〜 陸 〜
目覚めは快適だった。
何しろ、目の前に桃源郷が広がっていたのだ。
「……思ったより、元気みたいね」
こんな至近距離で下から見上げるのは初めてだが、凄まじいものだ。
これほどの大容量を支える辺り、ブラジャーというものは人類が服飾を作り始めて以来、最高の発明品と言えるのではないだろうか?
……何しろ重力に逆らっている。
それは、人類が歩んできた歴史数百万年の末、ほんの百年位前にライト兄弟がとんでもない苦労を重ねてようやく出来たことなのだから。
「……本当に元気そうね」
っと。崇高なる神器の向こう側から呆れたような声がした。
その声に俺は頷きつつも、意思を総動員してようやく神話の如き芸術から目を離し、周囲を眺める。
これは……保健室か。
「……左手の怪我は、縫うほどじゃなかったそうよ」
おっぱい様にそう言われ、俺は怪我をしていたことを今頃になって思い出す。
左手を見ると、包帯が巻かれていた。
手を眺めながら俺は、左手を開閉することで感覚を確かめてみる。
──違和感はあっても、痛みはないな。
実際、日本刀を持った曾祖父に追いかけられた修業の日々では、この程度の怪我なんて日常茶飯事だったので、それほど気にもならない。
左手の包帯から目を離した俺は、身体を起こす。
──見上げるのも圧巻という感じで好きだったが、それよりも正面から見る方が好きだな、やっぱし。
……っと。
──レポートを仕上げなければならない。
不意に使命を思い出した俺は、ベッドから出ようと身体を動かす。
「っと。こうしてはいられない。悪いが……」
「……繪菜先輩は、吃驚していたわ」
立ち上がろうとした俺を制するようなおっぱい様の声。
相変わらず必要以上に気が利くおっぱい様である。
──しかし、檜菜先輩はやっぱり驚いていたか。
ま、幼馴染だか使用人だか付き人だか、そういう仲の良かった同級生が俺と戦っていたんだから、吃驚するわな。
実際、刺客が校内に存在している上に、超能力者の利用価値に疑問が持たれている今の状況で、俺と舞奈さんが戦う理由なんて欠片も見い出せないのだ。
……彼女が内心で抱いていた屈折した感情以外には。
っと。
決闘に勝つためだけに彼女たちの関係を利用した俺が、今さら二人を気にしたところで意味はないだろう。
それよりも……
「……あと、レポートは送っておいたわよ」
またしても立ち上がろうとした俺に向けられた、そのおっぱい様の声に……俺は一瞬で自分の置かれている状況を思い出していた。
──生乳がかかっているんだった!
その衝動に突き動かされるがままに俺は飛び起き、おっぱい様の周囲にある肩を掴む。
目の前のコレも魅力的だが、やはり触ってみたいのも事実。
……それも生で、だ。
「れ、れっ、れれれっ!」
俺自身、凄まじい形相をしている自覚はあった。
──レポートはどうなったっ?
と叫びたいのに声が出ない。
どっかの掃除しているおじさんみたいな言葉しか出ないほど、俺は興奮して我を忘れていた。
声も出せないほどの興奮で我を忘れた俺が、細い彼女の肩を揺する度、たわわに揺れる二つのおっぱい様。
「──っ!」
その揺れ弾む至高の芸術が目に映ってようやく、俺は自分を取り戻していた。
そして揺れる二つの乳房の上で、その二つの膨らみと同じリズムで揺れいた奈々の顔は、俺の心の絶叫に少し五月蠅そうな表情をしたものの、すぐに俺の内心の絶叫につての返事を告げてくれた。
「……誤字脱字は酷かったらしい。でも、内容は十分。
この学校のカリキュラムを変え得るほどに」
何しろ、効果を実証してみせた訳だし……と、おっぱい様の声が続く。
──言われてみれば確かに。
『超能力者による人命救助活動』
俺は図らずしも、自分で思い描いただけの机上の空論を、自分自身で実証してしまった形になったらしい。
──あの時点では他に方法がなかったから飛びついただけなんだが、結果オーライってことで。
「その所為で、明日は緊急の職員会議を行うらしい。
おかげで明日は休みになったとさっき連絡が入った」
──っと。今何時なんだ?
