〜 6 〜
「……馬鹿か、お前ら」
目を覚ました俺を待っていたのは寮長でもあるらしい繪菜先輩の冷たい視線だった。
……そりゃそうだろう。
男湯の無断使用、男女混浴、ボイラー施設への凄まじい負荷、湯船のタイルを超能力で引きはがす。
その挙句に湯あたりで負傷者二名を出す始末だ。
──これで問題にならない訳がない。
まぁ、負傷者と言っても俺は軽傷だったし、亜由美のヤツも水を飲んで安静にすれば治るらしいので問題はなかったのだけど。
ただ、それよりも問題は……
「へっくしょんっ!」
「自業自得だ、馬鹿者が」
盛大なくしゃみを放った俺を車椅子から冷たく見下ろしながら、繪菜先輩は静かにそう吐き捨てる。
何しろ今の俺はタオルを腰に巻いたままで正座中なのだ。
まだ五月も中旬で、寒いことこの上ない。
「……いや、その、服ぐらい」
「混浴するくらい身体に自信があるんだ。
上半身を見せるくらい、別に何でもないだろう?」
俺の抗議の声は、繪菜先輩の冷たい言葉にあっさりと封じられる。
──なんか、思いっきり機嫌が悪いよな。
俺は唇を尖らせたものの……だからと言って悪いのは全面的にこちら側だと理解している以上、反論の言葉すら浮かばない。
それに加えて、湯船に沈んだ俺を助けてくれたのはこの繪菜先輩だったのだ。
委員長は亜由美の救助で手一杯だったらしく、彼女の声を聞きつけた他の人たちは熱すぎる湯船に入れず……
結局、繪菜先輩の『不可視の腕』が唯一俺を救える手段だったらしい。
「ったく、手間かけさせやがって。
あのくそ熱い湯からお前を助け出すの、どれだけ苦労したと思ってやがる」
こちらを睨みつけながら繪菜先輩はそう唇を尖らせるが、俺は彼女の抗議を完全に無視し、全く別のことを考えていた。
──ったく。見られ損じゃねぇか。
そう。
全裸で風呂に沈んだのを救助されたってことは、つまりがそういうことである。
まぁ、別に見られても減るものじゃないし、別に構いやしないのだが。
──せめて誰かのおっぱいを、一目で良いから見たかった。
見られたのは兎も角、そんな後悔が俺の胸に残っている。
「大体、お前らもお前らだ。
今年の一年はアホばっかりか?」
そう言って繪菜先輩は要らぬことを考えていた俺から視線を移し、俺の背後に正座させられている連中へと視線を移す。
当然のことながら、正座させられているのは俺だけではなく、まだ戦闘不能状態の亜由美を除き、あの勝負に参加した全員が正座させられ、反省の真っ最中である。
とは言え、タオル一丁という惨めな姿を晒しているのは俺だけだったりするが。
「大体、何でこんな馬鹿をやらかしたんだ?」
「えっと、その……」
視線を受けた委員長は俯いて固まってしまう。
……そりゃそうだ。
同人誌を描くために男性局部の精密な描写が必要だったとは言えないのだろう。
「……お前は?」
っと。
委員長を生暖かい視線で見守っていたら、こっちに飛び火してきやがった。
凄まじく冷たいその視線を受けて、俺は正直に真実を語る以外に道はないと悟っていた。
──尤も、嘘を吐くなんて選択肢、俺にはもともと存在しないんだが。
「あ〜。この勝負を受けると、その、勉強を教えてくれると……」
「まっとうにテスト勉強をすれば良いことだろう?
