吸が出来ない。

 ──多分、次は顔面。

 ただの直感で俺はガードを上げたが、そのガードが見えない手に掴まれ、手が下げられる。

「……なっ?」

 腕力自体は俺よりも遥かに弱いみたいだが、人間の腕という構造上、力の入らない方向というものがある。
 そちらに力をかけられた以上、どう頑張っても抵抗なんて出来るハズもなく。
 ……ヤバいと思った瞬間、ガードが下がったこめかみに衝撃が走っていた。

「……ぐっ」

 顎を揺らされた俺は、思わず膝を付く。
 そこへ上から手のひらが背中に叩きつけられる感覚。
 脳へのダメージで踏ん張りの利かなかった俺は、完全に床に這いつくばってしまう。
 その挙句、両腕両足を見えない手に掴まれた感触。
 脳が揺らされて身体に力が入らない以上……もう身動きも取れなかった。

「へへっ。どうだ? この陸奥檜菜の不可視の手は?」

 笑い声が体育館に響き渡る。
 ただ、俺の無様な姿を見て笑っているのは車椅子の先輩だけだった。
 普通人が這いつくばっているというのに、周囲でこの公開処刑を眺めている一年生の超能力者達は、差別も確執もなく、この戦いに見入っていた。

 ──いや、違うか。

 差別や確執を忘れたのではなくて、目の前で何が起こっているかも理解できないから呆然としているだけなのだろう。
 周囲には俺を蔑むような視線がなかったことに安堵した俺だったが……・

「……なん、だと?」

 次にその眼で見た光景に、思わずそう呟いていた。
 何しろ……誰も押していない筈の彼女の車椅子が、こちらに向かってゆっくりと走り出していたのだ。

 ──これは……見えない手で、車椅子の車輪を廻している?

 俺の手足をそれぞれ押さえつけている手と、車椅子を操る手……つまり、彼女の『手』は最低でも六本もあるという計算になり……
 繪菜先輩との戦いは、つまり……腕が六本もある阿修羅と格闘技で戦っているようなものなのだ。

 ──勝てない。

 そんな、絶望的な感覚が身体を支配する。
 諦観が身体を支配した所為だろうか。
 脳の揺れは少しずつ治まってきたというのに、握ろうとする拳に、立ち上がろうとする脚に力が入らない。

 ──このまま倒れたままで、このリンチが終わるまで寝ていれば……これ以上、痛い思いもせずに……。

 そんな弱い気持ちが押し寄せ……起き上がる意思すらなくしそうな。
 ……その瞬間。

「どうした? オレのこの能力を卑怯だと罵るか?」

 笑い声。
 こちらを……手も足も出せない俺を笑う声。
 その笑い声を聞いた俺は、知らず知らずの内に奥歯を噛みしめていた。

 ──何で、俺が、超能力なんて理不尽極まりない力で、こんな無様な姿を晒さなきゃならないんだっ!

 ──しかも、俺が普通人ってだけでっ!

 俺の頭の芯は、怒りによって焼け付きそうだった。
 そのお蔭で諦めかけていた俺の四肢に力が戻る。
 何としてでも起き上がって……この俺を笑うヤツに、せめて一発だけでもっ!
「がぁあああああああああああああ!」

 俺は吠えながらも手足を掴む何かを強引に振り払っていた。

 ──古武術?

 ……知るか、そんなもの。
 俺はただの怒り任せ、力任せで強引に立ち上がる。
 その瞬間を狙われた。
 見事と褒めたくなるほどのタイミングで足に何かが絡み、バランスを崩した俺は、またしても床に叩きつけられる。
 顔面を庇ったからダメージはないものの……立ち上がることすら出来ないというこの状況は俺の闘志を大きく削いでしまっていた。

「くっくっく。さて、舞奈」

「……趣味が悪いわよ、檜菜ちゃん」

 そう呟きながら、車椅子の少女は俺から視線を離し、ギャラリーに顔を向けていた。
 視線の先にいた舞奈さんはその合図にため息を一つ吐くと、超能力を発動させる。
 彼女の眼前から突如虚空から生えてきたのは、細身の刺突剣だった。
 どうやら舞奈先輩の超能力は、弟である舞斗と似たような能力のようだった。
 その剣は繪菜先輩に対する援助という訳ではないらしく、何故かこちらに飛んできて、倒れたままの俺の目の前に刺さっていた。

「取れよ。これで対等だろう?」

 俺の上から降ってくる笑い声。
 その声に顔を上げた俺の視線の先には、挑戦的な笑みを浮かべたままの檜菜先輩が、絶対的な支配者の如く俺を見下ろしていたのだった。

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