おっぱい様の言葉でふと気になった俺は、渾身の気力を込めることで二つの至宝から視線を外すと、保健室の壁にかかってある時計に目を向ける。
時計の針は夜の七時を示していた。
時計を見た瞬間に、突如として刺すような腹の痛みを感じ、蹲る俺。
「……っ。怪我っ?」
「いや、違う。これは……」
蹲った俺に向けて、慌てたようにかけられた奈々の声を、俺は片手で制していた。
事実、突然の痛みを感じたと言うのに、俺自身はあまり慌てていなかった。
何しろ……この腹の痛みは何度か経験したことがある。
確かコレは、巨乳系グラビアを買うために昼食を抜いた時の……。
──これは……空腹だな。
よくよく考えてみれば、丸一日また何も食べていない。
呆れたようなおっぱい様の顔から目を逸らし、俺は立ち上がっていた。
……取りあえず腹に何か入れなければ、力も出ない。
腹が減っては戦は出来ぬという諺、あれは本当だ。
昼食を抜いた後の午後の授業では何度も感じていたその諺を、この学校に入ってから、更に切実に感じるようになってしまった。
──しかし、三食しっかり出る筈なんだけどな、この学校。
俺の生活、一体どれほどに不規則になってることやら。
「……で、知りたいの?」
保健室から出る寸前、背後からの声。
それが、何を意味しているのか……一瞬戸惑ったものの、すぐに分かった。
──この学校に紛れ込んだ、刺客のことだ。
精神感応能力者であるならば、一瞬で分かる筈の相手。
だけど、彼女はソレを「教えられない」と言った。それは、即ち……
「一つだけ、聞かせてくれ」
俺は、振り返らずに尋ねる。
「先輩がレポートを提出した、反学校派の教師って誰だ?」
「……一年の学年主任。
貴方が心の中で『お局様』と呼んでいたあの教師よ」
俺の言葉に少しだけ躊躇したものの、背後の奈々はそう答える。
「そう、か。
……今まで気付けずに悪かった、な」
「……いえ」
それでようやく繋がった。
……刺客が誰かも、そして、刺客の意図も。
ここ数日、脳内で超能力者の傾向と、PSY指数、
そしてその活用法を考え続けたからこその、理解。
──けど……そんなことってあるだろうか?
俺は、目を閉じる。そして、考える。
刺客の意図を……いや、刺客の後ろ側にいる人間の意図を。
……そして、この学校に居ながら、それを完璧に叩き潰すための策を。
どうやらまだ俺の脳みそは高速回転モードにあったらしく、その策は思ったよりも簡単に頭の中に舞い降りてきてくれた。
「よし、まずは飯、食いに行くか」
今後の方針も決まった俺は、そう背後の奈々に向けて声をかけて保健室から出ようとした。
……だけど。
「──っ!」
突然、背後から抱きしめられる感触に、足が止まる。
──と言うか、この背中が感じている二つの弾力に溢れる感覚は……もしかして、もしかすると、もしかしますか?
「……そんなの、実行する気?
冗談抜きで、命がけになるわよ?」
だけど、俺の感動はそんな……泣きそうな背後の声にかき消される。
俺は、背中を弾力的に押してくる二つの禁断の果実よりも、その更に向こう側にある鼓動を強く感じながら、呟く。
「……生乳がかかっているんだ」
……そして、この背中の二つの感触を失う訳にはいかない。
まさか、入学式当日から約一月弱、この国宝に匹敵する芸術が、ずっと失われる危険と隣り合わせにいたとは。
──知らなかったとは言え、許されることではない。
「……貴方は、最後までそれ?」
背後から聞こえてきたその声は、もう泣きそうな声ではなくなっていて、心底呆れたような声に変わっていた。
だけど、そっちの方が良い。
そっちの方が俺好みだ。
──湿っぽい雰囲気なんて嫌いだからな。
「……あの、私は、ずっと貴方をっ!」
背後から、絞り出すような声。
それが何を意味しているのかくらい、分からない俺じゃない。
俺は首を左右に振って気にしていないことを示す。
……考えてみれば告白っぽい言葉だけど、そうじゃないことくらいは心底鈍い俺でも分かっていた。
──命の危険が絡んでいたんだ。
……他人を犠牲にしてでも助かりたいと思うのは当然じゃないか。
古武術を学んでいて腕に覚えがあり、喧嘩慣れしている俺だって、おっぱいが二つ……いや、四つもかかっていなければ、命なんて張る気はない。
武術の心得もなく、人の心が読めるだけの数寄屋奈々という一人の少女が命を惜しんだところで、一体何の不思議があるのだろう?
「……飯、行こうぜ?」
湿っぽい空気を吹っ飛ばすように背後に問いかける俺。
だけど、俺は振り向かない。
──今の顔を、彼女は見られたくないだろうから。
「……はい」
背後からの声は、思ったより弾んでいた。
その声を聞いた俺は、知らず知らずの内に拳を軽く握っていた。
──良かった。これで心置きなく戦える。