小説『π>ψ』
作者:馬頭鬼()

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 〜 4 〜


「行くぜっ!」

 合図と同時に飛び出したのは、当然のことながら俺だった。
 何しろ、数寄屋奈々という少女は格闘技能を持ち合わせていない。

 ──である以上、この一撃を防ぐことなど出来ないだろう!

 俺はその確信と共に、右腕をまっすぐ一直線に、最大速度かつ最大の配慮を持ってその左の膨らみへと……

 ──ガツンっ!

「っつっ?」

 伸ばしたその腕を、狙い澄ましたかのように右手の靴下で払われる。
 小石入りの靴下を喰らった右腕には、痺れたような衝撃が走る。

「これしきのことでっ!」

 だが、感情に任せ『動』の気を発動している状態の俺は怯まない。
 もう片方の腕……左手がまだっ!

 ──ガンっ!

 叫びながら突き出そうとした俺の左手は、彼女が左手に隠し持っていたらしいもう一つの靴下によって叩き落される。
 今度のは人差し指と中指を強打された所為か、痺れが肘まで響く。
 ……下手したら、これ、突き指くらいは……

「それでもっ!」

 だけど、ネジの飛んだ今の俺には、痛みすら感じやしない。
 もう一度叫びで気合を入れると、少し痺れの残ったままの右手を突き出そうと……

 ──ゴツンっ!

 次に飛んできたのは先ほど喰らったばかりの右手の靴下だった。
 こうなることを予測して俺に一撃を喰らわせた後、既に振りかぶっていたらしい。
 全ての動作で揺れ弾む二つの至宝にばかり目が向いていた俺は、彼女が振りかぶったその予備動作すら見えていなかった。

「〜〜〜っ」

 手首辺りを払われたその一撃によって、右手の感覚がかなり鈍くなる。

「だとしてもっ!」

 例え両腕が使えなかったとしても、怯んでなんかいられない。
 何処かの異種格闘トーナメントの決勝戦で発動した某圓明流奥義「玄武」も、両腕をへし折られた状態で発動していた。

 ──ならば、俺もっ!

 俺は内心でそう叫びながら、残された顔面を彼女の谷間に向けて直線で突出し……

「……馬鹿」

 ──ゴンっ!

 完全に狙い澄まされた一撃を側頭部に喰らい、俺の意識は一瞬だけだが完全に吹っ飛んでいた。

「……つっ」

 こめかみに鈍器でぶん殴られたような痛みが……いや、痛みよりも、衝撃がキツい。
 恐らく、軽量級のボクサーにフックを喰らったらこういう感じなのだろう。
 視界が揺れ意識がまとまらず手先と膝から下の感覚が鈍い。

 ──これは、ヤバい、ぞ。

 殴打や刺突、斬撃など直接肉体にダメージを与える以外の、脳に衝撃を与える類のダメージに俺は戸惑いを隠せない。
 正直、俺は……こういうダメージはあまり喰らった記憶がないのだ。
 そんな状態でも、追撃に振るわれた横薙ぎの一撃をダッキングして避けられたのは……身体が勝手に動いたお蔭……曾祖父による訓練の賜物だった。
 慌ててふらつく足でブラックジャックの射程外へと後退した俺は、右足を軽く床へと打ちつけて感触を確かめる。

「凄いっ! 数寄屋さんって何か、習っていたの?」

 さっきのやり取りを見てそう外野から尋ねたのは亜由美だった。
 空手を嗜み格闘技好きの彼女にしてみれば、そういう……誰が何故強いというのは興味津々なのだろう。

「……別に。
 これくらい、動きを読めば、容易い」

 亜由美の問いに対する彼女の答えはそんな簡単なものだった。
 そこで俺はようやくおっぱい様が、いや、数寄屋奈々という少女が精神感応者(テレパス)だったことを思い出す。

「……まさか、忘れてたの?」

 いや、まぁ、実際のところ……はい、忘れてました。

 ──如何にあの二つの双峰へと手を伸ばすか以外、何も頭の中になかったもので。

 だが、そのお蔭で俺は冷静を取り戻していた。

(頭に血が上った状態じゃ、技は生きぬ。
 常に平静を心がけるのじゃ、和之進!)

