〜 弐 〜
「……どうなってんだ?」
目を覚ました俺は、二十八日くらい寝過ごした洋画の主人公みたいな気分に陥っていた。何しろ、起きてみれば寮の中に人の気配が全くしないのである。
昼食までの三十分だけ昼寝をした俺は、目が覚めてすぐに食堂へ向かったのだが、本当に寮内には誰もいやしないのである。
あの映画に忠実に「へろーへろー」って叫ぶ気にもならず、さっさと自分の部屋に戻り、携帯電話を探して……ここでは使えないため持って来なかったことを思い出す。
機密保持のためとやらで、学校周囲の壁から妨害電波が出ているらしい。身体測定で保健室に案内されたときに、お局様からそんなことを聞いていたっけ。
「……えっと。時計、時計っと」
普段から携帯を使う癖を付けすぎたと反省しつつ、俺はテレビをつけて放送されている番組を見て……
「……何が、起こった?」
DIOのスタンド攻撃を受けたポルナレフのような気分になった俺は、正気を確かめるかのように、ゆっくりと二度首を振る。
一人部屋の俺は「超スピードとか催眠術とかそんなチャチなものじゃ絶対にない」なんて説明する相手もおらず、目の前の理解できない現実を前に、言葉すら出ない。
身体中を湿らせていた寝汗が、徐々に冷や汗に変わっていくのを感じつつ。
「こんなことしている場合じゃねぇっ!」
やっと我に返った俺は、すぐさまテレビを消すと、とっとと寝る前に着ていた制服を脱ぎ捨て、新しい制服に着替える。
寝汗と皺だらけの制服で一日を過ごす気にはならない。
──例え、今がどんな状況だったとしても。
と言うか、そんなことをして現実逃避をしないと、今の俺が立たされている状況を全く理解出来なかった訳で。
「何で誰も起こしてくれなかったんだよ!」
自らが望んだ一人暮らしに思いっきり八つ当たりしつつも、慌てて自室を飛び出す俺。
えっと。結論から言うと。
……見事に寝過ごした訳だ。
ほんの三十分程度寝る予定だった俺の睡眠時間は、おおよそ二十倍を超える高額レートで取引されたらしく、気付けば翌日の朝。
しかも、十時過ぎ。
初日から、いきなりやらかしてしまった俺は、とっとと走る。
既に取り返しのつく時間帯でもないし、ここまで遅刻をしでかすと今さら心証も何もあったものではない。
が……一応、頑張りましたの言い訳程度は見せないといけないだろう。
「遅れ、ましたぁ!」
俺は走る勢いのまま全身の勢いを緩めずに、ドアを開いて教室に飛び込むと、呼気を利用して叫ぶ。
だけど、その教室には昨日の半数、十人くらいしか座っていなかった。
……あれ?
「っととと」
その事実に気付いた瞬間、上履きの靴底をブレーキ代わりに急制動する俺。
冷静になって見回しても、教室に座っているのはやっぱり昨日の半数で。
……リストラ?
「遅いぞ。佐藤。というか、貴様は隣の教室、一年二組だ」
そんな俺を酷く冷たい表情で迎えて下さったのは、昨日のお局様という表現が非常に似合っている、一年の学年主任である。
相変わらずの三角眼鏡が凶悪さに拍車をかけている。
と言うか、ゴルゴーン三姉妹の末っ子と対峙した英雄の気持ちが少し分かるような。ヘラクレスだったか、ペルセウスだったか。
しかし相変わらず事務的で冷たい口調だな。
折角Cクラスの潜在能力を秘めているのにもったいない。
と言うか……隣?
