僕は昭和46年、当時30歳の父と19歳の母の間に生まれた
母の身体では自然分娩できず、帝王切開で生まれた一粒種だった
その当時の技術では帝王切開をするともう次には子供は望めなかった
一人っ子として育てられた僕が自意識として初めて認識したのは
父の母へのDV(ドメスティック・バイオレンス=家庭内暴力)だった
やがて僕が小学校に上がると
父のDVは僕にまで及びだしたした
幼い頃から父は何でも僕に1番になることを押し付けた
その期待に応えることができたこともあったし、出来ないこともあった
出来なかった制裁には「しつけ」という名のDVが待っていた
鼻が折れ、顔がドッジボールほど腫れ上がるほど殴られながら
「誰も信用するな」ことあるたびに父は僕の耳元でささやいた
それは簡単な事だった
真っ先に信用しなくなったのは父の事だったから
それでも父に褒めてほしい一心で一生懸命勉強しても
馬鹿な僕には父の期待に応えることができなかった
すぐに熱を出したり小児腎炎を患って虚弱体質だった僕は
スポーツでも一番になったことはなかった
お前が悪いからだ
僕がテストで悪い点を取るたび母がとばっちりを受けて殴られた
母の愛は歪んでいき、父が仕事で不在の時は僕の体の、外からは見えない部分に煙草を押し付けたり
鼻の穴に蜂蜜のチューブの口を突っ込み、力いっぱい流し込んだ
やけどの痛みや息のできない苦しみに泣き出す僕を見ると、母は僕をを抱きしめて
「ごめんね、ごめんね」と泣きながら、今度は女の子の服を着せて優しく可愛がってくれた
自分の受けるDVをいびつな愛として表現していたんだろうと思う
僕はなすがまま、母が飽きるまでつきあってあげた
どこで買いそろえたのか、女の子物の服に包まれて
宝物のように扱われるのは、僕にとって何物にも代えがたい幸せなひと時だった
小学校の間、あざや、今でもうっすらと残るやけどの跡が消えることはなかった
家に居場所はなく、しかたなく学校の保健室で一日を過ごした
小学4年生の時にしつこく教室へと連れて行こうとした、教員免許を取ったばかりのような若い女性担任ともめて、生まれて初めて人を殴った
先生のめがねを踏み割り、顔面にこぶしを打ち付けるのはある種の快感だった
恍惚感と涙でぼんやりとした視界と感覚の中で、幼いながらも自分が堕ちていくのがわかった
「誰も信用してはいけない」それだけが耳の中でこだましていた
校長室に呼ばれ、両親がよばれ、担任がニヤニヤと様子を見守る中
僕は父親に顔が変形するほど殴られた
目の血管が切れて、白目と視界が真っ赤に染まって、鼻からどす黒い粘質な鼻血がどろどろと垂れだして、やっと「問題児」というレッテルを張られた後、暴力から解放された
僕は次の日から特殊学級の児童たちと、校長先生とで「園芸部」という活動をすることになった
学校の花壇の花に水をあげたり、種を植えたり肥料をあげたり。
特殊学級の下級生たちは無邪気に土にまみれ、歓声を上げながら楽しそうに作業をしていた
僕は日陰でその様子を一日ぼんやり見て過ごした
放課後家に帰っても共働きで、誰もいなかったので晩御飯はホカ弁を買って一人で食べるか、食べないかだった
帰ってきても、もう両親共に僕をまともに見ることはなかった
両親のネグレストの始まりだった