(だから、曾祖父ちゃん。俺、和人だぜ?)

 数年前、師匠である曾祖父からそんなことを教えられていたっけな。
 今はもう亡き師の教えを思い出した俺は……息を吸い、勢いよく一度吐き出すと。

「よしっ!」

 気合を入れ直す。
 そもそも俺の格闘スタイルは冷静に相手の攻撃を捌いて防御を固め、相手の隙を狙うという防御型である。
 某史上最強の弟子的に言えば確実に『静』のスタイルなのだ。
 正直、さっきまでみたく、頭に血が上った状態で遮二無二に攻めるような、そういうのは向いていない。

「さて、と」

 冷静さを取り戻した俺は、少しずつおっぱい様へと距離を縮めていく。
 何があっても対応できるように両腕を身体の前へ構えたまま、慎重に一歩ずつ一歩ずつ。

 ──その瞬間、だった。

「んっ」

「〜〜〜〜っ?」

 おっぱい様が突然、意味もなく『真上へ』小さく跳んだのだ。
 格闘ゲームで言えば、その場小ジャンプというヤツだ。

 ──勿論、格闘技にそんな技がある筈もない。

 だが、俺にとってそれは完全に『死技』だった。
 揺れ弾むその二つの膨らみに、吸い込まれるように顔を突き出した俺は、見事に左からの大振りの靴下を喰らう。
 一応、ガードは成功したが……いや!

「まだだっ!」

 ──このガードをしたその腕を掴んで崩せば、あとは幾らでも……

 そう俺が手を伸ばした、その瞬間だった。

「──っ」

 一瞬で俺は『そのこと』に気付き、慌てて掴もうとしたその手を戻すと、バッと後ろへとバックダッシュして距離を取る。

 ──なんて恐ろしいことを考えるのだ、このおっぱい様はっ!

 俺は内心で叫ぶと、知らず知らずの内に流れていた冷や汗を拭う。

「何やってんだ! 和人〜〜〜っ!」

「さっきの、掴めてたやないかっ!」

 外野から野次が入る。
 ……が、そうじゃない。
 彼女としては、これで良いのだ。

「……多分、出来なかったのです」

「何で? 和人は触れば勝ちなんでしょ……あっ!」

 奈美ちゃんの声に亜由美が首を傾げ……その途中でようやくG級おっぱい様の、いや、数寄屋奈々という少女の企みに気付いたようだった。

「もし指一本でも触れば、この戦いは……和人さんの勝ちなのです」

「だけど、師匠には別の目的がある」

「つまり、ただ勝っても仕方ない訳ですね」

「……馬鹿」

 ……そう。
 そうなのだ。

 ──触れれば勝てる。
 ──だけど、勝ってしまえば俺はもう彼女に触れることが出来ない。

 つまり、俺は掴み技も崩し技も使うことが出来ず……精神感応という完璧な読みを突破して彼女に触れなければならないのだ。

 ──すると、使える技は……

 考えれば考えるほど、俺の持ち技のほとんどが使用不能だと分かる。
 ……彼女の空振りを誘おうにも、こうして待たれている状況ではそれも望めない。
 彼女は、数寄屋奈々という策士はこうなることを見越して、一見自らを不利に陥れるような『触れれば自分の負け』というルールを提案したのだ。

 ──全ては……格闘技能を持つこの俺に、格闘技能を使わせないためにっ!

「ふふっ」

「……くっ」

 俺の焦りを見透かしたかのように二つのおっぱい様は上の乗っかっている顔の笑いに連動するかのように微妙に揺れておられる。
 ……そう。
 あの二つの膨らみが、その揺れ弾みたわむあの姿が、俺から心理的余裕を奪うのだ。
 その度に痛打を喰らってしまい、いい加減ダメージがキツい。

 ──だったら、俺が取れる手は……


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