新入生は定数の1割程度……二十人くらいしかいなかったというのに、まるでクラス分けでもあったような……
──あったんだろうな。
多分、俺が寝ている間に。
「そりゃまた、しっつれ〜しましたっ!」
何処かで聞いた事のある芸人の真似をして、クラス中から注がれる冷たい視線を緩和しようとしたのだが、俺の努力の甲斐もなく、視線の温度のマイナス三〇℃は一瞬でマイナス五〇℃くらいまで下がりやがった。
居心地の悪い空気から逃げ出すかのように慌てて教室を飛び出す俺。
隣の教室は文字通り隣にあったし、中で人の声がするので分かり易い。今度こそ間違いないと思って、飛び込む。
「遅れました!」
「はい。佐藤和人くんですね。初日から遅刻ですよ?」
教室に飛び込んだ俺を、そう言って迎えてくれたのは……マネキンだ。
あ〜。入学式にこんなのあったな〜。
全く、何処の馬鹿が教壇に置いたんだか。暇なヤツもいたもんだ。
「んで、先生は?」
目の前のマネキンを退かそうと小脇に抱え込みつつ、俺はクラスメートに向かって尋ねる。
俺の質問を聞いたクラスメイトたちは……全員が俺の方を指差しやがった。
HAHAHA,おいおい、俺は先生じゃないぞ?
指差された俺は思わずアメリカンコメディの俳優みたいな、ハイカラな突っ込みをしようと肩を竦めた。
……その時だった。
「ちょ、ちょ、ちょっと。流石にこれは扱い酷いですってば」
俺が小脇に抱えていたマネキンが喋りやがった。
しかも動こうとする。
「ん? どうなってんだ、このマネキン」
多分、この辺りにスピーカーでも入ってるんだろう……そう思った俺は、とりあえずマネキンを床に立たせ、胸ポケット辺りを弄ってみる。
動いているのは、多分、ワイヤーが何処かにあって……それはこの腰辺りに集中している率が高そうで……
「きゃあああああああああああ!」
すると、マネキンが突然悲鳴を上げて、いきなり右手を振り上げっ!
「おっと」
いきなり攻撃された俺は、右手の大振りの一撃をしゃがんで回避。
同時にその手を握って引っ張りマネキンの体勢を崩し、立ち上がる動作を利用して。
──ポイッと。
……あ〜、無意識に出ちまった。
曽祖父から教わった古武術。
つーても、曾祖父が亡くなってからはまともに鍛えてないから、大したことは出来ないんだけど。
「んで、先生は?」
「……和人さん、だから、それが、先生です」
と、俺に話しかけてくれたのは、昨日のサングラス少女……奈美ちゃんだ。
……へ?
慌てて俺は放り投げたマネキンを眺める。
確かに女教師みたいなスーツを着込んでいるし、思いっきりひっくり返った所為でばっちり詳細まで見える下着も……アダルトな感じのシルク製。
レース模様が凝りに凝った感じのヤツ。
ついでにガーターベルトまでしてやがる、このマネキン。
確かに下着だけならアダルトで、女教師と言われても納得出来る。
親父の書籍で見た、日活ロマンとかって映画の世界の話だが。
……でも、まさか?
振り向いた俺の表情で言いたいことが分かってくれたのだろうか。教室中の全員が頷くことで、俺の疑問を解消してくれた。
「きゅ〜〜」
「うわ、先生、大丈夫ですか!」
とりあえず、事態の収拾に三十分はかかり、それには多大な労苦と忍耐を必要としたとだけ言っておく。
「で、では。今日から一年二組のお友達となります、佐藤和人君です」
「……何故、転校生扱い?」
まだ放り投げられたショックが抜け切れていないのだろうか?
マネキン教師(名前がマネキンらしい。舐めている)は俺をそんな風に紹介しやがった。
──ただでさえこの学校でやっていけるかどうか不安だってのに。
学校内で超能力者じゃない俺は異物でしかない。と言うのに、こういう扱いされると孤立感が鮮明に感じられて、とっとと逃げ出したくなる。
……やっぱ、この学校でやっていくの、無理かも。
「席はあちらです」
お。俺の突っ込みを無視して進める気らしい。
結構強引だな、このマネキン教師。
──ま、偽乳には興味ない。
と俺は肩を竦め、言われた席に向かう。
俺の席は二列目の真ん中だった。
まぁ、最前列よりはマシ……と言っても、十人しか居ない教室だからあまり差はないけれど。
というか、この教室、どう考えても五十人くらい入れる筈なんだけど……二〇人しかいない一年をわざわざ二クラスに分けて、何を考えているんだこの学校。
と、俺が自分の机を見ると、教科書の束が置いてあった。
誰かが運んでくれたらしい。
席までの道中は安全だった。こういう転校生役やらされるなら、足をかけられるくらいは覚悟していたのだが。
……流石に教師投げた生徒に足をかける馬鹿はいないらしい。
そもそも俺の前の席は奈美ちゃんで、足を引っ掛けるとは思えないけれど。
「やっ。和人。奇遇だね」
と、俺が席に着いた途端、隣から声がかかる。
あ〜。昨日話しかけてきた中空亜由美だったかな?
