小説『π>ψ』
作者:馬頭鬼()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

  〜 4 〜


 戦いは思いっきり地味に始まった。
 温泉の素を無駄なほど大量に投入することで風呂が白濁し、透明度が1を切った辺りから勝負は始まる。
 風呂に入った全員が一つ頷くと、自らの身体を覆い隠していたバスタオルをはだけ、風呂の外へ出した時が、勝負の始まりだった。

「……三十八度」

 風呂に足だけを入れた奈美ちゃんがそう告げる。
 どうやら今の風呂の温度は、三十八度らしい。
 彼女曰く。

「私は足を入れるだけで五〇度くらいまでなら計れます」

 とのことらしい。

 ──一体、どうやってそんな能力を手に入れたのやら。

 俺は内心でそんな感想を抱きつつも、まだまだ余裕を見せつつ敵側の方を見やる。

「師匠。早くもギブアップするつもりなん?」

「私たちはまだまだ余裕がありますよ?」

「……平気」

 ……まぁ、三八度じゃまだぬるま湯という程度だし、彼女たちはこちらにプレッシャーをかけているつもりなのだろう。
 そうしてなりふり構わずに勝つための手段を模索しているのも彼女たちにとってみれば当たり前で……最後の最後に備えていた筈の保険が全て取り上げられたのだから、コイツらも少しばかり不安を感じているらしい。
 そういう事情を理解した上でも……彼女たちのプレッシャーのかけ方は実に下手で、微笑ましいことこの上ない。
 その手の揺さ振りは、せめてもう少し……我慢の限界に近づいた頃にするべきだろう。

「委員長はこういうの、得意?」

「いえ、あまり……熱いお風呂ってのは苦手で」

 亜由美と委員長は顔を突き合わせて和気藹々と話し込んでいる。
 そうしてしばらくの間、そんな下らないやり取りが続けられた頃。

「四〇度」

 奈美ちゃんの言葉が風呂場に響き渡る。
 四〇度と言えば、そろそろ熱くなってくる頃合いだった。
 道理で確かに、俺の背中辺りをさっきから熱い湯がくすぐっていると……

「てめぇら! はめやがったな!
 ここ、一番熱くなるんじゃねぇかっ!」

 その事実に気付いた俺は、思わず叫んでいた。
 ちなみに思わず立ち上がろうとして……全裸なのを寸前で思い出した俺は、かなりヤバかったと言える。
 事実、委員長なんて、こちらを必死に見つめていたし。

 ──彼女のトレードマークである眼鏡は風呂に入った時点でとっくに曇っていた筈なのに、気付けば曇り一つない透明な眼鏡へと変わっていやがる。

 それも一瞬のことで、すぐに眼鏡は湯気によって真っ白へと曇っていく。
 ……どうやら眼鏡の正面の水滴を、彼女の超能力『乾燥』(シリカゲル)で吸い取ったらしい。

 ──油断も隙もありゃしない。

 はっきり言って、どう考えても超能力の無駄遣いでしかないが……まぁ、この勝負は超能力を使っても良いというルールがある。
 眼鏡の曇りを取るために超能力を使うのも、それもまた使い方を上手いと褒めるべき、なのだろう。

「はっはっは。そんなこと、今さら気付く方が遅いわ」

「私たちは、この勝負のために何度も湯に潜り、下調べをしてきたんですよ?」

「……戦略」

 ──くっ。

 俺の慌てる姿を笑いながらの、三人娘の勝ち誇ったようなその声に……知らず知らずの内に俺は歯を噛みしめていた。
 戦略・策略は強さの内である。
 孫子の兵法で語る「地の利」とは即ち、戦場の下調べを行った上で、自軍に有利な布陣を布け……ということなのだ。
 コイツらの知能では先手を打って策を仕掛けてくることもないだろうと、彼女たちを侮ったのは……どうやら俺の間違いだったようだった。
 どうやって彼女たちが男湯の中の、湯の吹き出し口を調べたかは考えないようにするとしても……

「ちっ。仕方ない、か」

 三馬鹿娘の腹立たしい顔にそう舌打ちを一つすると、俺は厳しい勝負になるのを承知の上で湯船の中で腕を組み、これから始まる地獄へと覚悟を決め直したのだった。



「四五度」

 奈美ちゃんの声が風呂場に響き渡った頃、流石に風呂の中にいる誰もが赤い顔を隠せなかった。
 事実、さっきから俺の背中に当たってくる熱湯は熱いを通り越して痒くなってきていて、そろそろやせ我慢が必要だと俺に囁いてくれている。