何をアホなこと、やってんだ、お前は……」
返す言葉も見当たらないと言うのはこのことだろう。
ただ、あの時はそうするしか他に選択肢がないように思えたのだ。
事実、俺の超能力のテストは、のび太君が日頃隠しているテストに匹敵するほどヤバかったのだから。
「……で、お前たちは?」
「……えっと、その」
「済みませんでした」
「……反省」
普段は何かと口やかましい三馬鹿娘も、叱られるとなると借りてきた猫のように静かになるらしく、反論一つせず俯いていた。
「ったく。爺から電話がかかってきたその日に、こんな問題起こしやがって。
寮の施設もただじゃないんだぞ、畜生が」
だけど、中学時代にヤンチャをしていた俺は叱られるのには慣れていた。
……だからだろう。
その繪菜先輩の口ぶりに、ふと気になる点があったのは。
「……電話、とは?」
「あ〜? 祖父から文句が来たんだよ。
寮の経費を仕分けしろと、野党連中から突き上げが五月蠅いってな。
世界一のスパコンや世界最高の技術力を持つ小惑星探査機の事業費を仕分けする連中だからな。
こんな学校なんて、よっぽど目立つ突き上げ材料なんだろうよ」
──そりゃそうだ。
俺は彼女の声に内心で頷いていた。
……考えてみれば当然だろう。
だって、この『夢の島高等学校』は全校生徒がたったの28名しかいない小さな高校である。
だと言うのに、この寮は六階建ての完全バリアフリー、エレベーターに暖房完備。
食堂はかなり美味しい食事を、A定食・B定食・C定食から選べる仕組みで、しかも注文すれば色々な料理も作ってくれるのだ。
男子は二人しかいないのに、男子浴場はあるし男子トイレも女子トイレと同数あってトイレに苦労した記憶はない。
その挙句、掃除をした記憶もないのにトイレも風呂も廊下も教室も常にワックスかけたばかりのように綺麗なのだ。
──つまり、掃除するための人を専属で雇っているって訳である。
他にも自室の設備はかなり高級品だし、舞斗のヤツが応接室をぶち壊した時や、レキが今日風呂のタイルを引き剥がしたように、超能力を振るってあちこちの設備が壊れるなんて日常茶飯事だった。
生徒会長が校舎を引き摺るなんて無茶苦茶をしでかす某箱庭学園に負けずとも劣らないだろう損害だらけの日々なのだ。
──こんな状態で経営がまともに行くはずがない。
潰れていないのは単にこの『夢の島高等学校』が超能力者の隔離施設……つまり国が経費を出してくれているからに過ぎない。
「それで、経費節減をしろと言ってきたのですか?」
「いや、そうじゃなくて……」
委員長の言葉に繪菜先輩は首を左右に振って……
──俺と視線が合った途端、固まった。
「……?」
俺は彼女の視線の意味が分からずに首を傾げる。
だが、繪菜先輩の表情は……まるでノートが手元へと戻ってきた時の新世界の神のような、悪どい笑みへと変わって行く。
「お前、確か超能力のテスト、赤点確実だったよな?」
「……う」
いきなり痛恨の一撃を喰らい、俺は黙り込む。
曾祖父の教えを順守するならば正直に頷かなければならないところだろうが、まだ俺はそこまで全てにおいて達観している訳ではなかったのだ。
ちなみに、確実ではない。
まだ次のテストで六〇点以上を取れば、助かる可能性は残っている。
……例え次のテストで六〇点を取れる可能性がどれほど低かろうとも、ゼロではない以上残っているのは間違いじゃない。
そんな俺の葛藤と苦難に満ちた、だけどまだ絶望には染まっていない表情を見た繪菜先輩は、ふと笑いながら口を開いた。
「テストを受けずに赤点を回避できるとしたら、どうする?」
……それは、悪魔の誘いだった。
彼女は人の弱みを理解した上で、そしてこちら側が断れないのを分かった上で、魅力的なその選択肢を用意してきたのだ。
──奇跡も、魔法もあるんだよ、か。
……そう。
繪菜先輩が指し示した道は、俺にとってはまさに奇跡や魔法にも等しい抜け道だった。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
──多分、この誘いに乗れば、俺は後悔することになるだろう。
俺ももう高校生だ。
どっかの和牛牧場出資詐欺の一例を見れば分かるように、上手い話には裏があることくらい、今までの人生経験でよくよく理解している。
恐らく、後になって「ひどいよ、こんなの、あんまりだよ」とか「あたしって、ほんとバカ」って嘆くことになるのだろう。
……今この現在、タオル一枚という恰好で正座して震えながら、アホな勝負に乗ったことを後悔しているように。
──だけど。
赤点という現実を前に……俺には、他の道は残されていなかった。
だから。
「……俺は、どうすれば、良いんだ?」
俺は、後で対価を支払うことになると知りつつも、そう告げていたのだった。