彼女は相変わらず特徴らしき特徴がない平坦な少女で、お陰で名前を思い出すのに時間がかかってしまった。
「さっきのアレ、何? 超能力?」
興味津々という感じで、亜由美が身を乗り出してくる。
俺はその言葉に肩を竦め……
「……古武術だよ。曽祖父が免許皆伝だったらしくてさ」
そう答える。
ちなみにこれは嘘じゃない。
俺が小学生の頃、百歳を目前に控えた曽祖父が教えてくれたのだった。俺に幾つか技を授けて……九十九で逝っちまったけれど。
しかし、最期まで俺のことを和乃進と呼びやがったんだよな、あの曽祖父。
尤も、和乃進という名の俺の爺さんも、ついでに俺の親父も、武術的な才能は欠片もなかったらしいから……そういう意味じゃ、俺が孝行したことにはなるかもしれない。
「へぇ。ボクも空手やってたから、今度手合わせしよ?」
おお。珍しい。こんな学校でそんな言葉が聞けるとは。
体格・性別・体重・筋肉の付き方から、まともに組み手出来るとも思えないが、それでも話が合う人間がいるのはありがたい。
と、ついつい話が合う相手がいたから油断してしまったのだろうか?
「んじゃ、超能力は? アッシュってんでしょ? どんなん? どんなん?」
「……っ!」
突如出てきたその単語に、俺は調べていた教科書を撒き散らしてしまう。
何で、その言葉が普通になってるんだよ。
周囲のクラスメートも似たように興味津々でこちらを向いているし。
正直者でいようと心がけている俺が吐き続けなければならない嘘は、知らず知らずの内に既にクラス中で周知の事実になっているらしい。
あ〜。もう。少しだけイラついた俺は、睨みながらこの事態を招いた原因を探す。
……いた。
亜由美の前の席で申し訳なさそうに頭を下げている奈美ちゃんと。
その亜由美の反対側。
机に突っ伏した格好で顔だけ上げて悪戯っぽそうに笑っている、諸悪の根源にして……おお、机と重力の狭間で形を変える芸術が……やっぱ凄いな〜。
……あ、うん。いいや、もう。
どうやらさっきまで俯いていたから、腕の影に隠れたあの二つの神器に気付かなかったんだな。
──俺としたことが、不覚だった。
「ねぇってば。和人。聞いてる?」
っと。
幾らサイズが乏しいからって、亜由美を放置する訳にもいかない。
「……秘密だ」
取り合えず、そう言いつつ、俺は愛想笑いを浮かべていた。
と言うか、笑って誤魔化すしかなかったと言うか。
正直な話、嘘を吐くなんて慣れてないから……とてつもなく引き攣りまくった笑みになっていた自覚はある。
「え? あ、うん。そう」
思いっきり引かれてしまったのは亜由美の表情を見れば分かったが、他に答える術を持たない俺にはどうしようもない。
あ、そうだ。実戦のみ使える能力とかにしておくかな?