「ふふふ。そろそろヤバいんちゃうか?」

「やせ我慢は身体に毒ですよ?」

「……顔、赤い」

 三人娘はそう笑うが、彼女たちの顔もそろそろ真っ赤に染まっている。
 亜由美は身体が小さい分、熱に弱いのかそろそろグロッキー寸前で顔が虚ろになっている。
委員長はまだ余裕がありそうな表情だが、羽子・雫・レキの三人も限界が近いと予想出来る顔色で……

 ──いや、違うっ?

 その事実に気付いた俺は、愕然とした面持ちで『彼女』を見つめていた。

「どうしました?」

 俺の視線に気付いたらしき雫は、そうすっとぼける。
 ……そう。
 同じ温度の湯に入り同じ時間耐え続けているハズの、俺たち六人の中でも、何故か雫一人だけが明らかに涼しい顔をしているのだ。
 顔に出難い体質……という訳ではないだろう。
 ……何しろ彼女は、まだ額に汗もかいていないのだから。

「涼しい顔をしている、よな?」

「あら? そうでしょうか?」

 ──どういう、ことだ?

 口先ではそう答える雫だったが……どう見ても明らかにおかしい彼女の様子に俺はふと視線を向け、原因を理解する。

「なるほど。
 身体全体で能力を使い、冷水を創造することで熱から身を守る、か」

「……よく分かりましたね」

 俺の声に、雫はそう笑う。
 絶対的な勝利を確信した者のみが浮かべるような、若返ったばかりのピッコロ大魔王みたいな笑みを浮かべてやがる。
 ……だからこそ、気付いていないのだろう。

 ──もう自分自身が負けてしまっている、ということに。

「ふふふ。ネタが分かったところで、私は能力が続く限りは無敵ですわ。
 ですからさっさと負けを……」

「いや、お前はもう負けている」

 雫の言葉を遮って、俺は胸に七つの傷のある男のように、静かにそう告げてやる。
 だけど、雫にはその言葉の意味が分からなかったのだろう。

「熱で脳みそをやられましたか?
 もともと、あまり出来がよろしくなかったというのに……」

 痛ましげな表情でそんなことを言い放つ有様である。
 ……だけど。
 普段なら、ちょっとカチンと来るだろうその言葉も、今の彼女が口にすればただの道化に過ぎない。

「負け惜しみは止めて降伏したらどうですか?
 私は優しいですから、たったの一〇秒で勘弁してあげますよ?」

 ただ、自分の状態に気付かずに笑みを浮かべる彼女がいい加減可哀想になってきた俺は仕方なく、ネタばらしをしてやることにする。

「雫、確かにお前の能力と、発想の着眼点は凄いと思う。
 だけど、な?」

「……だけど?」

「身体の周囲から冷水を発生させれば、湯の透明度が下がるんだよ。
 言っただろう?

 ……お前はもう負けていると」

 哀れな敗残兵から視線を背ける仕草とその声に、ようやく思い当たったのだろう。
 雫は自分の身体を見下ろして……半透明な湯の向こう側に、薄ピンク色の二つの突起がうっすらと見えていることにようやく気付いたらしい。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」

 声にならない悲鳴を上げながらお湯から逃げ出し、脱衣所の方へと走り去って行った。
 俺は逃げ出していく彼女の姿を凝視、することもなく。

「顔をそむけるなんて紳士やな」

「……意外」

「ま、武士の情け、さ」

 首を傾げる羽子とレキに、俺は平静を装ってそう言葉を返していた。
 実際のところ、俺としてはAAなんかにそう興味はなく……いや、それ以上にこの身体中が茹っている状況で、誰かの裸を直視してしまうと……その時点で脳が熱にやられ敗北するのが分かり切っていただけだ。

 ──AAで、終わってたまるかよ。

 そう。
 俺は、せめて負けるならこの場にいる最高クラスの双峰を……せめてBくらい、つまり委員長かレキのを拝ませて貰わなければ、割に合わないと計算しただけである。
 しかし。
 武術も何も使うことの出来ないただ忍耐力のみが必要とされるこの勝負……未だに脱落者がたった一人出ただけであり。

 ……まだ序盤でしかないのだった。

-33-
Copyright ©馬頭鬼 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える