学校生活でそうそう実戦なんてないだろうし……
「……あるわよ」
と、突然声をかけてきたのは、身体を起こし、その姿を顕現されたおっぱい様で……おおお。一日くらいじゃこの感動は薄れないな。
この立体でありながらなだらかな曲線を保ち、それでいて質量感を失わないという、人間の肉体の一部とはとても思えない、まさに神の創りし神秘と以外に語りようのないその芸術を目の当たりにして俺は……
「っ! ……正気に返りなさいっ」
「っと。実戦があるのか?」
「……時間割、見なさい」
相変わらず、おっぱい様の持ち主様は冷たい視線を向けてくる。
ま、精神感応者の眼前で、あの双丘を褒め称える言葉を脳内で羅列していたのだから、自業自得と言えばそれまでなんだけど。
言われたとおりに時間割が書かれたプリントを捜し出し……見てみる。
どうやらそこには今週の時間割が書かれているようで。
今日の時間は、ロングホームルームに、数学。
んで、さっきからやっている物理……全く耳に入ってこないけど。
えっと、それから……
「超能力〜〜?」
その時間割を見た瞬間、つい叫んでしまった。しかも、ほぼ毎日ありやがる。
「あ〜。やっぱりそうなりますか」
俺の叫びをすぐに理解したのだろう。マネキン教師は授業妨害を咎めることもなく、微笑み(っぽい気がする動作をし)つつ説明してくれる。
「それは、超能力開発の授業です。未だ解析出来ていないところの多い超能力というものに対し、その能力を高める授業を行うのですよ」
……これ、何もしなくても単位貰えるんかな?
「……大丈夫。ESP能力者は能力解析すら出来ていないから、普通の体育と同じ扱いで良いらしいわ」
俺の内心の疑問を読み取ってくれたのだろう。
慈悲深い慈母の如きおっぱい様が、そんな素晴らしい言葉を投げかけてくれる。
古武術なんてやっていたから、体力にはちょっとばかり自信があるし……これなら、卒業できないってことはなさそうだ。
「私は、運動、苦手なんですけどね」
前の席の奈美ちゃんが、気弱そうに笑う。
まぁ、目が見えない活発な人ってあんまり聞かないからな〜。
そう言えば、教科書も点字なのだろうか。
……ま、良いか。こういうことは下手に詮索するのも悪いし。
何てことをやっていたら、チャイムの音が。
って、さっきの物理の授業、先生の話の一単語すら頭の中に入ってこなかったぞ?
「あら。今日はこの辺りで終わります。
では、次は超能力の授業ですので、体操服に着替えたら、体育館に集合して下さいね」
マネキン教師はそう告げると、教室を出て行った。
俺としては、さっきの授業は耳には入っていたのに脳裏には一切入っておらず……遅刻した挙句に教師を投げ飛ばし、更には授業中に叫びだす始末で。
ただ授業妨害をしただけみたいな感じだったので、少しだけ罪悪感が。
ま、物理なんて聞いても分からないんだろうけど。
「しかし、体育か。体操服なんて持ってきてないぞ?」
「あはははは。昨日、寮で配っていたんだけどさ」
俺の独白に笑顔で混ざってきたのは亜由美だった。
どうやら昨日寝過ごした俺が全面的に悪いらしい。
……否定のしようもないが。
「はい。これ。貰っておきました。これからは注意して下さいね」
そう言って笑顔で話しかけてきたのは奈美ちゃんだった。
おお。気が利く。
嫁にするならこういう娘が良いな。うん。
生憎と、個人的にこのくらいの……手のひらサイズは好みじゃないのだけど。
「ああ。ありがとう」
「は、はい。私、着替えるの、遅いですのでっ!」
笑顔で俺が礼を言うと……奈美ちゃんは走って教室を出て行った。
体操服を受け取ったときに手がちょっと触れ合ったから……照れたのかな?
でも、思ったよりもこう……女の子の手という柔らかい感じじゃなかったけど、やっぱり杖を毎日持つ所為だろうか?
しかし、走り出した彼女、足はかなり速かった。
……本当に運動苦手なのだろうか?
「和人、いこ?」
「……ああ」
呆けているとまた遅刻してしまう。
亜由美の言葉に頷いた俺は、彼女の後ろを歩いて体育館に向かうことにした。
……何しろ、昨日盛大に寝過ごしてしまった俺は、まだ体育館への順路や更衣室の場所すら分からないのだから。